29.「ヨハネの福音書15章の『とどまる』というしるし」
29. 「ヨハネの福音書15章の『とどまる』というしるし」
ベレーシート
●ヨハネの福音書には「御父・御子・御霊」の三一のかかわりを示すしるしが数多く記されていることを、前回学びました。御父にとどまられた御子、御子にとどまられた御父、御子にとどまられた御霊、そのとどまり方がいかなるものであったかをヨハネは特に強調しています。まずは御父にとどまっておられた御子イェシュアが、繰り返し、繰り返し語っていることがあります。それは、「父がわたしにおられ、わたしが父にいること」、また「わたしと父とは一つです」という「相互内在」であり、いろいろな表現をもって語っています。例えば、5~8章の各章から一つずつ挙げてみると以下のようになります。
①【新改訳2017】ヨハネの福音書5章19節
イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、
自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。②【新改訳2017】ヨハネの福音書6章38節
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、
わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。③【新改訳2017】ヨハネの福音書7章16節
・・・「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。④【新改訳2017】ヨハネの福音書8章26, 28~29節
26 ・・ わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」
28 ・・・わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。
29 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」
●このように、イェシュアと御父は「相互内在」しておられました。しかしながら、弟子たちもユダヤ人たちも、イェシュアが御父について語っておられることを悟ることができませんでした。なぜなら、このことを悟るための聖霊が「まだなかった」からです。人は霊が回復されるまで、イェシュアのことばを悟ることができないのです。にもかかわらず、イェシュアは弟子たちに対して、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」(ヨハネ15:4)と語り続けます。イェシュアの口から語られることばは「霊であり、またいのちです」(同6:63)。イェシュアはご自身の復活の時点から語っておられるのです。その意味で、イェシュアのすべてのことばは預言的・奥義的なのです。イェシュアは死んで三日目によみがえられたことで、「いのちを与える御霊(霊)」(Ⅰコリ15:45)となって、罪によって機能不全を起こしていた私たちの霊を回復し、その中に内住して下さっています。それは歴史の中で包括的にすでになされているので、そのことを信じる人の内に実体化されるのです。それゆえ、イェシュアが言われた「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」ということが成立するのです。そこで今回は、15章の「ぶどうの木とその枝」における「とどまる」というしるしに注目したいと思いますが、これまでの解釈とは異なる内容となっています。
【新改訳2017】ヨハネの福音書15章4~6節
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
1.「とどまる」という語彙
●霊性の大家アンドリュー・マーレーは「キリストにとどまる」という本の中で、このテーマについて31回分の瞑想をしています。それは「キリストにとどまる」というテーマを、一か月かけて学ぶようにという計らいのようです。それだけの内容が含まれているということでもあります。しかし、一か月をかけて毎日学べば分かるようになるということにはなりません。このテーマは奥義です。聖霊の助けがなければ分かりません。
●「とどまる」(新共同訳は「つながる」、回復訳は「住む」)と訳された原語の「メノー」(μενω)は、15章だけでも10回使われています。「わたしにとどまりなさい」、「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」、「わたしの愛にとどまりなさい」と表現を変えながら、とどまりの様態を表現しています。いずれにしても、「とどまり、とどまる」というかかわりがあるなら、多くの実を結ぶことができるのです。しかしこのかかわりがなければ、決して実を結ぶことはできません。イェシュアを離れては、私たちは何もすることができないからです。
●ところで、5節の「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」ということを、どれだけのクリスチャンが理解しているでしょうか。私も長い間、このことばの真理を理解できませんでした。なぜ理解できなかったのでしょうか。その理由は、私が「キリストの中へと入る」のではなく、「キリストのために生きようとしていた」からです。
●イェシュアのたとえ話に「パリサイ人と取税人の祈り」があります。
【新改訳2017】ルカの福音書18章10~14節
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
●パリサイ人と取税人の祈りは対象的です。義と認められて家に帰ったのは、パリサイ人ではなく、取税人でした。なぜ取税人の方が「義と認められた」のでしょうか。彼は目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて
「神様、罪人の私をあわれんでください」と言っただけでした。なぜ、「罪人の私をあわれんでください」と祈った人が、義と認められて家に帰ったのでしょうか。
