****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

30.「ヨハネの福音書14~16章の『友』と『助け主』というしるし」

30. 「ヨハネの福音書14~16章の『友』と『助け主』というしるし」

ベレーシート

●今回のタイトルにある「友」と「助け主」という語彙は、いずれもヨハネの福音書独自のものです。この二つは神と人とのかかわりにおいて密接な意味を持っています。今回はこのことに注目したいと思います。

●イェシュアは常に「御国」について語っていました。新改訳2017によれば、「天の御国」はマタイだけの表現で32回。「御国」だけになると17回(マタイ13回、ルカに4回)。「神の国」はマタイ5回、マルコ14回、ルカ31回、ヨハネ2回となっています。ヨハネの2回は以下の箇所です。

①【新改訳2017】ヨハネの福音書3章3節
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

②【新改訳2017】ヨハネの福音書 3章5節
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

●「神の国を見る」「神の国に入る」ためには、人が「新しく生まれなければ」「水と御霊によって生まれなければ」ならない、という同義的パラレリズムによって言い換えられています。「水と御霊によって」とは、「洗礼と御霊によって」ではなく、「神のことばと御霊によって」ということです。これは、イェシュアが復活した夕べ、弟子たちに息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』(ヨハネ20:22)と言われたときに成就しました。この聖霊をパウロは「いのちを与える霊となられた」(Ⅰコリ15:45)と言っています。『聖霊を受けなさい』とは、復活したイェシュアから与えられる、「いのちを与える霊」を受け取るということです。「受けなさい」はアオリスト命令形で、主体的、自覚的、決定的に受けることを意味しています。それを受けたことで、弟子たちは「悔い改める」ことが可能となったばかりか、イェシュアが語った「御国の福音」をはじめて理解できるようになったのです。彼らの内側に聖霊が満たされた(プレーロー:πληρόω)からです。これこそが神の悲願であり、ヨハネ7章37~39節の約束の成就でした。このときまでは「聖霊はなかった」のです。ここからキリストにある新創造が始まっていくのです。福音書にあるイェシュアのすべてのことば、すなわち「レーマ」(ῥῆμα)はこの復活の視点で預言的に語られていたのです。預言的とはイェシュアが復活しなければ理解できない事柄だということです。

●ヨハネの福音書の特徴は御国における「神と人とのかかわり」です。そのかかわりの源泉は「御父と御子のかかわり」であり、同時同存・相互内在です。これが「永遠のいのち」であり、このいのちに私たちは選ばれ、かつ招かれているのです。ですから、イェシュアはこう言っています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章44節
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。
(※「終わりの日によみがえらせる」とは、神との永遠のかかわりの十全な備えをすることを意味します)


1. 「あなたがたはわたしの友」

●ヨハネの特徴は、御国における「王と民」というかかわりよりも、より親しいかかわりです。その親しいかかわりをイェシュアは「わたしの友」(15:14)、「わたしの兄弟」(20:17)と表現しています。共観福音書には見られないかかわりです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章13~15節
13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

(1)「友」とは

●ここでの「友」とは「フィロス」(φίλος)の複数です。へブル語は「レーア」(רֵעַ)です。

①【新改訳2017】出エジプト記 33章11節
主は、人が自分の友(רֵעַ)と語るように、顔と顔を合わせて(パーニーム・エル・パーニーム:פָּנִים אֶל־פָּנִים)
モーセと語られた。・・・
②【新改訳2017】申命記 34章10節
モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。

●ここでは「自分の友と語る」ことと「顔と顔を合わせて語る」ことは同義だということです。主とモーセは友情関係にあったことを記しています。友として選び出されるということは、「顔と顔を合わせて知る」ことと同義です。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙 13章12節
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、
私も完全に知ることになります。

●パウロの言う「そのときには顔と顔を合わせて見ることになる」とは、神と人とが「友のように互い知る」(フィレオー:φιλέω)ようになることです。それが「愛する」(アガパオー:ἀγαπάω)に他なりません。イェシュアが「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)と言っている「人」とは、イェシュアご自身のことを言っているのです。なぜなら、弟子たちはイェシュアが選んだ「友」だからです。イェシュアに選ばれた「友」とは、あの書に名が記されている者たち、すなわち「永遠のいのち」に定められている者たちです。そのような愛はイェシュアの他にだれも持っていないということです。これは隠された奥義であり、神の秘密なのです。

