****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

27.「ヨハネの福音書14章の『行くこととまた来ること』のしるし」

27. ヨハネの福音書14章の『行くこととまた来ること』のしるし

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●「最後の教え」の中、イェシュアが繰り返して「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」(13:33, 36)と言ったことで、弟子たちの心は動揺し、かき乱され、不安になりました。そこで弟子のペテロがイェシュアに尋ねます。「どこにおいでになるのですか」(13:36)、「なぜ今ついて行けないのですか」(13:37)と。このペテロの問いかけに対するイェシュアの答えが14章1~3節前半に記されています。あと数時間でイェシュアは逮捕され、不当な裁判によって十字架刑が決定し、朝の九時には磔(はりつけ)にされるのです。しかし弟子たちはそんなことが起ころうとは予想だにしていません。今回は14章1~3節、4~6節の二つに分けて解説したいと思います。1~3節を「イェシュアが行くこと」と「イェシュアが来ること」のしるしとしたいと思います。

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章1~3節
1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

●私は以前、3節の「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」というイェシュアのことばを、十字架の死と復活の出来事を通り越して、弟子たちのために場所を用意しに行くとはイェシュアが「昇天すること」で、また迎えるとは、「再臨」の時の「携挙のこと」だと理解していました。しかしここは空中再臨の携挙の時のことを語ったのではなく、イェシュアはご自身の死と復活のことを語ったのです。弟子たちはイェシュアの「行くこと」と「また来ること」が何を意味するのかを、この時点では全く知りません。わずか三日の間のことですが、神の側ではとんでもないことがなされたのです。私たちはこのことを明確に知ることが重要です。

1.イェシュアが「行くこと」

(1)「行くこと」とは「死ぬこと」

●御子イェシュアが「行く」と言う時、それは彼が十字架で「死ぬ」ことを意味します。これまでもイェシュアはご自身が死なれることを多くの機会をとらえて語っていました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(12:24)とあるように、人となられたイェシュアが死ぬことは、私たちが死ぬこととは全く異なることを意味しています。

(2) 「行くこと」とは「世の罪を取り除くこと」

●「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)とヨハネが語ったように、イェシュアの十字架の死は、世の罪を取り除くことを意味しています。イェシュアがニコデモに語った「青銅の蛇がモーセによって上げられたこと」もここに括られます。「神の子羊の血は、世の罪を取り除くことのできる唯一の力」です。イェシュアが完全なささげ物(コルバーン)となってくださったことで、人が神に近づく道が開かれたのです。

(3) 「行くこと」とは「旧創造を終わらせること」

●イェシュアが「行くこと」は、最初のアダムを終わらせることをも意味します。つまり、キリストの十字架の死は、最初のアダムを含む旧創造を終わらせることでもあるのです。「死からよみがえられた初穂であるキリスト」にある「新創造」(New Creature)をもたらすために、死は通らなければならない通過点だったのです。

(4) 「行くこと」とは「この世をさばくこと」

●この世はサタンによる邪悪な体系によって支配されています。その邪悪な体系は「暗闇の王国」です。イェシュアは「行くこと」で、この「暗闇の王国」を滅ぼしさばかれたのです。イェシュアは「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます」(12:31)と言われましたが、イェシュアが「行くこと」で、まさにそのことが起こるのです。実際に「この世を支配する者が追い出される」のは、「千年王国」の最後ですが、その運命はイェシュアが「行くこと」で決定づけられたのです。

(5) 「行くこと」とは「敵意を滅ぼし、平和を実現すること」

①【新改訳2017】ヨハネの福音書10章16節
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。

②【新改訳2017】エペソ人への手紙2章14~16, 18節
14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
18 このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

