25.「ヨハネの福音書13章の『足を洗う』というしるし」
25. ヨハネの福音書13章の『足を洗う』というしるし
ベレーシート
●今回は、13章にあるイェシュアが弟子の「足を洗う」(洗足)という出来事を取り上げます。これは共観福音書にはない、ヨハネ独自の記事です。ユダヤの慣習で食卓に招かれた人に対してなされる洗足のことではありません。しるしとしての深い意味を持った出来事です。
【新改訳2017】ルカの福音書7章44節
それから・・シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
●ルカでは客を歓迎する行為として、また食卓に着く前になされる「洗足」を意味しています。しかしヨハネ13章では、食事の最中になされた出来事です。イェシュアはこの「洗足」の行為を通して、預言的・奧義的なことを示されたのです。このことを理解したいと思います。
【新改訳2017】ヨハネの福音書13章1~12節
1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
●7節でイェシュアが「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」と言われたことから、洗足は一つの「しるし」なのだということが理解できます。
1.イェシュアの「ご自分の時」とは
●前回の12章で、イェシュアはユダヤ人とギリシア人から最大の歓迎を受けた時点で「人の子が栄光を受ける時が来ました」と言われました。これまで、イェシュアの時は「まだ来ていない」ということが繰り返し記されていました(2:4, 7:6, 8, 30, 8:20)。しかし12章24節に「一粒の麦は、地に落ちて・・・死ぬなら、豊かな実を結ぶ」とあるように、イェシュアは「死と復活」によって栄光を受けることになるという、まさに神のご計画の本番を迎えたことを語っています。「麦」は「小麦」のことで、イェシュアの死を象徴しています。死を通して豊かな実を結ぶことを、イェシュアは「ご自分の時が来た」と言っているのです。13章以降では、以下の箇所にあります。
①13章1節「・・この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。・・」
②17章1節「・・『父よ。時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』」
●イェシュアの時とは「死と復活」のことを意味しています。13章1節にある「時」は「ホーラ:ώρα」です。時を表す語彙は他に「クロノス:χρόνος」と「カイロス:καιλός」があります。前者は一般的な「時の流れ」や「期間」を意味しますが、後者は「定まった特定の時」を意味します。たとえば、詩篇31篇15節にある「私の時は御手の中にあります」という「時」は、LXX訳では「カイロス」と訳されています。イェシュアの宣教開始の時に語った「時が満ち、神の国が近づいた」(マルコ1:15)とある「時」も「カイロス:καιλός」です。またエペソ1章10節の「時が満ちて」の「時」も同じく「カイロス」で、神の救いの歴史における最終段階の到来を意味しています。ところが、今回のイェシュアの時の「ホーラ」は、イェシュア自身がたとえで「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時(ホーラ:ώρα)が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません」(ヨハネ16:21)と語っているように、「ホーラ:ώρα」は「新しいものを生み出すための産みの苦しみの時」の意味でヨハネは使っているようです。それはイェシュアの「わたしの時」が「栄光の時」であると同時に、「暗闇の時」が最高潮になる「時」でもあるからです。しかしその時こそ、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」(1節)とあるように、神の愛が最高潮に輝きあふれる時でもあるのです。13~17章では「愛」が強調されていますが(動詞と名詞を合わせて31回)、今回それについては触れません。
●1節にある「この世を去って父のみもとに行く」という表現は、イェシュアが復活して40日目に「昇天」することではありません。そうではなく、死んで三日目によみがえり、「秘密の昇天」をして、死からよみがえられたご自分を初穂として御父に献げることを言っているのです。これが旧約の例祭にある「初穂の祭り」の成就です。そしてその日の夕方、地上にいる弟子たちの所に戻って来られて、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われました。これがきわめて重要な画期的な出来事なのですが、今日のキリスト教会ではなぜか語られていません。
2. 「今は分からなくても、後で分かるようになる」とは
●「時」に関連することで、「今は分からなくても、後で分かるようになります」(7節)があります。ここでの「今は」とは洗足時のことです。問題は「後で」という意味です。「後で分かる」という「分かる」とは、人生経験を重ねると分かるという意味ではなく、イェシュアが死んだ後、三日目に「いのちを与える御霊」となられて「人の霊の中に内在された時」から分かるという意味です。何が分かるかといえば、最初のアダムが罪を犯して以来、機能不全を起こしていた人の霊が再び回復し、40日間イェシュアは弟子たちに顕現されて、再度、御国の福音を語られます。そのことで、弟子たちはイェシュアが語ってきたこと、イェシュアがなされてきたことの深い意味を悟ることができるようになるということです。このことは、イェシュアの訣別説教の中でも繰り返し語られます。
