24.「ヨハネの福音書12章の『一粒の麦』というしるし」
24. ヨハネの福音書12章の『一粒の麦』というしるし
ベレーシート
●12章は、過越の祭りの六日前(土曜)にイェシュアがベタニアに来られたところからはじまり、そこは「シモンの家」であり、そこにマルタ、ラザロ、マリアもおり、当然、弟子たち、またラザロの奇蹟を見てイェシュアを信じた人々、さらに彼らによって「大勢のユダヤ人の群衆」がイェシュアがおられると知ってやって来ました。彼らは「イェシュアに会うためだけではなく、イェシュアが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった」と記されています。「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した」とあり、その理由は「彼(ラザロ)のために多くのユダヤ人が去って(離れて)行き、イエスを信じるようになったから」です。
●12節では「その翌日」(=棕櫚(しゅろ)の日曜)の出来事が記されています。キリスト教会はこの日から「受難週」としていますが、ヨハネの福音書では「受難」ではなく、イェシュアが「自ら積極的にいのちを捨てる」のです。祭りに来ていた大勢の群衆が、イェシュアがエルサレムに来られると聞いてなつめ椰子の枝を持って出迎えたのは、ラザロを墓から呼び出して死人の中からよみがえらせたときにイェシュアと一緒にいた群衆が、エルサレムで証しし続けていたからです。ですから、イェシュアはこれまでにない歓迎を受けたのです。
1. 人からの歓迎を受けるイェシュア
(1) ベタニアの家
●イェシュアが滞在した「ベタニア」はヘブル語で「ベート・アヌヤー」(בֵּית־עַנְיָה)と表記されます。これは「貧しく、苦悩の、へりくだった、柔和な者にふさわしい家」とも訳せます。エルサレムの外にある家です。これは宗教の外にあるということの型です。イェシュアはそこに、つまり「ベタニア」に弟子たちとともに「過越の祭りの六日前」に来られ、「ツァラアトに冒された人シモンの家」に滞在されました。
(2)「ツァラアトに冒された人シモン」
●ツァラアトは原罪(original sin)の型です。シモンはおそらくイェシュアによってきよめられた人で、イェシュアのあわれみを受けた代表といえます。
【新改訳2017】マルコの福音書1章40~42節
40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
●原罪がきよめられることは、人が神に近づくことができる条件です。「ツァラアトに冒された人のきよめ」の話は共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)のいずれにも取り上げられていますが、「ツァラアト」(ツァーラアット:צָרַעַת)の場合、「いやす」ではなく「きよくする」としているのは、「ツァラアト」が宗教的な汚れであるためです。この汚れをきよめることは、当時の神殿ユダヤ教と律法主義のパリサイ人にはできませんでした。イェシュアがそうした「宿営(エルサレム)の外で」宣教されたことが重要なことなのです。イェシュアはツァラアトに冒された人を深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、きよめたのです。事実、イェシュアが献げたコルバンの中に「罪のきよめのささげ物」がありますが、イェシュアは自らの血潮をもって罪をきよめられたのです。しかしユダヤ教という宗教はいのちであるイェシュアを阻害してしまうのです。
(3)「マルタ・ラザロ・マリアの三人」
●さてその家にラザロ、マルタ、マリアが訪れています。この三人はイェシュアの中へと信じる者たちです。聖書はなぜこの三人を登場させているのでしょうか。それはイェシュアを証しするためです。マルタはイェシュアのために「仕える」人で、イェシュアにあって「歩く」ことの型です。ラザロは死からよみがえらされた人で、イェシュアにあって「立つ」ことの型、そしてマリアはイェシュアのもとに「座る」ことの型です。
●三人の中でも最も大切なのは「座る」マリアであることを、イェシュアは語っています(ルカ10:42)。なぜなら、「座る」ことはいのちの源泉に深く触れることだからです。ですからマリアはイェシュアが死んで葬られることを悟って、葬りのための香油を注ぐことができたと言えます。いのちの源泉に「座す」ことで、はじめて「立ち」、そして「歩む」ことができるのです。
「座す」(マリア) ➡「立つ」(ラザロ) ➡「歩く」(マルタ)
●「マリア、ラザロ、マルタ」は、「三で一」であり、「三一の神」を証しすると同時に「人となられたイェシュア」を啓示しています。つまりイェシュアの源泉はあくまでも「主=御父」であり、その教えに立って、歩まれた方です。詩篇1篇1節の原文「幸いなことよ、その人は」(アシュレー・ハーイーシュ:אַשְׁרֵי־הָאִישׁ)にある「その人」とは、人となられたイェシュアを証ししています。イェシュアは「悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人」として描かれています。それはイェシュアの生きる源泉(=座る、座に着く)がどこにあるのかを強調しています。つまりイェシュアの「座」は、2節の「主のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ことです。そこに座すとき、彼は「流れのほとりに植えられた木」のようになり、「時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」のです。マリア、ラザロ、マルタによって、御父に対する御子イェシュアの生き方を示唆しています。