●このことを理解するために、もう一つの話をしたいと思います。それは洗礼者ヨハネと、イェシュアが公生涯の開始に語ったメッセージです。
①【新改訳2017】マタイの福音書3章1~2節
1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。②【新改訳2017】マタイの福音書4章17節
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
●ヨハネもイェシュアも、全く同じメッセージを語っているように見えます。しかしこれは全く異なった次元であることを啓示しています。つまり、ヨハネの「悔い改めよ」とイェシュアの「悔い改めよ」の意味合いは異なっているのです。ヨハネの悔い改めは「たましいによる悔い改め」であり、イェシュアの悔い改めは「霊による悔い改め」です。ヨハネは旧約を代表し、イェシュアは新約を代表しています。ユダヤ人はいまだに年に一度の「ヨーム・キップール」(大贖罪日)を行っています。歯に衣を着せないヨハネの鋭いメッセージは、当時の群衆の罪を浮き彫りにし、水による悔い改めの洗礼を受けさせました。しかしその悔い改めは真の悔い改めには至っていませんでした。なぜならそれは「たましいによる悔い改め」だったからです。たましいによる、単にあの罪この罪からの悔い改めではなく、サタンによって完全に捕らえられ、閉じ込められている自分の状態を知って、口から出てきたことばが、取税人の「罪人の私をあわれんでください」でした。イェシュアがもたらす悔い改めは「霊による悔い改め」であり、あれこれの罪から「悔い改める」のではなく、「罪人の私をあわれんでください」と言って、ただ神に向き直るだけです。同じ「悔い改めなさい」ということばであっても、たましいと霊とでは次元の異なる内容となってしまうのです。
●「キリストのために」生きるということは、主が求めておられると思われることを自分のたましいで行うことです。そのためには聖書を読み、みこころにかなった生き方の原則を見つけ、その原則に従うように努力する。そのような生活をするならば、神が祝福してくださると信じる。これが完璧な律法主義的クリスチャンのライフスタイルです。神の祝福を手に入れるために、行いによって信仰の成長をはかろうとするゆえに、神の恵みによってではなく、頑張りの人生となってしまうのです。律法主義的信仰生活と恵みによる信仰生活とは、共存することはできません。「霊とたましいを判別する(切り分ける)」(ヘブル4:12)ということが求められるため、必然的にたましいの抵抗が起こってくるのです。しかし神が願っておられることは、「神のために」、あるいは「キリストのために何かをする(=奉仕する)」ということではなく、霊によってキリストとともにあること、キリストのうちにとどまることなのです。マルタとマリアの違いです。
●イェシュアのことばは「霊であり、いのち」です。「悔い改めなさい」というイェシュアの要求は、人の中の霊が再生されることなしには実現しないのです。そうした観点でイェシュアの「とどまりなさい」ということばを理解する必要があるのです。
●「とどまる」と訳されたギリシア語の「メノー」(μενω)は、先ほどにも述べたように、「つながる」(新共同訳)、「住む」(回復訳)とも訳されます。英語では、abide, remain, dwell, continueとも訳されます。神の永遠のご計画が「神と人がともに住む」ことにあるなら、回復訳の「住む」が最もふさわしいと言えますが、神のことばは一つの訳語では表しきれないのです。「とどまる」ことがどういうことかを知るヒントとなる知恵は、旧約聖書の中に散りばめられています。その関係性を表している箇所を挙げるとすれば、詩篇15篇1節と詩篇91篇1節、および創世記2章24節です。詩篇では「同義的パラレリズム」で記されています。
(1) 【新改訳2017】詩篇15篇1節
主よ だれが あなたの幕屋に宿る(グール: גּוּר)のでしょうか。
だれが あなたの聖なる山に住む(シャーハン: שָׁכַן)のでしょうか。
(2) 【新改訳2017】詩篇91篇1節
いと高き方の隠れ場に住む(ヤーシャヴ: יָשַׁב)者
その人は 全能者の陰に宿る(リーン: לִין)。
(3) 【新改訳2017】創世記2章24節
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ(ダーヴァク:דָּבַק)、ふたりは一体となるのである。
●順に、「宿る」(グール)、「住む」(シャーハン)、「住む」(ヤーシャヴ)、「宿る」(リーン)、「結ぶ」(ダーヴァク)と並べるなら、これらはみな同義語と見なすことができます。そしてこれらヘブル語の語彙が、ギリシア語の「メノー」(μένω)の中に含まれていると言えます。
●詩篇91篇1節の「いと高き方の隠れ場に住む(ヤーシャヴ: יָשַׁב)者、その人は 全能者の陰に宿る(リーン: לִין)」ことを考えてみることは有益です。「住む」と「宿る」場所は「いと高き方の隠れ場」「全能者の陰」とあるように、「隠されたところ」でいつも神と一緒に過ごすということです。「隠れたところ」とは「シークレット・プレイス」(secret place)です。イェシュアが12歳の時、祭りのためにエルサレムで両親とはぐれてしまいました。その両親に対してイェシュアはこう言われました。「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(新改訳第三版、ルカ2:49)と。両親はこのイェシュアの語られたことばの意味を理解できなかったようです。「シークレット・プレイス」はかかわりの源泉となる場であり、力の基です。そこに身を自覚的に置くことが「宿る」(リーン: לִין)「住む」(ヤーシャヴ:יָשַׁב)が意味することであり、イェシュアのいう「とどまる」ことなのです。それゆえ、神殿で教師たちの真ん中に座って問答しておられるイェシュアの姿を見た人々は、イェシュアの知恵と答えに驚き続けていたとあります(ルカ2:47)。これはイェシュアが「わたしが必ず自分の父の家にいる」という隠された姿を、目に見える形に現されたということです。イェシュアの両親も息子を見て驚いたのでした。
