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3章1節


創世記3章1節

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【新改訳2017】創世記3章1節
さて蛇は、神である【主】が造られた(עָשָׂה)(הַשָּׂדֶה)の生き物(חַיָּה)のうちで、ほかのどれよりも(מִכֹּל)賢かった(הָיָה עָרוּם)。蛇(נָּחָשׁ)は女(אִשָּׁה)に言った。「園の木のどれからも(מִכֹּל)食べてはならないと、神は本当に言われたのですか(אַף כִּי־אָמַר)。」

【聖書協会共同訳】創世記3章1節
神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」


(1) 語りかける「蛇」 

  • 1節冒頭の原文は「さて蛇は、~であった」(「ヴェハッナーハーシュ・ハーヤー」וְהַנָּחָש הָיָה)で始まっています。ここで強調されているのは「蛇」(「ナーハーシュ」נָּחָשׁ)の存在です。この「蛇」が「女」(「ハーイッシャー」הָאִשָּׁה)と語る会話が1~5節に記されているのです。「神である主が造られた生き物のうちで、蛇だけが語ることができた」とすべきところを、「ほかのどれよりも賢かった」とあります。蛇は14節で「腹這いで歩くようになる」とあるので、それまでの蛇は私たちがイメージするのとは異なっていたようです。
  • なぜ「蛇」が語ることができるのか、その説明は全くありません。エデンの園には神の造られた多くの生き物が存在しているのですが、その中で言葉を話す「蛇」というのは一見異常なことです。その会話のやりとりはまず「蛇」が「女」に語り、そして「女」が「蛇」に語り、そしてまた「蛇」が「女」に語っているだけです。「語る」を意味する「アーマル」(אָמַר)が三度飛び交っただけです。つまり蛇は二度女に語っただけです。一回目は「質問」、そして二回目は「断言とその理由」です。そのことで「蛇」は、自分の意図した目的を遂げてしまったのです。
     
  • ところでなぜ「蛇」なのでしょうか。1節には「蛇」が神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かったとあります。「賢い」と訳された形容詞の「アールーム」(עָרוּם)の動詞は「アーラム」(עָרַם)で、「利口である、悪賢い」という意味でもあります。新改訳2017、新共同訳、岩波訳、七十人訳が「賢い」と訳していますが、口語訳と新改訳改定第三版は「狡猾で」、中沢訳は「悪賢い」と訳しています。それにしても「賢い」と「狡猾」さはどのようにして結びつくのでしょうか。「蛇」は神が造られた被造物であり、創世記1章によれば、神はご自分が造ったものを見られたとき、それは「非常に良かった」とあります(1:31)。イェシュアが弟子たちを宣教に送り出すときにこう言われました。

【新改訳2017】マタイの福音書 10章16節
いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。

  • イェシュアは「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と使徒(弟子)(たちに命じています。それは「蛇」の持つ性格さを意味しています。ここではイェシュアが蛇を「狡猾」だという意味で使ってはいません。果たして「女」は「蛇」をどのように見ていたのでしょうか。決して狡猾な生き物だとは見なしていなかったのではないかと思われます。むしろ。利口で、神のような賢さを持てるように教えてくれる一見優しい、親切な存在として見ていた感があります。鍋谷尭爾氏は「女の前に現れた時の蛇は、かわいいリスやウサギのような形であったと思われます」と記しています。もし蛇が狡猾だと知っていたなら、女も用心したに違いありません。それほどに、「蛇」が「賢かった」としか言いようがありません。「狡猾」であるという訳は翻訳者の解釈が先行していると言えます。
  • いずれにしても、その蛇が巧みに神に対する反逆の言葉を語っています。ということは、この蛇の背後にあって存在している神の敵であるサタンが、最後のアダムでも誘惑しているように、蛇を用いて女に語りかけたと言えます。しかしそのことは創世記3章では一切語られていません。では早速、女と蛇との会話を丁寧に見ていきたいと思いたます。

(2) 蛇の巧みな誘導質問 

  • 1節の後半のことばを原文通りに訳すならこうなります。「あなたがたは、園のどの木からも食べてはならないと神が本当に言ったのか。」―この質問の中に実に神に敵対する狡猾な意図があるのです。「本当に言ったのか」という言い回しは、ヘブル語では「アフ・キー・アーマル」(אַף כִּי־אָמַר)と表現されます。「アフ」(אַף)は名詞の「鼻、怒り」ではなく、ここでは接続詞して使われ、「アフ・キー」(אַף כִּי)で「ほんとうに・・か?」という意味になります。
  • 2章16~17節で、神である主が「食べなさい」(אָכֹל תֹאכֵל)、「食べてはならない」(לֹא תֹאכַל)と命じられた行為が、3章1節から、木の実を「食べる」ことについて蛇が誘導質問をしてきます。一見、「食べてよいのか」「食べていけないのか」を巡っての会話のように見えますが、事はそれに付随している事柄に巧妙な罠が隠されていたのです。つまり、「食べる」ということは、その食べ物と一体になることを意味しています。預言者エゼキエルは神の言葉(トーラー)に従って生きることを、「食べる」行為と同義と考えていました(エゼキエル2:6)。

【新改訳2017】エゼキエル書2章8節
人の子よ。あなたは、わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のように、あなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開けて、わたしがあなたに与えるものを食べよ

  • 神のことばに聞き従って生きることは、エデンの園では「木」、荒野では「マナ」、約束の地カナンでは「パン」にたとえられます。イェシュアの五千人の給食の奇蹟にある「五つのパンの二匹の魚」とは「タナフ」(五つのパンとはモーセ五書のことであり、預言書と詩歌は二匹の魚を意味しています。つまり旧約聖書)を意味し、人々が十分に食べて余った「十二のパンのかご」はイスラエルの民を意味しています。つまり、このパンの奇蹟はイスラエルの民たちに対して、メシアであるわたし(イェシュア)こそ神のことばを食べさせて生かす者であることを啓示された出来事だったのです。

2018.11.28

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