(4) 祭りに来ていた大勢の群衆
【新改訳2017】ヨハネの福音書12章12~15節
12 ・・・・ 祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
14 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。
15 「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
●「ホサナ」とは「ホーシーアー・ナー:הֹושִׁיעָה נָּא」のことで、意味は「どうかお救いください」です。これは詩篇118篇25節からの引用ですが、続く「祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」は同26節からの引用です。ただし、ヨハネは引用元にはない「イスラエルの王に」ということばを付け加えています。つまり「主の御名によって来られる方」を「イスラエルの王」としています。しかし群衆が求めているのは、民族的・政治的な意味の王であり、そのような王に救いを求める「ホサナ」なのです。ところが、ヨハネは「イェシュアはろばの子を見つけて、それに乗られた」と記して、武力的な王ではなく、以下のように「柔和な者」として、ろばに乗ってエルサレムに入られる王イェシュアを示そうとしています。ゼカリヤ書9章9節はそのことを預言している有名な箇所ですが、ヨハネはゼカリヤ書ではなく、ゼパニヤ書3章16~17節から引用しています。以下、その二つの箇所を見てみます。
①【新改訳2017】ゼカリヤ書9章9節
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。②【新改訳2017】ゼパニヤ書 3章16~17節
16 その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。
17 あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。
●ヨハネは群衆の叫びの中に、彼らが気づかずに預言していることばの真の意味、つまり終わりの日の出来事を書き記しているのです。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中にあって(ベキルべーフ: בְּקִרְבֵּך)救いの勇士だ」ということが重要なのです。「恐れるな」ということばと、「主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ」という二つのことばが重要なのは、「主は、あなたのただ中にあって救いの勇士」となることによって、イスラエルの王となられるからです。「あなたのただ中にあって」とは「霊の中にあって」と同義です。これが実現するために、イェシュアが「一粒の麦」となって死に、そして復活する必要があったのです。これがキリストにある新創造のみわざです。やがて、終わりの日に(=イェシュアが再臨される前に)、獣と呼ばれる反キリストが立ち上がって来ます。しかし恵みと嘆願の霊によって主に立ち返る「娘シオン」、すなわち「イスラエルの残りの者」が起こされます。「イスラエルの残りの者」は、その額に神の印が押されることで死から守られ、王なる祭司としての務めを果たすことができるようにされるのです。それゆえ「恐れるな」と語りかけられているのです。そして「主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と宣言されています。主のみこころとみむねを彷彿させます。
(5) 「ギリシア人の訪問」
【新改訳2017】ヨハネの福音書12章20~22節
20 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
21 この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
●20節に登場する「ギリシア人」は祭りで礼拝のために上って来た人々とありますから、ユダヤ教の神を敬う異邦人です。このような異邦人は「敬神者」といいますが、イスラエルに接ぎ木される異邦人の型でもあります。ローマ人の百人隊長のコルネリウスもその一人です(使徒10:1~2)。彼の家族は聖霊のバプテスマを受けることになります。
【新改訳2017】使徒の働き 10章1~2節
1さて、カイサリアにコルネリウスという名の人がいた。イタリア隊という部隊の百人隊長であった。
2 彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。
●このように、ヨハネ12章のイェシュアはユダヤ人のみならず、異邦人からも歓迎されています。しかし、人からの歓迎は私たちを腐敗させ、破滅させる道でもあります。教会の歴史を見るなら、教会が増し加わった時はいつも迫害の結果です。世から歓迎されていた時ではありません。迫害と反対が多くあればあるほど、教会は増し加わっていったのです。最初の二世紀、ローマ帝国による迫害は教会の成長を妨げることはありませんでした。ところが、ローマ帝国が迫害から歓迎へと変えた時、教会はいのちを失ったのです。教会が世から受け入れられるなら、そのときいのちを失う運命にあるのです。宣教のために、地域に開かれた教会、地域に根差した教会、地域の二ーズに応える教会といった声を聞いたりします。また日本人に聖書が分かるように文脈化するといったことが言われました。しかしそうした人に忖度する宣教活動は、長い目で見るならば、教会からいのちを失う危険な道なのです。人に喜ばれ、受け入れられ、歓迎される時は要注意です。そのような時に、イェシュアの語ったことばが重要なのです。
