****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

3章20節


創世記3章20節

【新改訳2017】

人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。

【聖書協会訳共同訳】

人は妻をエバと名付けた。彼女がすべての生ける者の母となったからである。

כ וַיִּקְרָא הָאָדָם שֵׁם אִשְׁתֹּו חַוָּה
כִּי הִוא הָיְתָה אֵם כָּל־חָי׃

ベレーシート

●20節では妻の名前が「エバ」に改名されています。旧約で改名された人としては、アブラムが「アブラハム」に、サライが「サラ」に、ヤコブが「イスラエル」に変わっています。新約では「シモン」が「ペテロ」に改名されています。いずれも、神が、イェシュアがそうしていますが、妻を「エバ」に改名したのは、神ではなく人です。聖書で改名されるのは、その存在が新たな霊的な意味を持ったことを意味します。では、人によって「妻」が「エバ」になったということの中に、どのような新しい霊的な意味があるのでしょうか。ちなみに、「エバ」と訳される名前は、ヘブル語では「ハッバー」(חַוָּה)です。その名前は、3章20節と4章1節の二箇所のみで使われています。

1. 「ハッバー」が意味すること

●「ハッバー」(חַוָּה)は「いのちを与えるもの」という意味ですが、20節の後半には、それが「生きるものすべての母」「すべての生ける者の母」と定義づけされています。この「すべての生ける者」とは全被造物という意味ではなく、「神によって贖われたすべての神の民」という意味です。すでにアダムは「女のすえ」が来ることを神のことばによって知らされました。それゆえ、アダムは神から与えられた妻の名をいのちを意味する「エバ」(「ハッヴァー」)と名づけました。これはアダムの最初の信仰告白なのです。アダムは妻の名を呼ぶたびに、神から与えられた約束を確信したに違いありません。

●「母」は「エーム」(אֵם)ですが、この意味について、古代ヘブル語の研究家であるJoff A.Benner氏は次のように述べています。

●「エーム」(אֵם)はアーレフとメームの二つの文字から成っており、文字のアーレフは「牛、力」を意味し、メームは「水」を意味します。ですから、それは「強い水」です。古代の人々は動物の皮膚を剥いでそれを水で沸騰させ、粘りのある濃い液体を取り出し、それを接着剤として使用しました。そこから、母親は「家族を結びつける」という意味になりました。ちなみに、「父」の「アーヴ」(אָב)は「家族を強くする」という意味になります。

●これまで、「女・妻」である「イッシャー」(אִשָּׁה)は、生物学的な女という意味ではなく、神の民イスラエル、あるいは教会を表わす表象だということを学んできました。その女が「母」となるということは、「神によって贖われた神の民たちを結びつける」ことを意味します。創世記1~3章は、神のご計画において、終わりの日に起こる事柄を啓示しています。その視点から「母」という霊的な意味を考える必要があります。

2. 「上にあるエルサレムこそ、私たちの母」

●「子を産み出す母」、神のすべての民、教会を産む存在と言えば、それは天にあるエルサレムしかありません。使徒パウロはガラテヤ書の中で、ハガルとサラの二人の女を類比して、ハガルを「今のエルサレム」(神殿ユダヤ教)、サラを「上にあるエルサレム」(天にあるエルサレム)としています。そして、「上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です」と言っています。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙4章24~26節
24 ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。
25 このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。
26 しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です

●やがて、天から降りて来るム新しいエルサレムにおいて、イスラエルと教会は神と共に永遠に住まうのです。

3. 神の都シオンが万民の母となる

●詩篇87篇は母に関する終末的啓示が記されている詩篇です。

【新改訳2017】詩篇87篇1~7節
1 主の礎は聖なる山にある。
2 【主】はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。
3 神の都よ あなたについて誉れあることが語られている。セラ
4 「わたしはラハブとバビロンを わたしを知る者として記憶しよう。見よ ペリシテとツロ クシュもともに。『この者はこの都で生まれた』と。」
5 しかしシオンについてはこう言われている。「この者もあの者も この都で生まれた。いと高き方ご自身がシオンを堅く建てられる」と。
6 【主】が「この者は この都で生まれた」と記して国々の民を登録される。セラ
7 歌う者も 踊る者も「私の泉はみな あなたにあります」と言う。

※ラハブ(エジプト)、バビロン、ペリシテ、ツロ、クシュ(エチオピア)は異邦人の代表です。

●3節の「神の都よ あなたについて誉れあることが語られている」とあります。「神の都」とは「シオン」(エルサレム)のことです。そのシオンについて「誉れあること(すばらしいこと)」として語られています。だれが語っているのかといえば、それは「主」です。「誉れあること」と訳されたことばは「カーヴァド」(כָּבַד)で「尊ぶ、重んじられる、重くなる、栄光を得る」という意味です、「カーヴァド」の名詞形は「カーヴォード」(כָּבוֹד)です。つまり、ここでは神の都の重い事柄が語られているのです。この「重い事柄」とは何かといえば、それは神の都シオンが万民の母となるということです。

