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3章13節


創世記 3章 13節

【新改訳2017】創世記3章13節

神である【主】は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」

【聖書協会共同訳】創世記3章13節

神である主は女に言われた「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」

יג וַיֹּאמֶר יְהוָה אֱלֹהִים לָאִשָּׁה מַה־זֹּאת עָשִׂית
וַתֹּאמֶר הָאִשָּׁה הַנָּחָשׁ הִשִּׁיאַנִי וָאֹכֵל׃

ベレーシート

●神である主が女に「あなたはなんということをしたのか」という問い掛けに対して、女は蛇が私を惑わしたのです」と答えています。女は確かに蛇に惑わされたことを告白したのです。これは蛇に責任転嫁していると受け取るよりも、自分が蛇に惑わされた(だまされた、欺かれた)と認めていることが大切です。女と蛇、この関係について聖書全体から思い巡らしてみたいと思います。

1. 聖書における「女」とは

●「女と蛇」(「イッシャー」אִשָּׁהと「ナーハーシュ」נָּחָשׁ)の関係ついて知るためには新約聖書の助けが必要です。

①人にふさわしい助け手としての「女」・・創世記2章28節
②キリストの花嫁としての「女」(=教会)・・・・エペソ5章32節
③「男の子」を産む「女」(=イスラエル)・・・・黙示録12章5節
④新しいエルサレムとしての「女」・・・・・・黙示録21章2節。

●④を除く①②③は、すべて蛇に象徴されるサタンの惑わしを受ける対象です。一方、蛇は「巨大な竜、悪魔、サタン、古い蛇」(黙12:9)とも呼ばれ、キリストが再臨されるまで、教会もイスラエルも含めて、全世界を惑わす存在です。

2. 「あなたはなんということをしたのか」

●「あなたはなんということをしたのか」というフレーズは旧約だけで15回あります。その多くは、人が人に対して語った言葉の中にあります。しかし、神である主が直接語られたのは2回です(創世記2:13, 4:10)。他に、預言者エレミヤを通して語ったことばの中に1回あります。それは以下の通りです。

【新改訳2017】 エレミヤ書8章1, 4~7節
1 「そのとき──【主】のことば──
4 あなたは、彼らに言え。『【主】はこう言われる。人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか。
5 なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。彼らは偽りを握りしめ、帰って来ることを拒む。
6 わたしは気をつけて聞いたが、彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って自分の悪を悔いる者は、一人もいない。彼らはみな、戦いに突き進む馬のように、自分の走路に走り去る。
8:7 空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は【主】の定めを知らない。

●ユダの民の中には「私は何ということをしたのか」と言って自分の悪を悔いる者は、一人もいない。彼らはみな、戦いに突き進む馬のように、自分の走路に走り去る。」と主は語っています。すでにユダの民は自分の罪を罪として悔い改めることができないだけでなく、戦いに突き進む馬のように、「自分の走路を走り去る」しかできないとあります。これは、羊飼いのない羊の群れのようであり、その結末は死です。イザヤ書53章6節もこのことを預言しています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」と。しかし、この6節後半には「【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」とあります。つまり主のしもべがその任を担う者となるという預言です。その「主のしもべ」こそ「女の子孫」であるイェシュアなのです。

●自ら悔い改めることのできない者のために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)と祈られました。創世記3章13節の「あなたはなんということをしたのか」ということばには、人には想像しえないことが起こったことーすなわち、私たちすべての者の咎を彼(主のしもべなる御子イェシュア)に負わせる以外に回復する術がないという神の思い、その思いが込められたことばだったのです。


3. 「惑わす」

●「蛇が私を惑わした(だました)」にある「惑わす」というヘブル語は「ナーシャー」(נָשָׁא)です。「蛇が私を惑わしたのです」という場合はヒフィル(使役)態で「だます、惑わす、ごまかす、欺く」となり、「私は蛇に惑わされたのです」という場合は二フィル(受動)態で「だまされる、惑わされる、ごまかされる、欺かれる」となります。

●使徒パウロは、クリスチャンや教会に対するサタンの「惑わし」について言っています。その用語は三つ、その一つは「エクサパンタオー」(ἐξαπατάω)で「まんまと惑わす、だます、欺く」という意味で6回、他には「エクサパタオー」の冒頭の「エク」(ἐξ)を取り除いた「アパタオー」(απατάω)が3回使われています。これはパウロの特愛用語です。

●「惑わす」という語彙でもうひとつあります。それは「プラナオー」(πλανάω)で39回使われおり、こちらが一般的であり、イェシュア自身が言われた「惑わされる・思い違いをする」もこの語彙が当てられています(マタイ22:29)。

(1) 「エクサパタオー」(ἐξαπατάω)

【新改訳2017】ローマ人への手紙 7章11 節
罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙16章17~18節
17 兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
18 そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望(=「腹」κοιλία)に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙 3章18節
だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。

【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙11章2~4節
2 私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。
3 蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。
4 実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。

【新改訳2017】Ⅱテサロニケ人への手紙2章3節
どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

(2)「アナタオー」(απατάω)

【新改訳2017】エペソ人への手紙 5章6節
だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。

【新改訳2017】ヤコブの手紙 1章26節
自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

(3) 「プラナオー」(πλανάω)

【新改訳2017】マタイの福音書18章12節
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

【新改訳2017】マタイの福音書24章
4 そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします
11 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします
24 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙 6章7節
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録2章20節
けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし(=誤りに導く)、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。・・21 この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録12章9節
こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたち(=悪霊たち)も彼とともに投げ落とされた。

●他にも、ヨハネの黙示録は「惑わす」のことが13章14節、20章3, 8, 10節にあり、人々は「惑わされる」ことが多くなってくることが記されています。人々を惑わすのは悪魔です。その悪魔は「火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。」(黙20:10)とあります。

●このように「プラナオー」(πλανάω)には、「惑わされる」「迷い出る」「思い違いをする」という意味があるのです。この弱さこそが罪ある人間の姿なのです。

●このように見てくると、サタン(悪魔)が私たちを惑わすその方法は、キリストの教えとは異なる教えをもたらすことであることが分かります。エバがそうであったように、サタンは「滑らかなことば、へつらいのことばをもって」欺くのです。終わりの日が近づくにつれて、惑わしの力はより増し加わっていきます。

●キリストの花嫁である教会である「女」は、なんとしても敵によるこの惑わしから守られなければなりません。キリストの教えからの逸脱はどんな困難や苦難や迫害よりも力があるからです。ですから、主にある私たちは「霊の人」(=御霊に属する人)として成長し、神のことば、キリストのことばを正しく聞き、それを理解し、それに従わなければならないのです。そのためには、詩篇119篇節の祈りが不可欠です。

【新改訳2017】詩 119篇18節
私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいこと(=キリスト)に。


2020.7.3
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