(2) 神の秘密を知る「友」

●イェシュアのことばに戻りましょう。イェシュアは「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです」と。しもべ(奴隷=ドューロス:δοῦλος)であるなら、「主人が何をするのか知らない」とあります。イェシュアが定義する「友」(フィロス:φίλος)とは何でしょうか。ここでの「友」は複数となっています。イェシュアが弟子たちを「友」と呼ぶのは、「父から聞いたことをすべて知らせる関係、隠さない関係、共有する関係」だからです。「父から聞いたことをすべて」とは「神の隠されたことのすべて」です。

2. 「助け主」の必然性

(1) 「助け主」という語彙

①【新改訳2017】ヨハネの福音書14章16節
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主(アッロス・パラクレートス:ἄλλος παράκλητος/メーリーツ・アへール:מֵלִיץ אַחֵר)をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
※1 「助け主」のギリシア語は「パラクレートス」(παράκλητος)です。へブル語訳は「メーリーツ」(מֵלִיץ)。これは「リーツ」(לִיץ)の分詞で「解き明かす者、代弁者、使者」という意味です。初出箇所の創世記42章23節では「通訳者」と訳されています。ギリシア語の「エクセーゲオマイ」(ἐξηγέομαι)は「一つ一つ詳細に解き明かすこと、詳細に説明する」ことを意味します。なぜイェシュアが「もう一人(アッロス:ἄλλος)の助け主」と言うのかと言えば、ヨハネ1章18節で「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところ(最も密なる関係)におられるひとり子の神が、神を説き明かされた(詳細に解き明かされた)」とあるからです。
※2  回復訳は「助け主」を「慰め主」と訳しています。この場合のヘブル語は「メナへーム」(מְנַחֵם)で、「ナーハム」(נָחַם)の分詞です。「ナーハム」の初出は創世記5章29節で、「ノア」(נֹחַ)の名前の由来が「のろわれたこの地での働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう」で使われていますが、この意味で訳すと、少々、意味合いが変ってきます。

②【新改訳2017】ヨハネの福音書14章26節
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

③【新改訳2017】ヨハネの福音書15章26節
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

④【新改訳2017】ヨハネの福音書16章7節
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

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(2) 「神の隠された事柄を解き明かすための助け主」

●「友」と呼ばれる私たちに、なぜ「助け主」が必要なのでしょうか。それは神の隠された事柄が解き明かされるために「助け主」が必要なのです。神は隠される神だからです。それは神が意地悪な方だからではありません。私たちの霊が機能不全を起こしているので、私たちの側が理解できないからです。私たち人間が理解できないことを知った上で神は啓示していますが、それを客観的に見るなら、神が隠しているように見えるのです。

【新改訳2017】イザヤ書45章15節
イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神。

【新改訳2017】申命記29章29節
隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

●「隠されていること」と訳されたヘブル語は「ハン二スターロート」(הַנִּסְתָּרֹת)で、これは「サータル」(סָתַר)の複数形受動分詞です。ですから、正しくは「数々の隠された事柄」という意味になります。ちなみに、類語で「ラーズ」(רָז)は「秘密」を意味しますが、これはダニエル書のみに使われている語彙です(9回)。「隠されていること」とは何でしょうか。申命記29章29節は、28~30章にある「モアブ契約」の中で何の説明もなく、無造作にポツンと置かれているのです。まさにその真意を「悟りなさい」と言わんばかりですが、これも預言的・奥義的なことばなのです。それはイェシュアが来るまでは分からないことばです。つまり「隠されている」こととは、「聖霊によらなければ、何一つ神のことばを行うことができない」ということなのです。モアブ契約の特徴は、たとえ、のろわれてしまった状況であっても、悔い改めるならば、必ずもとに回復されるという約束です。しかしこの肝心の「悔い改め」が、「聖霊によらなければできない」ということなのです。そのことが隠されているのです。

【新改訳2017】箴言25章2節
事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。
【LIB】
物事を秘密にするのは神様の特権、それを探り出すのは王の特権です。

●箴言25章は1節に「次もソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである。」とあるように、ソロモンの箴言の補遺として編集されているようです。そしてその冒頭に「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ」とあるのです。このことばには深い秘密が隠されています。反意的パラレリズムです。神は隠し、王にはその隠されたことを探り、そして発見する務め(特権)が与えられています。

●「探る」と訳されたヘブル語は「ハーカル」(חָקַר)で、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味です。これが神の代理者である王の務めであるとすれば、同じく「王である祭司」として召された私たち(教会)もこの使命を理解する必要があります。それは神の豊かな知恵を、この世ばかりでなく、「天にある支配と権威(=サタンと悪霊たち)に対して、教会を通して」示すためなのです。教会には、神が隠している秘密を見つけるという使命が与えられているのです。このことにもっと力を注ぐ必要があります。なぜなら、それが「王である祭司」である私たちの務めであり、誉れと特権であるからです。

●ヒゼキヤは南ユダ王国の13番目の王です。彼は祭司と書記官に対しソロモンの箴言を書き写すように命じました。当時、ユダは北から強力なアッシリアの侵略を受けていた時代です。すでに北イスラエルの首都サマリアはアッシリアによって陥落していました。ユダのエルサレムもセンナケリブの率いるアッシリアの大軍に包囲されるという危機的な時代でした(事実、3回にわたる攻撃を受けていました)。そんな状況下で、なんとヒゼキヤは箴言を編集し直す作業をしていたのです。そこには霊的に重要な意味があります。神の代理者として立てられたヒゼキヤが、戦いにおいて優先したのは「神のみことば」でした。隠された神のみこころを探し出すこと、神のみことばをもって勝利すること、それが神の代理者としての王の務めだと考えたのです。

●ヒゼキヤ王の父アハズは敵の侵略から守るために、神に頼ることをせず、異邦の国に助けを求めました。預言者イザヤの「神にのみ信頼して静かにしていなさい」というメッセージを受け入れませんでした。一時的には解決を得ましたが、結果的にはさらなる苦しみ(貢物をすること)が増しました。しかしヒゼキヤはイザヤの指導を受けながら、アッシリアの脅威に屈することなく、神にのみ信頼し、神のみことばに堅く立つことが勝利の道だと確信したのです。神にのみ「信頼する」ことは、たましいの働きではなく、聖霊の働きです。ヒゼキヤはそのことの「型」です。

(3) 旧約時代の「霊」と、新約時代の「聖霊(=助け主)」

旧約の霊は、神のために働かせ、戦わせ、語らせる力として与えられています。ですから神の力を持っています。しかし、神のいのちは内側に持っていません。その良い例がサムソンです。彼は超人的な神の力を与えられていましたが、いのちの面においてはあわれな人でした。

①【新改訳2017】Ⅰサムエル記 19章23節
サウルはそこへ、ラマのナヨテへ出て行った。彼にも神の霊が臨んだので、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテまで来た。
※「神の霊が臨む」は「テヒー・アーラーヴ・ルーアッハ・エローヒーム」(תְּהִי עָלָיו רוּחַ אֱלֹהִים)
②【新改訳2017】民数記 24章2節
バラムが目を上げると、イスラエルがその部族ごとに宿っているのが見えた。すると、神の霊が彼の上に臨んだ
③【新改訳2017】Ⅱ歴代誌 15章1節
すると、オデデの子アザルヤに神の霊が臨んだ
④【新改訳2017】Ⅰサムエル記 19章9節
わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。
⑤【新改訳2017】Ⅱ歴代誌 20章14節
ときに、主の霊が会衆の中で、アサフ族の出であるレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。・・・

●旧約時代では、神の霊、主の霊は人の上に臨みます。これは神の霊がある働きをするために人の上に臨み、押し動かすことを意味します。この場合、神の霊が人の内に入ることも、人の内に住むこともなかったのです。

【新改訳2017】創世記6章3節
わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。
【新共同訳】
わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。
【口語訳】
わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。

●ですから、詩篇51篇11節に「私をあなたの御前から投げ捨てず あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください」とあるように、旧約の神の霊は時として人から完全に取り去られることがあったのです。

●ところが新約時代の聖霊は、人の内側に住むだけでなく、人の霊とミングリングして、神の子であることを証しするのです。しかも聖霊は人の内に継続的に住まわれます。この事実を「プレーロー」(πληρόω)と言います。さらに新約の聖霊は、内側だけでなく、外側においても力を賦与します(使徒1:8)。それは「キリストの証人となる力」です。五旬節に「聖霊のバプテスマ」として、イェシュアの弟子たちは上からの力を着せられました。その聖霊の「満たし」を「ピンプレーミ」(πίμπλημι)と言います。新約の聖霊によって、人は内と外にその祝福を永遠に享受することができるのです。これこそが新約時代における聖霊の恵みです。それゆえ「御霊に対する冒瀆は赦されない」のです(マタイ12:31)。なぜ「御霊に対する冒瀆は赦されない」のでしょうか。それは、人が「肉(たましい)で生きるのではなく、いのちを与える霊によって生きること」、これが神の隠された重要な事柄であり、かつ神の永遠の悲願であったからです。

