****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

3. 「イェシュアは王です」


3.「イェシュアは王です」

べレーシート

  • 「イェシュアはキリストである」という初代教会の信仰告白の第三は、イェシュアが王であるということです。

1. 「ダビデの子」という称号をもった王なるメシア

  • イェシュアを「ダビデの子」と呼んだ者たちが福音書の中に登場しています。「ダビデの子」という称号は「王なるメシア(キリスト)」の称号です。共観福音書の中では、マタイの福音書がマルコとルカにあるすべてを包含していますので、マタイの箇所で見てみます。ちなみに、イェシュアはこの称号をご自身で用いることはありませんでした。イェシュアはご自分のことを「人の子」と呼んでいます。実は、これもメシア的称号ですが、それについては今回ふれないことにします。

画像の説明

  • 「ダビデの子」-ヘブル語では「ベン・ダーヴィッド」(בֶּן־דָּוִד)です。上記のチャートを見ると分かるように、イェシュアを預言されたメシア(キリスト)として信じて呼んだ人々は、当時のエルサレムの指導者たちではなく、盲人、カナン人、そして群衆、子どもたちでした。このことは重要な点です。「ダビデの子」という称号がメシアを指すようになったのは、神がダビデに、「あなたの子孫が永遠の王国を確立する」と約束したことにあります。これは「ダビデ契約」と言われるものです。以下がその契約です。

【新改訳2017】Ⅱサムエル記7章11~16節
11 それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る、と。
12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
15 しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。
16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」

  • 11節の『【主】があなたのために一つの家を造る』の「家」(「バイト」בַּיִת、単数)とは、ここではダビデの住む家のことではなく、ダビデの子孫、ダビデの王族としての家系を意味します。また「造る」と訳された原語は「アーサー」(עָשָׂה)で、新共同訳は「(家を)興す」と訳しています。実際的には、ダビデから生まれる世継ぎとしての子孫(単数)、すなわちソロモンが主のための家を建てること、そして主はソロモンの王国の王座をゆるぎないものとして、永遠に堅く建てる(据える)という約束ですが、そのソロモンの王座は、ソロモンよりもはるかに勝る王であるイェシュアがその視野に入っているのです。これが「ダビデ契約」と言われるものです。
  • ダビデの王国(別名、ユダ王国)はやがて神への背きの罪のゆえに国を失い、バビロンの捕囚の民となりますが、それは神がご自身の民を新しくリセットするための厳しい計らいであり、決してダビデの家を見捨てられたわけではありませんでした。「ダビデに対して語られた約束」のゆえに、再び、バビロンからの帰還を経験します。それは主の民に対する「ヘセド」(恵み、いつくしみ、愛)のゆえであり、契約に対する神の側の責任を行使されたからです。
  • 神がダビデと結ばれた契約は、「王国」(ヘブル語「マルフート」(מַלְכוּת)、ギリシア語「バシレイア」(βασιλεία)、英語「キングダム」(kingdom))に関する約束です。しかもそれは、ダビデとその子孫に永久に与えられたものです。この王国が完全な形で地上に実現するのは、キリストの再臨後の千年王国時代においてですが、その「王国」の訪れがイェシュアの初臨と共に始まっているのです。このことがイェシュアの公生涯の第一声である「天の御国が近づいた」という意味です(「天」とは「神」の別称)。つまり、「神の国、神の統治、神の王国」がイェシュアの到来とともにすでに始まったことを意味しているのです。しかしその完成は再臨後の千年王国においてです。主の祈りの中にある「御国が来ますように」との祈りは、まさに神がダビデに約束された地上における神の王国の完全な到来を意味する祈りなのです。