①【新改訳2017】ヨハネの福音書14章26節
・・・助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
②【新改訳2017】ヨハネの福音書16章12~13節
12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
●「後で分かるようになります」ということばは、五旬節(ペンテコステ)以降ではなく、復活の日から昇天までの40日の期間に成就した聖霊の内住によってということです。この満たしを「プレーロー」(πληρόω)と言い、五旬節(ペンテコステ)の聖霊の満たしは「ピンプレーミ」(πίμπλημι)と言って、内にあるものを外に語り出すための力の満たしを言います。使徒ペテロが使徒の働きで何度も聖書(タナフ)を用いて語っていますが、おそらくそれは復活後のイェシュアから教えられたことなのです。いずれにしても、この聖霊は「注ぎの油」(Ⅰヨハネ2:20,27)として、一回限りではなく、繰り返し、繰り返し、何度も塗り重ねられるものなのです。
3. 「上着を脱ぐ」と「上着を着る」とは
●イェシュアが弟子たちの「足を洗う」時に「上着を脱ぎ」(4節)、そして再び「上着を着る」(12節)ことをしています。実はこれも「しるし」です。「脱ぐ」は「ティセーミ:τίθημι」で、洗足後の「着る」は「ランバノー:λαμβάνω」です。このことをイェシュアは10章ですでに語っていました。
【新改訳2017】ヨハネの福音書 10章17~18節
17 わたしが再びいのちを得る(ランバノー:λαμβάνω)ために自分のいのちを捨てる(ティセーミ:τίθημι)からこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです(τίθημι)。わたしには、それを捨てる(τίθημι)権威があり、再び得る(λαμβάνω)権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです(λαμβάνω)。」
●聖書で「(上着を)脱ぐ」とは「死ぬ=(いのちを)捨てる」という意味です。他に10章11, 15節、15章13節を参照。逆に「(上着を)着る」とは「よみがえる=(いのちを)得る、受ける」という意味です。このことは、パウロも以下で記しています。
【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙5章2~4節
2 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。
3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
●人のからだが朽ちて死ぬことを「幕屋を脱ぐ」「裸の状態」になるとし、復活のからだが与えられることを「天から与えられる住まいを上に着る」と表現しています。このように、イェシュアの「洗足」の出来事は「死と復活」を表す象徴的な啓示だということが分かります。ですから、ペテロが恐縮して「決して私の足を洗わないでください」と言ったときに、イェシュアは「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と答えました。「関係ないことになる」とはどういうことでしょうか。それは、イェシュアがペテロの足を洗わなければ、イェシュアの死と復活のいのちにともに与ることができないという意味です。もしそうなってしまったら、天の御国の鍵がペテロに与えられることはなくなってしまいます。それほどに、「洗足」の出来事は預言的・奥義的な意味を持っていたのです。イェシュアがペテロの足を洗うことは、イェシュアの死と復活のいのちによって、新しく造られた者(ニュー・クリーチャー)として生きることを啓示する出来事であったのです。その意味において、ヨハネ13章の冒頭では「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」と記しているのです。イェシュアの愛とは、単に感情的なことではなく、弟子たちを「新しく造られた者とする」ために注がれた神の熱意なのです。
4. 「きよめ」のための洗足
9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
●なぜ、洗うのが「足」なのでしょうか。「足」を意味するヘブル語は「レゲル:רֶגֶל」です。その初出箇所は以下です。
【新改訳2017】創世記 8章9節
鳩は、その足を休める場所(מָנוֹחַ)を見つけられなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を伸ばして鳩を捕らえ、自分がいる箱舟に入れた。
●「鳩は、その足を休める場所を見つけられなかった」とあります。さばきの水がいまだ全地の面にあったからです。「鳩」は「聖霊」のメタファーです。「鳩の足」とはキリストの死と復活によって与えられる「いのちを与える御霊」を預言的に象徴するものです。また「足を休める場所」とは御霊が内住することになる「人の霊」を意味します。つまり「鳩が、その足を休める場所を見つける」とは、人の霊の中に「いのちを与える御霊が内住すること」の預言的・奥義的啓示だったのです。創世記8章9節では、まだそれが「見つけられなかった」、すなわち「まだなかった」のです。これは、ヨハネの福音書7章39節にある「イェシュアはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかった」(原文は「まだなかった」)ことの預言的啓示の型です。この預言が実現するのはいつかといえば、それはイェシュアが復活した日の夕べ、イェシュアが弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われた時です。イェシュアはそのことを預言的・奥義的に示すために、弟子たちの足を洗われたのでした。しかしその意味を悟る者はだれ一人いませんでした。なぜなら、それを理解させる聖霊がまだなかったからです。この聖霊こそ「いのちを与える御霊」(Ⅰコリント15:45)であり、人をきよめて新創造する「再生と刷新の洗い」(テトス3:5)なのです。
【新改訳2017】テトスへの手紙3章5~7節
5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗い(=いのちを与える御霊)をもって、私たちを救ってくださいました。
6 神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。
●「神はこの聖霊を、・・・豊かに注いでくださった」とあります。この聖霊こそが「いのちを与える御霊」であり、「聖霊による再生と刷新の洗い」(回復訳「再生の洗いと聖霊の刷新」/原文は「新生の洗いと聖霊の刷新」)の力を啓示しています。それは「私たちが永遠のいのちの望みを抱く相続人となるため」なのです。つまり、「新生の洗い」は私たちが再び生まれることで、古い人の性質を脱ぎ捨て(きよめて)「新しい人を着ること」(エペソ4:22, 24, コロサイ3:9~11)、あるいは「心が新しくされることによる造り変え」(ローマ12:2. エペソ4:23)の出発点を意味しています。「聖霊の刷新」は私たちを新創造の完成に至るまで、つまり私たちの全生涯を通して継続される働きを意味します。これが私たちの永遠の分け前となるのですから、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」となるのです。
●幕屋の「洗盤」は、この「いのちを与える御霊」による「洗い」を啓示する型です。
【新改訳2017】出エジプト記30章18~21節
18 「洗いのために洗盤とその台を青銅で作り、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。
19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。
20 彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。 彼らが死ぬことのないようにするためである。 また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、
21 その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟である。」
●祭司たちが幕屋で奉仕する際に真っ先にすることは、「青銅の洗盤」で身をきよめることでした。この水による洗いは、地の接触からくる汚れを洗い去ることを表します。洗盤に入れられた水は「神のことば」を象徴しており、イェシュアの語ることば(レーマ)は「霊であり、いのち」そのものです。ですから、洗盤の水は「いのちを与える御霊」による洗いを表す型となっています。「王なる祭司」である主にある私たちも、それに与る者とさせられています。それゆえに、「霊の中に生きる」ことは必然なのです。
5.「互いに足を洗い合う」とは
●ヨハネ13章14節に「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」とあります。これはどういう意味でしょうか。イェシュアがあなたがたの足を洗ったということが、復活の日の夕べになされることになる「いのちを与える御霊」と「人の霊」のミングリングであるなら、「あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」とは霊による交わりがなされなければならないということではないでしょうか。
①【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙 13章13節
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。②【新改訳2017】ピリピ人への手紙 2章1~2節
1ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、
御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
●こうした霊の交わりこそ、「あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」という意味になるのです。また「王なる祭司」として、また「主にある同労者としての交わり」を啓示するものです。そしてまた、AC(アシュレークラス)でなされている「アロンの祝祷」も「互いに足を洗い合わなければならない」という「洗足」の行為の一つと言えるのです。
【新改訳2017】民数記6章24~26節
24 主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
6. 互いに信頼し合うこと
●「足を洗う」という「霊にある交わり」は、「互いに信頼し合うこと」で「御国の喜び(楽しさ)を経験する(前味を味わう)」ことを含んでいます。
【新改訳2017】創世記18章1~4節
1 主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。