●旧約の人々は聖霊の内住を経験していません。神の霊を外側で経験しているだけです。しかし新約時代の人たちは、内も外も両面を経験することができるのです。それを経験した最初の人物は、最後のアダムであるナザレ人イェシュアです。人としてのイェシュアの内には「七つの霊」が受胎したときから内住していました。その「七つの霊」とは、「主の霊・知恵の霊・悟りの霊・思慮の霊・力の霊・主を恐れる霊・知識の霊」です(イザヤ11:2)。イェシュアが人となられた時、これらの霊がすでに内に働いており、その霊は次第に強められていきました。そしてさらに、三十歳で洗礼を受けられた時、天が開け、神の御霊が鳩のように彼の上に降りました。つまり公生涯に入る最初にこのことを経験したのです。これはイェシュアの公的な務めとしての就任式であり、このときにイェシュアは聖霊に満たされたのです。これがイェシュアの「ピンプレーミ」(πίμπλημι)です。

3. 「助け主」による、みことばの刷新と更新

●神のみことばは、私たちが想像するレベルをはるかに越えた奥深い世界です。物事を秘密にするのは神の誉れですが、それを探し出して発見する者が必要なのです。

【新改訳2017】エレミヤ書29章13~14節
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。・・・

●「心を尽くして主を求める」ことは、たましいではなく、霊によってであることが隠されています。パウロは神の奥義を数多く見出した使徒ですが、そのパウロが、父なる神を知るために、知恵と啓示の御霊が与えられる必要があることを以下に記しています。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章17節
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

●パウロの言う「神を知るための知恵と啓示の御霊」とヨハネが記した「助け主」とは同義です。いずれにしても、「助け主」である聖霊によって神のことばが啓示され、みことばが開かれることは、愚かな者に悟りを与えて(彼らを)輝かせるのです。これこそが聖霊の働きです。

詩篇119篇130節
【新改訳2017】みことばの戸が開くと光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。
【口語訳】み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。
【新共同訳】御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。
【関根訳】あなたのみ言葉の門は輝いて、愚かな者に悟りを与える。
【岩波訳】あなたの言葉の戸は輝き、未熟者らを悟らせる。

画像の説明

●「みことばの戸が、聖霊によって開かれる」までは、私たちは
「浅はかな者」「無学な者」「無知な者」「愚かな者」「未熟者」でしかありません。しかしみことばを解き明かされる「助け主」(いのちを与える霊)によって、私たちに「悟りと知恵と理解」が与えられます。これが「イェシュアの友」に対する祝福です。

ベアハリート

●「助け主」の働きは人の内と外に働きかけます。以下がそうです。

【新改訳2017】ルカの福音書24章45~48節
45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
48 あなたがたは、これらのことの証人となります。
49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

●内側の聖霊の満たし(プレーロー)は45節、外側の聖霊の満たし(ピンプレーミ)は46~49節です。内側の満たしは弟子たちに「悟らせるため」(スニエーミ:συνίημι)であり、それは「総合的に理解させる」ということです。「悟ることがなければ、滅び失せる獣に等しい」(詩篇49:20)とあるように、「悔い改める」ことも、「悟る」ことも、「信頼する」ことも、すべて聖霊によらなければできないことです。そのために、イェシュアは人々の(ヌース:νοῦς)を開くのです。これはヨハネ20章にある「息を吹きかけて『聖霊を受けなさい』」に相当します。「悟りが与えられた者」を初代教会の使徒たちに見ることができます。彼らは当時においては「無学のただ人」と言われた者たちでした。しかしそのような彼らが、天下を揺るがすほどに変えられている姿を見ます。特にペテロとヨハネがユダヤ当局の脅しに怯むことなく、「この方以外に救いはありません」と断言するその大胆な姿に、人々は驚いたと記されています。これからの時代、教会はこれまで以上に、「助け主」によるみことばの刷新と更新による「回復」がなされていきます。その務めをイェシュアの「友」である私たちに与えておられるからです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2025.3.16
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