2. 鉄の杖を与えられた王なるメシア

  • イェシュアがベツレヘムでお生まれになったとき、当時のユダヤの王はヘロデでした。そのヘロデのもとに東方の博士たちが訪ねてきます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と。それを聞いたヘロデはどういう態度を取ったでしょう。聖書には「恐れ惑った」とあります。新共同訳では「不安を抱いた」、塚本訳では「うろたえた」と訳しています。使われているギリシア語は「タラッソウ」(ταράσσω)で、「恐れて、ひどく動揺する、恐怖が襲う」ことを表わす動詞です。昔、ユダの王アハズの時代に北からエフライムとアラムの同盟軍が攻めてくるという知らせを聞いたときに、王の心も民の心も、「林の木々が風で揺らぐように動揺した」(イザヤ7:2)とありますが、それと似ています。ヘロデ王だけではありません。エルサレム中の人も王と同様でした。この世界に二つの太陽は必要としないように、一つの国に二人の王が存在するということはあり得ないからです。そこで、ヘロデは民の祭司長、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのか調べよと問いただします。すると彼らは「ユダヤのベツレヘムで生まれると預言されています。」 そこで、ヘロデは訪ねてきた博士たちをベツレヘムに送ります。そしてこう言います。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから・・」。しかしこれは真っ赤なうそで、真意は悪意を企んでいました。
  • 東方の博士たちは星を頼りにベツレヘムの方へ行き、幼子のところに導かれて、その幼子を見、そして拝みました。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。その後、ヘロデに幼子の居所を教えることなく、自分の国に帰って行きました。だまされたと分かったヘロデは、非常に怒って、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。なぜこんなことをしたのでしょう。それはその幼子が自分の地位や立場を脅かす存在となることを悟ったからです。結局のところ、自分の上に立つ、自分を支配する王の存在を認めたくなかったからです。そのために多くの子供が犠牲になりました。これがヘロデ王のしたことです。ヘロデのみならず、当時の宗教指導者たちも全く同じでした。
  • 詩篇2篇には、神の統治(支配)に逆らうこの世の権力者たちの運命が預言されています。その詩篇を見てみましょう。

【新改訳2017】詩篇2篇
1 なぜ国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。
2 なぜ地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。【主】と主に油注がれた者に対して。
3 「さあ彼らのかせを打ち砕き 彼らの綱を解き捨てよう。」
4 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。
5 そのとき主は怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って彼らを恐れおののかせる。
6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」
7 「私は【主】の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。
8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。
9 あなたは鉄の杖で彼らを牧し 陶器師が器を砕くように粉々にする。』」
10 それゆえ今王たちよ 悟れ。地をさばく者たちよ 慎め。
11 恐れつつ【主】に仕えよ。おののきつつ震え 子に口づけせよ。
12 主が怒りおまえたちが道で滅びないために。御怒りがすぐにも燃えようとしているからだ。
幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。

  • 人間がどんなに神に逆らおうとも、あるいは神に油注がれた者を拒絶し、逆らい、殺そうとも、神は天においてその仕業を笑っておられる風景が見えます。神に逆らう者たちの企みは、神によって必ず挫折させられます。神に逆らう者たちの企みは、神の統治において何らダメージにはならず、むしろ神はそれをも利用してご自身の支配を打ち建てられます。
  • また6節によれば、神がご自身の統治を遂行する王を、神自ら油を注いで立てられると預言されています。この預言は御子イェシュアにおいて実現します。御子は御父から「鉄の杖」を与えられて、敵を粉砕する権威と力を与えられます。それゆえ、人称なき存在(聖霊)は10節以降でこう言われます。

10それゆえ今王たちよ 悟れ。地をさばく者たちよ 慎め。
11 恐れつつ【主】に仕えよ。おののきつつ震え 子に口づけせよ。
12 主が怒りおまえたちが道で滅びないために。御怒りがすぐにも燃えようとしているからだ。

  • 「子に口づけせよ」とは、「御子の前に降伏せよ」という意味です。古代においては、戦争で敗れた国の王が、勝った国の王の前にひれ伏してその王の足に口づけすることが求められました。この口づけは「忠誠の誓い」を表わすものでしたが、それは同時に、礼拝の行為を表わす表現でもあったのです。しかしこの詩篇2篇の構図が地上において現実になるのは、実は、千年王国の到来の時です。まだ先のことですが、確かな希望です。神は約束されたことを必ず実現される方だからです。信仰とはまだ目に見えないことを確信することです。この信仰を神はとても喜ばれることを心に刻みたいと思います。神が約束されたこと、たとえそれがとても信じがたいことであったとしても、どのようにしてそれが実現されるのかを思うだけで、私たちの心は踊るのです。

