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3章22節b「今、人がその手を伸ばして、いのちの木から」


創世記3章22節b「今、人がその手を伸ばして、いのちの木から」

【新改訳2017】

「今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」

【聖書協会共同訳】

「さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」

כב-ב וְעַתָּה ׀ פֶּן־יִשְׁלַח יָדֹו וְלָקַח גַּם מֵעֵץ הַחַיִּים וְאָכַל וָחַי לְעֹלָם׃

ベレーシート

●この箇所の新共同訳も載せておきたいと思います。

【新共同訳】創世記3章22節b
「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」

冒頭にある「今」(新改訳2017・新共同訳)、聖書協会共同訳では「さあ」と訳されている「アッター」(עַתָּה)はどんなニュアンスの語彙てしょうか。22節前半の「見よ」(「ヘーン」הֵן)と対応しているように見えます。原文では「ヴェアッター」(וְעַתָּה)とあり、正確には「そして今」です。これは時間的な意味での「今」という意味ではなく、神の意向としての思いの発露を表わしているように見えます。神が「見よ」と強調される事柄について、神が今後どうするつもりなのかを表わす語彙が「アッター」(עַתָּה)に込められています。


1. 「彼が(人が)・・しないように」

●前回、22節の前半「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」の部分を扱いました。「人はわれわれのうちのひとりのようになり」を、「人は善悪の知識の木、それとひとつになった」と理解しました。今回はその後半の部分です。

●「ペン」(פֶּן־)は「・・するといけないから」「・・しないように」という否定の接続詞。これは4つの動詞「伸ばす」(שָׁלַח)、「取る」(לָקַח)、「食べる」(אָכַל)、「生きる」(חָיָה)のすべてにかかっています。それゆえ、「神である主は、『今、彼がその手を伸ばさないように、いのちの木から取らないように。そしてそれを食べないように、永遠に生きないようにしよう。』と言われた。」と訳すことができます。そのように訳すことで、23節の冒頭の接続詞「ヴァ」(וַ)が結果を表わす接続詞として生かされて、「それゆえ、神である【主】は人をエデンの園から追い出し・・た」となります。


2. 「いのちの木」(「エーツ・ハハッイーム」עֵץ הַחַיִּים)とは

●今回は、エデンの園にある「いのちの木」そのものについて考えてみたいと思います。なぜ神は、善悪の知識の木とひとつになった人がいのちの木からも取って食べることを拒絶されたのでしょうか。それは「いのちの木」を食べることが、どういうことかを理解しなければなりません。

●「いのちの木」とは、言い換えるならば「神を知る知識」「主を完全に知る知識」と言えます。「いのちの木」は神の御子イェシュアのことです。このイェシュアを食べることによって、人は神のみこころを知り、かつ完全に従うことができるのです。それに対して、「善悪の知識の木」とは「すべての知識の木」を意味します。一見、それを食べると知恵深くなるように思えますが、これは人間の基準における善悪に基づくもの、すなわち、神と敵対する「人間の戒め」なのです。したがって、これによってはいのちを得ることかできません。イェシュアの時代の祭司や律法学者たち、パリサイ人たちは、「人間の戒め」によって、自ら神の座(モーセの座)に着き、神に逆らう者となりました。そして、自分さえ負うことのできないくびきを人々に負わせたのです。それゆえ、イェシュアは彼らに対して「蛇よ、まむしの子孫よ」(マタイ23:33)と言っています。イェシュアのみならず、パウロも律法主義によるユダヤ教の伝統を「人間の戒めや教えによるもの」と言っています。ヘブル書に至っては、それを捨て去るようにとも言っています。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙2章21~23節
21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。
22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。
23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

●「いのちの木」を持ちない知識と一体となった人は、神を知ることはできないのです。「いのち」とは「永遠のいのち」と同義です。イェシュアは十字架にかけられる前に祈りました。その祈りの中に以下のフレーズがあります。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 17章3節
永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

●この聖句は不思議な聖句です。御子が祈っているのに、自分のことを「あなたが遣わされたイエス・キリスト」と言っているからです。御子と御父とは「ひとつ」(「エハード」אֶחָד)です。そのかかわりを「知る」ことこそ、「永遠のいのち」だと言っているのです。このいのちを人に与えるために、御子が遣わされたのです。御子を通してはじめてその「いのちの木」を食べることが許されるのです。「人間の知識や知恵」や「人間の力」によっては決していのちにあずかることができないのです。このことを学ばせるため、神は人をエデンの園から追い出した(=「遣わされた」שָׁלַח)のです。このことについては、次節の23節で扱います。

2020.8.25
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