2. 「一粒の麦」が地に落ちて死ぬ
【新改訳2017】 ヨハネの福音書12章23~29節
23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。
わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
27 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。
(1)「人の子」
●23節で、イェシュアはご自分のことを「人の子」と言われました。「人の子」ということばは、ヨハネの場合、12章に至るまでに10回使われています。イェシュアはご自分が政治的なメシアと混同されることを避けるために、ご自分のことを表すのに「人の子」という表現を用いました。だれかがイェシュアのことを指して「人の子」と言ったのではなく、イェシュア自身が自らメシア的称号として用いられたのです。ですから、イェシュア以外にはだれも「人の子」という称号を使っていません。当時のユダヤ人には、このことばはよく知られていたもので、誰のことを指しているかもよくわかっていたはずです。イェシュアは「人の子」ということばを用いることで、ご自分こそメシアだと宣言されたのです。
(2)「一粒の麦」
●さらに24節で、イェシュアはご自分を「一粒の麦」にたとえています。ここでの「麦」は「小麦」(スィトス:σῖτος)のことです。カナンの地における穀物には、「小麦」と「大麦」があります。
【新改訳2017】申命記8章8節
小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。
●収穫の順序からすれば「大麦と小麦」なのですが、神の視点からするならば「小麦と大麦」なのです。それは麦の質の問題ではなく、預言的です。預言的とはイェシュアが来て初めて分かるということです。ですから、「小麦」はキリストの死を意味し、「大麦」はキリストの復活を意味します(牧師の書斎「乳と蜜の流れる地」(4)「良い地」における「小麦と大麦」の奥義を参照)。24節の「一粒の麦」は「人となられたイェシュア」を意味しており、その「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ことは、十字架で死んだキリスト、葬られたキリストをたとえているのです。
●「一粒の麦」が地に落ちるということは死ぬことであり、それによって豊かな実を結ぶことを表しました。つまり「いのちは死と復活を通して増し加えられること」を語っているのです。イェシュアはユダヤ人とギリシア人から最大の歓迎を受けた時点で、「人の子が栄光を受ける時が来ました」と言われました。これまで、イェシュアの時は「まだ来ていない」ことが繰り返し記されています(2:4, 7:6, 8, 30, 8:20)。しかしここに至って、「一粒の麦は、地に落ちて・・・死ぬなら、豊かな実を結ぶ」とあるように、イェシュアは「死と復活」によって栄光を受けることになるという、まさに神のご計画の本番を迎えたということです。
(3) イェシュアの祈り
●27~28節で、イェシュアは「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と祈っています。一見、ゲツセマネの祈りを思わせます。ゲツセマネの祈りでは、葛藤の末に、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)でした。しかしヨハネの場合は「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と、積極的な祈りとなっています。いずれにしても、イェシュアの祈りには、以下のことが見受けられます。
①人の子が死ぬことは、避けることのできない神の定めであったこと。
②イェシュアの死は、主体的・自発的であったこと。
③死を通して栄光を受けるという揺るぎない確信があったこと。
●イェシュアの祈りに対して「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう」という天からの声がありました。これはどういう意味でしょうか。前半の「わたしはすでに栄光を現した」とは、これまでイェシュアの受肉と数々のことばとしるしを通して、御父が栄光を現して来たという意味です。後半の「わたしは再び栄光を現そう」とは、イェシュアの死と復活による霊の内住を通して、御父が栄光を現そうという意味です。この天来の声は、まわりの人々には分からなかったようです。
(4) 天来の声
【新改訳2017】ヨハネの福音書12章30~33節
30 イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。
31 今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
32 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」
