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3章23節「人をエデンの園から追い出し」


創世記3章23節 「人をエデンの園から追い出し」

【新改訳2017】
神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、
人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。

【聖書協会共同訳】
神である主は、エデンの園から彼を追い出された。
人がそこから取られた土を耕すためである。

כג וַיְשַׁלְּחֵהוּ יְהוָה אֱלֹהִים מִגַּן־עֵדֶן לַעֲבֹד אֶת־הָאֲדָמָה אֲשֶׁר לֻקַּח מִשָּׁם׃

ベレーシート

●23節では、神である【主】が人をエデンの園から追い出したその意図について、人がエデンの園を追い出された後も、自分がそこから取られた「土を耕すため」とはどういうことかを考えます。そして、そもそもエデンの園とはどういう世界だったのかを考えたいと思います。

1. 神である【主】が人をエデンの園から追い出したその意図

●「追い出した」と訳されたヘブル語は「シャーラハ」(שָׁלַח)です。24節の「追放した」は「ガーラシュ」(גָּרַשׁ)で語彙が異なります。どのように異なるのでしょうか。それは次節で取り扱いたいと思いますが、今回は「シャーラハ」(שָׁלַח)について考えてみたいと思います。この動詞はすでに22節にも登場しています。そこでは「人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」の「手を伸ばして」で使われています。しかし23節では、主語は人ではなく、「神である主」が「人をエデンの園から追い出し」たで使われています。この動詞は「送り出す」「遣わす」という使命を果たすために使われる語彙ですが、その強意形ピエル態が「追い出す」という意味になります。同じ例として、イザヤ書50章1節がそうです。そこではイスラエルに対して語られています。

【新改訳2017】イザヤ書50章1節
【主】はこう言われる。「わたしがあなたがたの母を追い出したという離縁状はどこにあるのか。わたしがあなたがたを売ったという、わたしの債権者とはだれなのか。見よ。あなたがたは自分たちの咎のために売られ、自分たちの背きのために、母は追い出されたのだ。

●「母」とは「エルサレム」のことです。聖書では神と民は結婚関係にたとえられています。申命記24章には、夫が離縁状を出すなら離縁することができるとあります。しかし、この離縁状がなければ別居していても、復縁することができました。かつてイスラエルの民は偶像礼拝の罪で捕囚の民となりましたが、それは神との別居の状態を示すものです。しかし、それは彼らが捕囚の地で真の夫を見出すための神の計らいであったのです。

【新改訳2017】エレミヤ書29章10~14節
10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』

●この預言はバビロン捕囚のことだけではなく、「あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める」とあることから、「終わりの日」の出来事をも預言していると言えます。

●人が罪を犯したがゆえのエデンの園からの「追い出し」の意味を、人(神の民イスラエル)は、長い苦難の歴史を通して、経験的に学ばなければならなかったのです。「神の追い出し」は創世記3章から黙示録20章に至るまでの、神が人に永遠のいのちを見出させるための「ミシオ・デイ」(ラテン語)、すなわち「神のミッション(使命)」なのです。これが神のご計画です。私たちは聖書を通して、またイェシュアを通して、この偉大な神のご計画にあるミッションを理解しなければなりません。神からの追い出し(שָׁלַח)は、人が「手を伸ばして永遠のいのちを得るため」の、すなわち「神を知るため」のミッションなのです。


2. 「土を耕すため」とはどういうことか

●人がエデンの園から追い出された目的は、「人がそこから取られた土を耕すため」とあります。「土を耕す」というフレーズはこれまでにも何回か登場しました(2:5, 15)。人が「土を耕す」の「耕す」と訳された語彙は「仕える」という動詞です。それは「祭司用語」であり、その意味は、地にある「土」に仕えるという言い方によって、天にある神のみこころを地に実現するという祭司の務めを意味するのです。事実、アダムから始まってセツ、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)といった系列は、神のみこころを地において成す祭司の務めをした人物です。その子孫(トールドート)は、やがて「最後のアダム」(大祭司である神の御子イェシュア)につながっていきます。

3. 「エデンの園」とはどんな世界か

創世記2~3章の中で「エデン」という語彙は5回出てきます。

①【新改訳2017】創 2:8
神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
②【新改訳2017】創 2:10
一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。
③【新改訳2017】創 2:15
神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
④【新改訳2017】創 3:23
神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
⑤【新改訳2017】創 3:24
こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

●上記にある「エデン」について最初の言及では、「東の方のエデンに園を設けられた」とあります。「東の方の(に)」と訳された「ミッケデム」(מִקֶּדֶם)は、「昔から」とも訳すことができます()。昔からとは「天地創造の前から」と考えることができます。そこに神である主が自ら形造った人を置かれたのです(2:8)。そこから一つの川が流れて出て、園の全体を潤していました(2:10)。人は園に住まわせられ、そこを耕すという務めが与えられました(2:15)。しかし、人は「善悪の知識の木」と一つになったことで、そこから追い出されることになったのでした(3:23, 24)。

●創世記2章にある「エデンの園」は「幕屋」「神殿」「教会」(キリストのからだ)「メシア王国」、そして究極的には黙示録21~22章にある「新しいエルサレム」へと展開します。「園」(「ガン」גַן)は「囲われたところ」という意味ですが、そこは、神と人とが一つ「エハッド」(אֶחָד)である世界であり、「永遠のいのちが満ち溢れている」世界です。イェシュアはこの世界のことを、最後の晩餐後の祈りの中で、以下のように語っています(ヨハネの福音書17章)。

①【新改訳2017】ヨハネの福音書17章5節
父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。
②【新改訳2017】同、17章11節
・・・聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです
③【新改訳2017】同、17章21~23節
21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。・・

●これらの聖句に貫かれている重要な事柄は、「一つ」(「エハッド」אֶחָד)ということです。この「エハッド」にあるいのちのしるしとして、以下のことが挙げられます。

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章4~12節
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

●以上のヨハネの福音書15章4~12節において、エデンの園と新しいエルサレムに共通する「いのちのしるし」を見ることができます。

(1)「親密さ」
●「わたしにとどまる」「わたしのことばにとどまる」「わたしの愛にとどまる」ということ。「とどまりなさい」という招きは「わたしの家に住みなさい」との招きであり、それは「一体となる」ことを意味します。親密さはともに住むことから生まれるからです。親しい人格的な交わりこそ永遠のいのちなのです。ダビデもその生涯にわたって「主の家に住むこと」を何よりも優先すべき事柄として求めました(詩篇23:6b、詩篇27:4)。

(2)「豊かさ」
●イェシュアは「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」と言われました。「多くの実を結ぶ」とは、かかわりにおけるいのちの豊かさであり、結実です。それは多くの賛美・誉れ・栄光・力・感謝が満ちあふれる世界です。

(3)「喜び」
●「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになる」とイェシュアが言われたように、満ち溢れる喜びです。それは私たちの名が天に書き記されているという神の子としての立場のゆえです。「天に書き記されている」とは、「神の手のひらに書き記されている」ことと同義です。

(4)「自由」
●「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」とあります。愛することで重要なことは「自由」であることです。義務や強制で愛することはできません。人は愛されることによって、完全な恐れから解放されるだけでなく、真理に堅く立つことができるようになるのです。

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2020.8.26
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