●イェシュアが「行くこと」によって、ユダヤ人と異邦人が一つになることが実現します。パウロはこれを「新しい一人の人」(One New Man)という概念で表しました。いずれにしても、ユダヤ人と異邦人はあらゆる分裂のルーツ(根)です。イェシュアの死はこの分裂に対する「平和」となられました。ローマ皇帝はヘブル的ルーツを断ち切りましたが、ユダヤ人を取り除いた教会は真の教会ではありません。イスラエルの慰めを待ち望んでいたシメオンが幼子イェシュアを抱いた時に啓示されたのは、「万民の前に備えられた救い」でした。それは「異邦人を照らす啓示の光」であり、「御民イスラエルの栄光」です(ルカ2:30~32)。これはやがて多くの人々が聖霊によって見ることになる神のご計画であり、神のヴィジョンです。それに反する「反ユダヤ主義」は「終わりの時代」になるにつれて益々増大しますが、イェシュアの死はすでに敵意を十字架によって滅ぼしたのです。このヴィジョンは以下の詩篇133篇に見事に歌われています。

【新改訳2017】詩篇133篇1~3節
1 見よ(ヒンネーהִנֵּה)。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。
2 それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて 衣の端にまで流れ滴る。
3 それはまた ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。
主がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

(6) 「行くこと」とは「あなたがたのために場所を用意すること」

●イェシュアの死は、弟子たちのいのちが神の中に入る場所を用意することでもあります。これは、パウロが語っている以下のことと符合します。

【新改訳2017】エペソ人への手紙2章5~6節
5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました

●「ともに天上に」とは「ともに神の家の中に」と同義です。そこに「座らせる」とは「住む」(יָשַׁב)ことを意味します。これは以下の「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」と同義なのです。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章3~4節
3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです
4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。


2. イェシュアが「また来て、迎えること」

●イェシュアの「行くこと」が「死ぬこと」であるなら、「また来ること」とは「復活の中で霊として来ること」を意味します。「行くことは、来ること」を意味し、「来ること」は「復活」を意味します。死は復活のためです。この二つは切り離すことはできません。イェシュアの「行くこと」がどんなに多くの新しい事柄をもたらすかを弟子たちが知っていたなら、彼らはどんなに驚き、興奮し、そして神を賛美していたことでしょうか。しかし彼らは全く知らなかったのです。それは彼らの内にそれを理解させる聖霊が「まだなかった」からです。とすれば、イェシュアが「また来て(復活の中で来て)、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」と言われたことの大きさは、計り知れないことになります。

●「行かれた」イェシュアは、霊として「また来られ」ました。この霊を「いのちを与える霊(御霊)」と言います。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙15章45節
こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」
しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました

●「いのちを与える御霊」とは「いのちを創り出す神の霊」です。最後のアダムであるイェシュアは、「いのちを創り出す神の霊」として再度来られました。そして機能不全を起こしていた人の霊を回復させて、その中に内住され、ともに生きるようにしてくださったのです。「いのちを与える霊」とはすべてを含む霊、つまりキリストの霊、御父の霊、助け主の霊です。そのすべてを含む霊は、行って、三日目の復活の夕べに来られました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書20章19~22節
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい

●イェシュアは復活の日に「いのちを与える霊」となられただけでなく、すべてを含む霊となって弟子たちのところに来られたのです。そのことで、「神と人がともに住むこと」(インマヌエル)が人の霊の中に実現したのです。イェシュアがそのことを予告していました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章17~20,23節
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります
23 ・・「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちは(=父とわたしは)その人のところに来て、その人とともに住みます(原文は「その人のそばに住まいを造ります」)。

●23節のことばは重要です。なぜなら、イェシュアは弟子たちの霊の中に父の住まいをもたらすからです

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章27~28節
27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
28 『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。

●イェシュアは霊として来て、信じる者たちの内にともに住まわれました。キリストが私たちの中に入ることができたのは、彼が霊となられたからです。そのようにして、イェシュアは神聖ないのちを私たちの中に分け与えられたのです。天の父の家においては「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」のですが、もう一方で地においては「霊の中でともに住む」ことを実現してくださったのです

3. 「道・真理・いのち」としてのしるし

●以下、4~6節を「道・真理・いのち」のしるしとします。

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章4~6節
4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません

●6節のみことばをよく見てください。前半と後半に分けられます。イェシュアはユダヤ人であることを忘れないようにしましょう。ユダヤ人の修辞法によく通じている方です。その修辞法とは「パラレリズム」です。つまり前半の事柄が、後半で別のことばで言い換えられているのです。どのように言い換えられているでしょうか。