33 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。
●天来の声について「わたしのためではなく、あなたがたのためです」とイェシュアは言われました。「あなたがたのため」というのは、「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出される」からとあります。「この世を支配する者」とは悪魔のことであり、それが実際に世から「追い出される」のは、千年のメシア王国が終わる時です。しかし同時に「この世に対するさばき」も「この世を支配する者が追い出される」ことも、イェシュアの十字架の死と復活によって、神にとってはすでになされているのです。それを「今」ということばで表しています。
【新改訳2017】ヨハネの黙示録20章10節
彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。
●32節の「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」とはどういうことでしょうか。続く33節の「これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである」ということばと合わせて理解する必要があります。イェシュア自身が「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」(ヨハネ3:14)と言われた通り、それはイェシュアが十字架で身代わりの死を遂げられることを意味します。その身代わりの死の目的は、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため」(3:15)であり、それは「わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」ということばと同義なのです。
【新改訳2017】 ヨハネの福音書12章34~36節
34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
35 そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、
あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
36 自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。
●ここから群衆の質問があり、それに答えるイェシュアの姿があります。「地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」という意味が分からなかったようです。イェシュアは彼らの質問に直接答えることなく、「光があるうちに、光を信じなさい」と言って、そこから立ち去り、身を隠されました。
●「光」とはイェシュアを指します。また、「霊であり、いのち」であるイェシュアの語ることばを意味します。反対に「闇」とはなんでしょう。「闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません」とあります。これが「闇」(ハッホーシェフ:הַחֹשֶׁךְ)です。「闇」は「滅び」であり「死」です。「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」(箴14:12)とあります。つまり「闇」とは、「自分の歩みが、死となる道である」ことが見えないことです。
3. 「主の御腕はだれに現れたか」
【新改訳2017】ヨハネの福音書12章37~38節
37 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
38 それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」
●ヨハネの福音書は大きく二つに区分することができます。その二区分とは、12章22節以前と23節以降です。22節以前に数多くのしるしが人々の面前で行われたにもかかわらず、人々はイェシュアを信じませんでした。
また、23節からの「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」という「死と復活」によってイェシュアの栄光が現されようと、それでも彼らは信じなかったのです。「死と復活によるキリストの新創造」に対する信仰は、霊によって生きることであり、神からの賜物という他に言いようがありません。大勢の人々がイェシュアを歓迎したにもかかわらず、彼らは、「死と復活によって現されるイェシュアの栄光」を信じることができなかったのです。「彼ら」とはだれでしょうか。それはユダヤ人と異邦人です。
●「主から聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか」、それは「いのちを与える霊に触れた者たち」であり、「あの書(いのちの書)に名が書き記されている者たち」です。それは「エックレーシア」(ユダヤ人と異邦人の共同体)であり、および終わりの日の「イスラエルの残りの者」と、それによって救われる「だれも数えきれないほどの大勢の群衆(異邦人)」(黙示録7:9)です。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。
2024.12.22
a:891 t:1 y:1