3. 良い羊飼いにたとえられる王なるメシア

(1) 人々が期待した王なるメシア

  • イェシュアが来られた当時のユダヤは、大祭司を頂点とする宗教制度のシステムと同時に、異邦人の支配、つまり強大なローマ帝国の支配の下で人々が苦しんでいました。そうした時代の背景の中で、イェシュアという方はまさに神によって油注がれた王として、「鉄の杖」をもってこの地上に神の王国を打ち建てるために来られた方であると、群衆も弟子たちも次第に信じるようになりました。なぜなら、彼らはメシアにしかできない奇蹟の数々をイェシュアの中に見たからです。ですから、たとえユダヤ人の古い宗教的支配体制がどれほど強固であったとしても、またローマ帝国の支配体制がどれほど強大であったとしても、主イェシュアにおいて現される神の力によって、それらは必ず覆されると信じるようになっていたのです。
  • しかし、彼らはメシアがそうした栄光をお受けになる前に、必ず、苦しみを受けるということを理解できませんでした。イェシュアは繰り返し、繰り返し、ご自分がエルサレムにおいて、指導者たちから「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」と語っていましたが、そのことを弟子たちはだれひとりとして理解することができませんでした。つまり、祭司としての務めではなく、王としての栄光だけが期待されていたのです。
  • 人々はローマの支配体制が打ち倒されて、イスラエルが回復されることを望んでいました。そのことなくして神の国の到来はあり得ないと考えていました。ですから何よりもまず、ローマを打ち倒してくれる力ある王なるメシアを待ち望んでいたのです。そうした期待感から、弟子のヤコブとヨハネは前もってイェシュアに願いました。「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めました。皆、考えることは同じでした。それほどまでに弟子たちは、イェシュアがメシアとしての王国を打ち建ててくださると確信していたのです。しかし当時のエルサレムにいた指導者たちがイェシュアをメシアであることを信ぜず、拒んだために神の国の実現は延期されてしまったのです。
  • ユダヤの指導者たちがメシアとして遣わされたイェシュアを拒絶した罪によって、ユダヤ人は大きな苦しみを受ける結果となります。それは、ユダヤ人が国を失い、迫害を受け、全世界に離散していく悲惨な歴史をたどることになります。しかしやがて彼らが反キリストによる大患難を経験するとき、再び、「主の御名によって来られる方(メシアなるイェシュア)に祝福あれ」という悔い改めの祈りが起こります。そのとき、キリストは再臨され、神が約束したメシア王国がこの地上に到来するのです。

(2) 王なるメシアが治められる王国のイメージ 

  • 聖書では、王なるメシアとその民との関係が、イスラエルの牧者と羊の関係にたとえられています。エゼキエル書34章にはそのうるわしいかかわりが示されています。本来、この34章は、イスラエルの民の上に立てられた指導者たちが牧者としての責任を果たさずに、自分たちの私腹を肥やしていたことが責められています。そこで神は自ら真のイスラエルの牧者となるという約束がなされているのです。

【新改訳2017】エゼキエル34章11~16節
11 まことに、【神】である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す
12 牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す
13 わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し、国々から彼らを集め、彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその地のすべての居住地で彼らを養う
14 わたしは良い牧草地で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らの牧場となる。彼らはその良い牧場に伏し、イスラエルの山々の肥えた牧草地で養われる。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる──【神】である主のことば──。
16 わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける
肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う

  • 神ご自身を意味する「わたし」(太字の部分)がとても強調されています。そして注目すべきは、赤文字の動詞です。11節だけを注目すると、「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。」とあります。これは祭司としての務めです。この約束を実現するために、御父は御子イェシュアをこの地上に遣わされたのです。その預言が以下のみことばです。

【新改訳2017】エゼキエル書34章23~24節
23わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。
24 【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは【主】である。わたしが語る。

  • 「君主」と訳された「ナーシー」(נָשִׁיא)は、上に立つ者、長、族長、君主を意味する語です。「わたしのしもべダビデ」とは、キリスト再臨前では「イェシュア」を、再臨後の「千年王国」では文字通りよみがえった「ダビデ」とも解釈できます。
  • ここに見るイスラエルの牧者の羊に対するイメージは、まさに至れり尽くせりの「ねんごろな配慮」です。これが王なるメシア王国の統治のイメージです。この王なるメシアは昔も、そして今も「失われた(滅びた)羊を捜して」おられるのです。「羊」(ヘブル語「ツォーン」צֹאן、英語「シープ」sheep)は単数・複数同形です。つまり、個人であっても、あるいはイスラエルの民のように民族的単位であっても、神にとってはその配慮は何ら変わりません。「人の子(イェシュア)は、失われた人を捜して、救うために来た。」(ルカ19:10)のです。そして、エゼキエル書34章にイメージされている王国が建てられるのです。心躍る神のご計画です。現在、ユダヤ人たちはメシアを拒んだ罪により全世界に離散していますが、そうした民を神はすでにイスラエルに連れ戻し始めておられます。しかし、やがては全世界の四方からイスラエルの全家を集められるのです。これが王なるメシア(イスラエルの牧者)がなされることです。
  • 私たち異邦人は元木であるユダヤ人に接ぎ木された存在です。それゆえ、聖書で約束されたメシアの統治の祝福の中にすでに生かされています。しかし預言がこの地上に実現するときには、その統治は私たちの想像をはるかに越えたものとして訪れると考えられます。王なるメシアを信じる信仰を与えられていることを感謝しつつ、そのご支配の中に生きることを新たな思いで選び取りたいものです。

2019.5.1


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