●5節には、「しかしシオンについてはこう言われている。『この者もあの者も(だれもかれもが)、この都で生まれた(原文は「その中で生まれた」יֻלַּד־בָּהּ)』と。いと高き方ご自身がシオンを堅く建てられる。」とあります。これをバルバロ訳では、「だが、シオンについては、みながそれを母と呼ぶ、その中でみな生まれたのだから。いと高きものが、それを固められた。」と訳しています。

●詩篇87篇には、三度「生まれた」ということばが出てきます。原語は「ヤーラド」(יָלַד)のニファル態です。バルバロ訳で「シオンについては、みながそれを母と呼ぶ」と訳されているのは、「シオン」が女性名詞だからです。

●ヘブル語の名詞には男性名詞と女性名詞があります。日本語にはその区別はありません。ちなみに、ギリシア語ではさらに中性名詞というのもあります。ヘブル語において、地名、体の器官、国名などは女性名詞です。また、地(アーレツ)、町、都(イール)、井戸、火、石、ぶどう、剣、魂、杯、羊・・なども女性名詞です。ですから、神の都である「シオン」(女性名詞)において、「だれもかれもが、そこで生まれる」、それゆえに、「みながそれを母と呼ぶ」と訳されているのです。LXX訳では「人は母シオンと言う」(μητηρ σιων ερει ανθρωπος )と訳されています。

●新約聖書で「教会」と訳される「エックレーシア」も女性名詞であるゆえに、母なる教会、母教会と呼ばれたりします。父なる教会とは言いません。私たちが神の子と呼ばれるのは、父なる神が、母なる教会の中に私たちを誕生させるからです。

●なぜ「母教会」という言葉があるのか、実は私にとって不思議でした。自分がクリスチャンとなった時に所属していた教会が「母教会」と思っていましたが、真の母教会はエルサレムなのです。そこから多くのローカル教会が生まれ出ています。各教会の母は一つしかないのです。ある牧師が「北海道にはいくつの教会がありますか?」と質問しました。答えは「一つ」。とすれば、日本にも、世界にも教会はただ一つしかありません。教会はかつてエルサレムで誕生し、私もその流れの中で「生まれた」のです。しかし、それは目に見えるエルサレムではなく、目に見えない天のエルサレムで生まれ、神の子として登録されているのです。

4. 天のエルサレムに名が登録された者

●神の民は、すべて天のエルサレム(シオン)に生まれた住民として登録されています。ユダヤ人だけでなく、異邦人も含めてです。新しいエルサレムではイスラエルと教会が一つとなっています。その証拠に4節では「わたしはラハブとバビロンを・・。見よ。ペリシテとツロ、クシュもともに。『この者はこの都で生まれた』と。」とあります。ここに出てくる国はかつてイスラエルに敵対していた国です。それらが同じ家族として数えられているのです。

【新改訳2017】民数記1章18節
第二の月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごと、一族ごとに、二十歳以上の者の名を一人ひとり数えて、その家族表で本人を確認した

【新改訳改訂第三版】民数記1章18節
「・・・そこで氏族ごとに、父祖の家ごとに、20歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した。」

●家系を登記した目的は、神の民の一人ひとりに、自分がどこに所属しているのかを明確に意識させるためだけでなく、神がアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約とその保障の中にあることを確信させるためでした。新約時代の神の子どもたちとは水と霊によって新しく神の国に生まれ、そこに登録された者たちのことです。ヨハネの手紙第一5章1節には「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです」とありますが、自分の出生が明確であることは神の子のアイデンティティの確立においてきわめて重要です。

●信仰によって、キリストにある者たちはすでに天に属する者として登録されているのです。この霊的な登録が不確実であれば、霊的祝福を保障されません。私たちは、キリストにあって、死からいのちへ移行して神に帰属する者となっているのです。そして神と親しく交わることのできる永遠のいのちを与えられています。しかし、自分の出生が不確かで、秘密のままであるなら、自分という存在そのものが不確かとなり、生きていく力を奪われないとも言いかねません。普通の場合でも、自分の出生が明確であること(自分の父が誰であり、誰が自分の母であるか、自分の兄弟は誰かをはっきりと知って生きること)は、その人に生きる自信をもたせます。しかしそこに秘密がある場合には、自分の存在の土台にゆらぎが生じます。したがって、神の子(民)が天に属する者であるという明確な認識は生きる上で大きな力をもたらすのです。しかもその明確な認識は、これから遭遇することになる敵との戦いに備える上でも優先度の高い事柄なのです。

●ですから、イェシュアは、「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」という弟子たちに言われました。

【新改訳2017】ルカの福音書10章18~20節
18 ・・「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。20 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

●「名が天に書き記されている」ということは、神のあらゆる豊かな祝福を受けることのできる者として登録されているということです。このことを、使徒パウロは「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)と記しているのです。

2020.8.6

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