①「わたしが道であり」が、後半では「わたしを通して」に置き換えられます。
②「真理であり」は、「~でなければ、だれも」に置き換えられます。つまり一つの例外も認められない普遍的な事柄、時代や状況によって変更されたり変わったりすることのない事柄、動くことのない絶対的な基準が「真理」だからです。
③最後の「いのちなのです」は、後半では「父のみもとに行く」で言い換えられています。「父のみもとに行く」とは、すべての本源である神と交わり、愛の本源に私たちがかかわることを意味します。父のみもとに行くことが「いのち」なのです。しかし今や、その父が私たちの霊の中に来てくださっているのです

●新改訳聖書で「いのち」と訳されていることばは二つあります。一つは「プシュケーψυχή」、もう一つは「ゾーエーζωή」です。いずれも「いのち」と訳されているのですが、「プシュケー」は神から与えられた私たちの身体、あるいは心、たましいという意味で、この世の医者たちが扱う「いのち」です。もう一方の「ゾーエー」は、神によって人間にのみ与えられた愛の交わりとしての「いのち」を意味します。それが罪によって失われたために、神の御子イェシュアがこの世に来られて、私たちを贖い、神とのかかわりのいのちを回復してくださった、その「いのち」です。このいのちはこの世のどんな有能な医者であっても扱うことのできないものです。

●「永遠のいのち」という場合の「いのち」は、すべて「ゾーエー:ζωή」が使われています。「永遠のいのち」の「永遠」は「神」と同義ですから、それは「神のいのち」、「神の与えるいのち」、「神だけが与えることのできるいのち」ということができます。「いのち」ということばも、先程説明したように、神によって人間にのみ与えられた神との愛の交わりとしての「いのち」、キリストによって与えられる「いのち」なのですが、それは一体どのようないのちなのでしょうか。「ゾーエー」のいのちについて、四つのポイントでお話ししたいと思います。

(1) この世の流れに流されない力

●いのちの第一の面は、この世の流れに流されない、むしろそれに逆らうことのできるいのちです。秋になると、多くの鮭が自分の生まれた川に数年ぶりで戻ってきて産卵します。広い海の中で回遊し、そのあとどうして自分の生まれた川が分かるのか、とても不思議なことです。その上っていく力はすさまじいものがあります。全力を振り絞って上っていきます。そこには子孫をつないでいこうとする自然界のすさまじい力を感じさせます。文字通りの「生きる力」を彷彿とさせます。しかしそれは生きた魚の場合です。死んだ魚の場合はどうでしょう。川の流れに対してどうでしょうか。ただ流されていくままではないでしょうか。生きている魚はその川の流れに逆らって自由に泳いでいきます。使徒パウロはエペソ人への手紙2章でこう記しています。

【新改訳2017】エペソ人への手紙2章1~2、4~6節
1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、・・・
5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました

●かつては死んだ魚のように「この世の流れに従って歩んでいた」私たちを、神はキリストと出会わせ、「キリストとともに生かしてくださった」のです。私たちには生きていくいのちの力が与えられています。「流れに従って」ではなく、「流れに逆らういのち」です。ここでの「この世の流れ(アイオーン:αἰών)」ということばは、時代精神、時代の思想的風潮、感性(フィーリング)、世界の経済の流れ、社会の仕組みなども含むことばです。この世のありとあらゆる多くのものが、必然的に時代の潮流の中に置かれることになります。だれもそれから逃れることはできません。しかし、キリストのいのちを与えられた者はそうした時代の潮流、時代の風潮、時代の流行に対して、ただ流されることなく、世俗化することなく、それに逆らって「生きていく」ことができるのです。それが「いのち」です。そのいのちは、「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」ということばの中に保証されているのです。