2. 「とどまる」ことで多くの実を結ぶ
(1) 「とどまる」ことのさまざまな異なった表現
●相互的に「とどまる」ことは、私たちの霊の中の現実です。聖書はそれをさまざまな言い方で啓示しています。
① 使徒パウロのことばによれば、「御霊ご自身が、私たちの霊ともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(ローマ8:16)とあります。御霊ご自身が、私たちの霊とともに働くこと、それは「二つの霊がミングリングする」ということです。そのことによって、私たちが神の子どもであることが証しされるのです。
②マタイでは「イェシュアのもとに来る」(マタイ11:28)ことで、律法主義による「疲れ」と「重荷」から解放され、「休み」が与えられます。「イェシュアのもとに来る」ことの中に、神がすでに働いておられます。イェシュアはこう言っています。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません」(ヨハネ6:44)。しかも、イェシュアのもとに来ることで与えられる「休み」とは「メヌーハー」(מְנוּחָה)で「永遠の身の置き所」を意味します。詩篇23篇2節「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」の「いこい」が「メヌーハー」(מְנוּחָה)です。さらに「イェシュアのくびきを負うこと」(マタイ11:29)も「とどまる」ことを意味します。そのことで、たましいに安息(マルゴーア:מַרְגּוֹעַ)を得られるのです。
③同じくマタイで「良い地」(マタイ13:8)となることも「とどまる」ことと同義です。「良い地」とは「素直な心」のことではありません。それは「人の霊とイェシュアの霊がミングリングされた場所」です。つまり、「霊の中」です。その中に「御国の福音」の種が蒔かれることによって、多くの実が結ばれるのです。
(2)「多くの実を結ぶ」とは
●多くの実を結ぶことを、私たちは「御霊の実」(ガラ5:22~23)と考えてしまいます。それは間違っているとは言いませんが、マタイ13章にある他の「御国のたとえ話」からすると観点が異なり、一貫性に欠けます。イェシュアのたとえ話は、御国(御国の内実、御国へのプロセス)について語られています。ですから、ここでの「良い地で実を結ぶ」とは、実は私たちについて語られているのではなく、第一義的には、「良い地」とは終わりの日に立ち上がる「イスラエルの残りの者の霊の中」を意味し、その良い地が「実を結ぶ」とは、「イスラエルの残りの者」によって「多くの異邦人が救われること」を意味するのです。「イスラエルの残りの者」は、終わりの日に、主の大いなるあわれみによって集められ、彼らの霊の中に「恵みと嘆願の霊」が与えられます。そのことによって悔い改めが起こり、イェシュアをメシアと信じるユダヤ人となります。彼らはイスラエルに与えられた「王なる祭司の務め」を果たして、多くの数えきれない異邦人たちにイェシュアの伝えた「御国の福音」を宣べ伝えます。マタイの福音書24章14節に「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」とありますが、これはやがて「イスラエルの残りの者」が御国の福音を伝えることで、多くの異邦人が救われることの預言です。このことを、種蒔くイェシュアが「種」は「良い地に落ちて実を結ぶ」と言っているのです。「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のこと」(マタイ13:23)ですが、これが「イスラエルの残りの者」のことだと理解する者がどれほどいるでしょうか。この「御国の福音」を私たちに当てはめているとすれば、聖書は預言の書とは言えないのです。聖書の基軸はあくまでもイスラエルとその歴史を通して啓示されているのです。
●「良い地に落ちた種」は実を結び、あるものは「百倍、六十倍、三十倍になった」とあります。これをマルコの福音書は逆にして「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」とあります。「三十・六十・百」は「三・六・十」の倍数です。「三・六・十」の数をヘブル文字にして左から並べるなら、「ゴーイ」(גּוֹי)という語彙になります。この「ゴーイ」(גּוֹי)が異邦人を表しているゆえに、「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」と語られているのです。ですから、これはエックレーシア(教会)に語られた預言ではなく、イスラエルに対して語られた預言だ、ということになる話なのです。
●「イスラエルの残りの者」が「男の子」(異邦人)を産むのは、未曾有の大患難の時です。これはダニエル書12章に預言されています。
【新改訳2017】ダニエル書12章1~4節
1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君 ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。
しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。
2 ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。
ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。
3 賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。