2 彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。
3 彼は言った。「主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。
4 水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。
●アブラハムのもとに三人の人が訪ねてきました。そのうちの一人は主ご自身でした。アブラハムは彼らを迎え、もてなそうとします。そして4節に「水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。」とあります。「お休みください」という部分に「シャーアン」(שָׁעַן)が使われています。しかしその前にある「(足を)洗う」と訳されている「ラーハツ」(רָחַץ)も、実は「信頼」を含んだ語彙なのです。
●「ラーハツ」の意味として、ヘブル語大辞典では「洗う」という意味しかありません。ところが、日本コンピューター聖書研究会から出されているHebrewソフトでは、「ラーハツ」(רָחַץ)は「信頼する」とのみ表記されています。果たして、「ラーハツ」(רָחַץ)には「信頼する」という意味があるのでしょうか。実は、旅人の足を洗うというヘブル的なもてなし(歓迎)の行為にこそ、信頼する心が示されているのです。「足を洗う」という行為自体が相手を信頼しなければできないことです。また洗われる側も自分が信頼されている、歓迎されていると知らされるのです。つまり信頼がなければ、「足を洗う」という歓迎はあり得ないということです。
●イェシュアが十字架につけられる前の晩に、弟子たちとの最後の晩餐がなされたとき、イェシュアは弟子たちの足を洗いました。そしてその意味することは「今は分からなくても、後で分かるようになる」と言われました。そして「わたしがあなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければならない」と語られました。その真意は「互いに相手を信頼し合う」という御国のメッセージだと考えられます。「洗い合う」を「愛し合う」と理解しても良いでしょう。これがイェシュアの言う「新しい戒め」なのです。
●創世記18章に見るアブラハムのもてなしの行為の中の、相手を信頼する行為として「足を洗う(ラーハツ:רָחַץ)」こと、そして木の下で「休ませる(シャーアン:שָׁעַן)」こと。この二つの語彙の中に「信頼」が強調されていると考えられます。ここで、イザヤ書10章20節にあるメシア王国の預言を味わってみたいと思います。
【新改訳2017】イザヤ書 10章20~23節
20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず(=頼ることを重ねない)、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る(シャーアン:שָׁעַן)。
21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
22 たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、
その中の残りの者だけ(原文には「だけ」を意味する語彙はありません)が帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。
23 すでに定められた全滅を、万軍の神、主は、全地のただ中で起こそうとしておられる。
●「その日になると」がメシア王国を指し示す語彙です。創世記18章に見た「足を洗う」を意味する「ラーハツ:רָחַץ」と「休む、拠り頼む」を意味する「シャーアン:שָׁעַן」が、神への絶対的な信頼を表す相互的・同義的語彙であると結論づけることができます。「イスラエルの残りの者」「ヤコブの家の逃れの者」とは単数ではなく集合名詞です。主に真実をもって頼るということは、主にある兄弟たちが御国において一つになってともに住む(=生きる)ことをもたらします。以下の詩篇の「見よ(ヒンネー:הִנֵּה)」が御国の幸いを啓示しています。
【新改訳2017】詩篇133篇1~3節
1 見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。
2 それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて 衣の端にまで流れ滴る。
3 それはまた ヘルモンから シオンの山々に降りる露のようだ。
主がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
●1節と3節の太字の部分に、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」というイェシュアの真意が、やがて「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは」という、末広がりの「とこしえのいのちの祝福」として預言されていたのです。2節、3節の「それ」や「そこ」もそのことを指しています。その中にイェシュアは長子として存在しておられるのです。もし、兄弟たちの中にイェシュアがおられなければ、「一つになる」(ヤハド:יַחַד)ということはあり得ないからです。この「一つとされる幸い」が約束されていることを、主に感謝したいと思います。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。
2025.1.05
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