(2) 物事をプラスに捉える力

●いのちの第二の面は、第一のことにつながってくる事柄です。それは物事を常にプラスに捉える力です。それは、神が常に「いつくしみ深い」「トーヴ」(טוֹב)な方であることに基づいています。確かにすべての物事にはプラスとマイナスの面があるのですが、プラスの面だけを見るようにすることは決して簡単なことではありません。結婚することは幸せなことだと思っていますが、それは嬉しいことばかりでなく、ストレスでもあるのです。離婚、別居、配偶者の死、病気、怪我、失業・・これらはみな強いストレスをもたらすマイナス要因と考えられます。人間はこうしたストレスを通ってはじめて成長できるという考え方もあるのですが、ある人は、「経験そのものが人を成長させるのではない。人を成長させるのは経験そのものへの態度である」と言っています。どういう態度・どういう心構えでそれらの経験を受け留めるか、ということがとても重要になってきます。

●詩篇の作者も「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました」(119:71)と告白しています。「苦しみ」にあうことはストレスそのものです。しかし、それが私にとって幸せ、なぜなら、それによって主のおきてを学ぶことができたからです。「あなたの御口のみおしえは、私にとって、幾千もの金銀にまさります」とは、まさに「神のいのち」に触れた者だけが言えることではないでしょうか。

(3) 目に見えないものを確信する力

●いのちの第三の面は、目に見えないものを確信する力です。使徒パウロはこう言いました。「私たちは目に見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(Ⅱコリ4:18)。「見えないもの」とは、まだ起こっていない事柄、将来必ず起こるという希望の約束です。そこに目を留めて生きるということを意味しています。私たちの人生は、死で終わるものではありません。それは肉体の死であって、霊とたましいは生き続けるのです。その霊とたましいに対してこれから起こることに目を留めて生きなければなりません。使徒パウロは「死んでしまったらどうなるのか」「すでに死んでしまった者たちはどうなるのか」というクリスチャンたちの素朴な疑問に対してこう述べています。「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません(しっかりと知ってほしい)。あなたがたが望みのない他の人々のように悲しまないためです」と言って、キリストの携挙の話をするのです。そしてそのとき、「キリストにある死者がよみがえり、・・・雲に包まれて引き上げられ、・・・いつまでも主とともにいることになります。ですから、・・・互いに励まし合いなさい」(Ⅰテサ4:13~18)と述べています。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。

●使徒パウロという人は、やがて確かに起こることを、はっきりと特別に神から見せられた人です。ですから、彼は早くそれが実現してほしい、天にある家に住みたいと願った人です。そんな希望をもって生きる人は、いのちに輝くのです。たとえ、「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」(Ⅱコリ4:16)のです。「内なる人」とは、いのちの源泉、生きている力の源泉を持っている人、つまり新創造された人の霊なのです。その人は日々、新たにされるというすばらしい祝福を生きることができるのです。私たちはすでにその「いのち」をキリストにあって与えられています。ですから、そのいのちに生きなければなりません。

(4) 神からの平安の中にとどまる力

●最後の第四の面は、神からの平安の中にいつもとどまっているといういのちです。イェシュアが渡される夜、弟子たちにこう言われました。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。…しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。…これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:32~33 改訂第3版)。ここで世に勝つとイェシュアが語られた意味は、患難がある、しかしその中で平安を持つことができる、といういのちのことを言っているのです。イェシュアの与える「いのち」は、この世にあって「平安の中に私たちがとどまることのできる力」です。その平安はこの世が与える「平安」とは異なります。この世が与える平安とは、私たちの目に見える状況であったりしますが、イェシュアの与える平安は、私たちの父がともにおられるという臨在からくるところの平安であり、霊の中にある平安です。私たちはその霊の中に日々とどまることを訓練する必要があります。どのようにしてでしょうか。それはイェシュアがそうであられたように、私たちも静かな時と所にわが身をおいて、深く神と神のみことばを思い巡らし、瞑想することを通してです。そうさせないサタンの策略が私たちの周りに張り巡らされているからこそ、霊の中に生きることを選び取る必要があるのです。霊の中は台風の目の中のように、平安そのものであり、いのちなのです。そのようないのちをもたらしてくださった私たちのイェシュアに、限りない感謝と賛美をささげます。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2025.2.02
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