4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと捜し回る。」①1節の「かつてなかったほどの苦難の時が来る」とは「未曾有の大患難」を意味します。「しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる」にある「あの書に記されている者」とは、神のシナリオにある「いのちの書」の中に名が記されている者のことであり、イスラエルの中では「イスラエルの残りの者」がそれに相当します。彼らは「未曾有の大患難」の中にあっても神の印が与えられ、死ぬことが決してありません。
②2節の「ちりの大地の中に眠っている者」とは「死んだ旧約の人々」のことです。彼らはメシアが来られるときに「ある者は永遠のいのちに」、「ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に」定められます。「永遠のいのちに」定められた旧約の聖徒たちは、イェシュアの再臨時に死からよみがえってメシア王国に入ります。しかしそれ以外の「ちりの大地の中に眠っている者」は、メシア王国の終わりに白い御座のさばきにおいて「恥辱と、永遠の嫌悪に」定められます。
③3節の「賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者(原文は複数)は、世々限りなく、星のようになる」の「賢明な者たち」と「多くの者を義に導いた者(複)」とは、「イスラエルの残りの者」のことです。
④いずれにしても、「イスラエルの残りの者」にだれが入っているのか、あるいはだれが「永遠のいのちに」定められた「聖徒」であるのか、だれが「恥辱と、永遠の嫌悪に」定められているのか、だれにも全く知らされてはいないのです。
3.「とどまる」ことによる新たな命令
●イェシュアの口から出ることば(=レーマ)は、常に「御国」(マルフート=王なるメシアが支配する国)にかかわる話であり、歴史の終わりである「メシア王国」に向けられた話で、それゆえ預言なのです。イェシュアにとどまることによって多くの実を結ぶことと、イェシュアの弟子となることは同義であり、そのことによって、わたしの父は栄光をお受けになるとイェシュアは語っています。これは、基本的に「イスラエルの残りの者」に対して語られた預言のことばであり、「実を結ぶ」とはイスラエルの残りの者を通して「多くの異邦人が救われる」ということです。ここに、イェシュアのいう「愛」が求められるのです。なぜならその宣教はユダヤ人から異邦人に対するものだからです。「ヨナ書」の最後にある神のことばは何でしょうか。
【新改訳2017】ヨナ書4章10~11節
10 主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」
●ここでの神の問いかけは何でしょうか。10節と11節に「惜しむ」という動詞があります。この語彙は「フース」(חוּס)という愛情用語で「あわれむ、惜しむ、ひかれる」ことを意味し、そのための骨折りや労苦、配慮と育成を伴っています。ところが、労して育てたこともない唐胡麻を惜しんでいるヨナに対して、異邦人に対する愛にいかに乏しい人間であるか、そのことを神は訴えているのです。
【新改訳2017】ヨハネの福音書15章7~10節
7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
(1)「何でも欲しいものを求めなさい」
●なぜ、ここで「何でも欲しいものを求めなさい」と命じているのでしょうか。それは「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっている」ことで、イェシュアと一つとなっているからです。「わたしと父とは一つです」と言われたイェシュアがすべて父のみこころを行ったように、イェシュアとそのことばを食べてイェシュアと一つになっている者なら、必ず御父のみこころのみを求めるはずだからです。ですから、それを求めるなら、かなえられるとされているのです。「求めなさい」は「バーカシュ:בָּקַשׁ」、あるいは「シャーアル:שָׁאַל」の命令形ですが、文脈を見るなら、その求めるものは「愛」だと言っているようなものです。ここでは弟子たちに語っているように見えますが、やがて起こってくる「イスラエルの残りの者」に対して、イェシュアは預言的に語っているのです。なぜならユダヤ人が異邦人に福音を伝えることは尋常なことではないからです。
(2)「わたしの愛にとどまりなさい」
●ですから、「イェシュアにとどまる」「イェシュアのことばにとどまる」だけではなく、「わたしの愛にとどまりなさい」と語られています。ここでの「愛」(アガペー:ἀγάπη)は名詞ですが、動詞「愛する」(アガパオー:ἀγαπάω)の数は他の書に比べて、ヨハネの福音書とヨハネの手紙はダントツです。10節に「わたしの戒め」ということばがあります。「戒め」は「エントレー」(έντολή)で「命令」とも訳せます。ヨハネ15章12節に「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒め(έντολή)です」とあり、Ⅰヨハネの手紙5章2節「神の命令(έντολή)を守ること、それが神を愛することです。神の命令(έντολή)は重荷とはなりません」にも使われています。ヘブル語の「ミツヴァー」(מִצְוָה)は、日常の行動の細々とした指針というよりも、幹となるような太い命令を意味しますが、「愛」「愛する」がそれに相当します。神の民イスラエルが異邦人を愛するという尋常ではないことが、神の歴史の終わりの日に成就するのです。それがパウロのいう「新しい一人の人」の実現です。イェシュアは「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となる(未来形)ことによってわたしの父は栄光をお受けになります」と語られました。そのことを心に留めたいと思います。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。
2025.3.02
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