****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

3章9~10節


創世記 3章9~10節

【新改訳2017】創世記3章9~10節
9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。
「あなたはどこにいるのか。」
10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、
自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

【聖書協会共同訳】創世記3章9~10節
9 神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私はあなたの足音を園で耳にしました。
私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」

ט וַיִּקְרָא יְהוָה אֱלֹהִים אֶל־הָאָדָם וַיֹּאמֶר לֹו אַיֶּכָּה׃
י וַיֹּאמֶר אֶת־קֹלְךָ שָׁמַעְתִּי בַּגָּן וָאִירָא כִּי־עֵירֹם אָנֹכִי וָאֵחָבֵא׃

ベレーシート

●ここで神である主は人に対して呼びかけます。その妻に対してはありません。頭首権を持つ夫に対して問い掛けです。9節ではその第一の問い掛けが記されています。その問い掛けに対して、人が答えています。ちなみに、第二と第三の問い掛けは11節でなされます。ここでは第一の問い掛けである「あなたはどこにいるのか」を取り上げます。

1. 主の第一の問いかけ

●「あなたはどこにいるのか」と訳された「アッイェッカー」(אַיֶּכָּה)という主の問い掛けはこの箇所だけです。「あなたは」は語尾「カー」(כָּה)で、「どこにいるのか」は「アッイェー」(אַיֵּה)の2人称男性単数です。2人称単数男性で使われているのはこの箇所だけですが、イサクが父アブラハムに「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」(創22:7)にも使われています。主がカインに「アベルはどこにいるのか」と尋ねたときの「どこにいるのか」は「エー」(אֵי)が使われています。

●神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した人に対して呼びかけて言われたことばが、「あなたはどこにいるのか」です。人がどこにいるのか、神に分からないはずがありません。「あなたはどこにいるのか」という問いは、本来人がいるべきところがどこか、なぜそこにいるのかを人に気づかせ、神に立ち戻らせようとしているのです。この神の問いを聞いて、神に立ち返る者は幸いです。

●ところが、この神の問いに対して人は隠れた理由を述べています。その理由とは「自分が裸であるのを恐れて、身を隠した」ということです。原文の直訳はこうです。「あなたの声を園の中で私は聞いて恐れました。なぜなら、私が裸だったからです。それで私は隠れたのです。」

●「あなたはどこにいるのか」という神からの問い掛けは、私たちに、自らの罪をはっきりと示します。私たちは、神から「あなたはどこにいるのか」と問われる時に始めて、自分の罪を本当に自覚することができるのです。神との関係において、今自分がどこにいるのかを知ることがとても大切なことなのです。

2. 「恐れ」と「裸である」ことの密接な関係

(1) 「恐れる」という感情

●ここで、「恐れる」(「ヤーレー」יָרֵא)ということばが初めて使われています。「恐れ」の理由は、人が「裸である」であることを知ることと密接な関係にあるということです。「ヤーレー」には「恐れる。こわがる、尊ぶ、(神を)畏敬する」といった意味がありますが、ここでは「自分が裸であることを恐れる」という意味で使われています。「自分が裸である」ということは、自分が無力であるという感覚です。それゆえ、人は自分で何かを身に着けることによって、恐れの感情からの逃れようとするのです。サタンの戦略は、人のうちに恐れの感情を植え付け、それを何かで覆うことで自分防衛するようにさせたことです。しかしそれは恐れから始まっているので、常に恐れが背景にあって人を脅かすのです。「愛」と「恐れ」は互いに反する語彙です。「いのちの木」であるイェシュアだけが、この「恐れ」を締め出すことができるのです。人が「恐れ」に打ち勝つ道は、「いのちの木」であるイェシュアの他にはいません。

【新改訳2017】Ⅰヨハネ4章18節
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

※この箇所の「愛」は「アハヴァー」(אַהֲבָה)、「恐れ」は「ヤーレー」と同義語の「パハッド」(פַּחַד)が使われています。


(2) 「裸である」という意識

●「裸である」と訳された語彙は形容詞の「ヤーローム」(עָרוֹם)の初出箇所は2章25節です。文字通り、自分を覆うものがない状態であり、人に無力感を生じさせます。それは「死」をイメージさせます。人が「裸である」ことを知って「恐れ」の感情を抱く前には、「恥じる、恥ずかしいと思う」(「ボーシュ」בּוֹשׁ)という感情は少しもありませんでした。ですから、「恥ずかしいとは思わなかった」(創2:25)のです。「裸」「恐れ」による「恥ずかしい」という思い、これに人は支配されることがなかったのです。

●「ヤーローム」(עָרוֹם)は旧約で16回使われていますが、「恐れ」と「恥じる、恥を見る」ことと関連して、比喩的に使われている箇所を引用します。

【新改訳2017】イザヤ20章2~4節
1 アッシリアの王サルゴンによって派遣されたタルタンが、アシュドデに来て、アシュドデと戦って、これを攻め取った年のこと。
2 当時、【主】はアモツの子イザヤによって、すでにこう語っておられた。「行って、あなたの腰の粗布を解き、あなたの足の履き物を脱げ。」彼はそのようにし、裸になり、裸足で歩いていた。
3 【主】は言われた。「わたしのしもべイザヤが、エジプトとクシュに対するしるし、また前兆として、三年間裸になり、裸足で歩いたように、
4 そのように、アッシリアの王はエジプトの捕虜とクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にして、裸足のまま、尻をあらわにして、エジプトの恥をさらしたまま連れて行く。
5 人々は、クシュを頼みとし、エジプトを誇りとしていたゆえに、打ちのめされ、また恥を見る。
6 その日、この海辺の住民(=ペリシテ領にあるアシュドデの住民のこと)は言う。『見よ。アッシリアの王の前から逃れようと、助けを求めて逃げて来たわれわれの拠り所がこの始末だ。われわれは、どうして助かることができるだろうか』と。」

※イザヤは主から「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ」と言われ、そのようにして、裸になり、はだしで歩きました。これは預言的行動によるメッセージです。その意味についても主はイザヤに語られました。エルサレムでの三年間の屈辱的な預言的行動によって、イザヤが恥をさらして訴え続けたことは、エジプトの軍事力に頼ることをやめ、神にのみ信頼することでした。ユダの民は神の警告を受け入れ、近隣諸国が受けたよう恥辱を受けることなく守られたのです。

●「裸」に関する類語として、女性名詞「エルヴァー」(עֶרְוָה)があります。これは裸(恥部)、恥辱を意味する語彙です。創世記9章のそれは、文字通りの「裸」の恥部を意味し、同じく創世記42章9, 12節は無防備な状態を示す「すき」を意味します。語源は「裸にする、むき出しにする、あばく」を意味する「アーラー」(עָרָה)です。

文字通りの「裸」の例

【新改訳2017】創世記9章22~23節
22 カナンの父ハムは、父のを見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
23 それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父のは見なかった。

無防備な状態を示す新約から例

【新改訳2017】ヨハネの黙示録3章17~18節
17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。


●さて、今回の創世記3章7, 10, 11節にある「裸」 (「エーローム」עֵירֹם)ですが、その使用頻度は10回です。これは、文字通りの「裸」を意味し(出18:7, 16)、あるいは、生きる上での「あらゆる欠乏」を意味します(申28:48、出14:7, 22, 39)。語源は動詞の「裸にする、覆いが取り払われる」「ウール」(עוּר)が語源です。

2020.6.23
a:1570 t:4 y:4

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional