31.「ヨハネの福音書16章の『あなたがたの益』というしるし」
31. 「ヨハネの福音書16章の『あなたがたの益』というしるし」
ベレーシート
●「助け主」のヘブル語訳は「メーリーツ」(מֵלִיץ)で「リーツ」(לִיץ)の分詞です。それは「解き明かす者、代弁者、使者」という意味です。これはパウロの言う「神を知るための知恵と啓示の御霊」(エペソ1:17)とも言えます。しかし「真理の御霊」の「真理」(アレーセイア:ἀληθεία)はヘブル語訳が「エメット」(אֱמֶת)で、キリストが説き(解き)明かされた真実を実体化(確実化)することを意味します。ですから、「真理の御霊」とは「キリストを証しする御霊」と言えます。
●「助け主」としての聖霊は、イェシュアが復活した日の夕べ、弟子たちに「平安があなたがたにあるように」と言い、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたことで成就しました(ヨハネ20:22)。ルカはこのことを、「聖書を悟らせるために彼らの心(ヌース:νοῦς)を開いて」と表現しています。「ヌース」とは「たましい」(知性・感情・意志)の中の「知性」の部分を意味します。その部分が霊によって開かれることを「悟る」と言います。ちなみに御霊が感情の部分に働きかけるならば「喜びに満たされる」のです(ヨハネ14:28, 15:11, 16:20,22,24)。聖書のいう「悔い改める」「信じる」「悟る」「喜びに満たされる」、これらは肉ではなく、霊によらなければできないことなのです。
「助け主」と「真理の御霊」は同義です。イェシュアはこのことについて、ヨハネの福音書14~16章で繰り返し語っています。以下の①14章16~17節、②26節、③15章26節、④16章7~16節の四箇所です。
①【新改訳2017】ヨハネの福音書14章16~17節
16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。②【新改訳2017】ヨハネの福音書14章26節
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。③【新改訳2017】ヨハネの福音書15章26節
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。④【新改訳2017】ヨハネの福音書16章7~16節
7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、
またしばらくすると、わたしを見ます。」
●今回のテキストは、④のヨハネの福音書16章7~16節です。この箇所は、16節の「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」という「イェシュアの死と復活」の文脈で、7~15節を理解する必要があります。
16章7節
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません(=やって来ない、現れない)。
でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします(=送ります)。
●「真実を言います」の「真実」は「アレーセイア」(ἀληθεία)です。「真理の御霊」の「真理」と同じ語彙です。それは「隠されたことが、明確化され、実体化すること」です。イェシュアが去ることは弟子たちにとって「益になる」と言っているのです。その「益」とは「助け主」の働きが、弟子たちにも継続されることです。その益は大きく分けると二つあります。それは「世の誤りを明らかにすること」と「これから起こることを伝えること」です。イェシュアもこの二つを語られました。これが二つの「益となる」(シュムフェロー:συμφέρω)内容です。「益になる」と言っても、「たましいの益」もあれば、「霊の益」もあります。「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」(11:50、18:14)は「たましいの益」ですが、「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる」は「霊の益」です。
1. 「世の誤りを明らかにする助け主」
●第一の霊的な益は、8~11節にあるように「世の誤りを明らかにする」ことです。イェシュアも「御国の福音」を語る際に、世の誤りを明らかにしようとされました。しかし正しく理解されることはありませんでした。むしろ、世の誤りを明らかにしようとしたことで、神殿ユダヤ教、律法主義のパリサイ派といった宗教指導者たちによって殺されるのです。そのことをイェシュアは「去って行く」と言っています。しかし再びイェシュアは「戻って来る」とも言っています。それは再臨のことではなく、復活したあとに弟子たちのところに戻って来ることを意味しています。ただ、戻って来る前に、イェシュアは初穂とされたご自分を御父に献げるために秘密の昇天をしています。このことによって主の例祭である「初穂の祭り」が成就されました。そのあとで、弟子たちのところに戻って来られますが、同時に「助け主」もやって来ることで、イェシュアのなした働きが弟子たちにも継続されていくのです。その継続される働きの一つが「世の誤りを明らかにする」ことなのです。
【新改訳2017】ヨハネの福音書16章8節
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
●「世の誤りを明らかにする」の「明らかにする」と訳された語彙は「エレンコー:ἐλέγχω」です。これは、新約で17回使われており、ヨハネではそのうちの3回使用されています。3章20節では「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」で「明るみに出される」と訳されています。8章46節では「あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか」で「責める」と訳されています。このように「エレンコー」は「明るみに出す」という面と「責める」という面の両義性を持つ語彙です。ヘブル語訳では「ヤーハハ」(יָכַח)がそれに相当します。その初出箇所は創世記20章16節で、「サラに対しては、こう言った。『ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。これはあなたにとって、また一緒にいるすべての人にとって、あなたを守るものとなるだろう。これであなたは、すべての人の前で正しいとされるだろう。』」の「正しいとされる」に「ヤーハハ」(יָכַח)が使われています。これは預言的・奥義的なことばです。
●創世記20章で伝えようとしているのは以下のことです。アブラハムが天幕を移動したところは、ゲラルの王アビメレクが支配していた領土でした。エジプトでもそうであったように、妻サラは非常に美しかったので、ゲラル滞在中にアビメレクに召し入れられる懸念がありました。そしてそのとおりになったのです。90歳近くになっても召し入れられるほどに美しかったということ、それだけでも驚きですが、神はアビメレクがサラに触れることを一切お許しになりませんでした。ここで重要なことは、神がご自身のご計画の実現のために、サラをこの世の象徴であるアビメレクから完全に守られたということ、ないしは神が一切の片を付けたということです。このことは、今回のテーマである「助け主の働き」と大いに関係があるのです。
●「助け主」は何について世の誤りを明らかにさせるのかと言えば、「罪について、義について、さばきについて」です。「罪・義・さばき」とは「人・キリスト・サタン」のことです。
(1)「罪について」とは、「最初の人アダム」と関係します
●「罪について」、助け主は「世の人の誤り、つまり人の罪を責める」のです。9節に「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないから」とあります。彼らとはユダヤ人のことです。彼らはイェシュアから何度も真理について教えられながらも、イェシュアの教えを信じようとはしませんでした。彼らユダヤの宗教指導者たちは、最初の人アダムがしたように、「善悪の知識の木だけを取って食べた者たち」です。神が、園に生えさせた「すべての木から必ず食べなさい。その中から善悪の知識の木だけを取って食べると必ず死ぬ」と警告していたにもかかわらず、蛇にだまされたとは言え、それだけを食べてしまった者たちなのです。それゆえ、彼らは神の教えを「善悪の教え」とし、613の教えを行うなら神に祝福され、メシアが来て自分たちの国を復興してくれると信じて、それを人々に背負わせたのです。しかし誰一人、その教えを守ることはできませんでした。なぜなら、神の教えを行わせる源泉となる「霊」がまだ人の中になかったからです。このことが、旧約時代は隠されていたのです。神の教えをたましい(知性・感情・意志)で行うことができないのは、サタンが人のたましいに足場を組んでしまっているからです。サタンが人の「たましいとからだ」(=これが「肉」―サルクス:σάρξ―)を支配しているのです。「もろもろの霊による教え」を「ストイケイア」と言いますが、ユダヤ教はそれに支配されていたのです。「肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです」(ローマ8:7)とあるとおりです。
●使徒ペテロが五旬節に聖霊に満たされて、以下のように語りました。
【新改訳2017】使徒の働き2章22~24、32~33、36~37節、
22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、
「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
●ここで、36~37節が重要です。ペテロがイスラエルの全家の罪について語り、それを聞いていた人々は心を刺され、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言いました。聖霊がペテロを通して人々をそのように導いたのです。このように「助け主」は、世の人の誤り、つまり人の罪を責めて、悔い改めに導くのです。
(2)「義について」とは、「第二の人、最後のアダムであるキリスト」と関係します
●ここでペテロは、神が今や主ともキリストともされたイェシュアをあなたがたは十字架につけた、と罪を責めただけでなく、神がイェシュアをよみがえらせ、昇天させて、ご自分の右に着かせられたことをも語っています。ヨハネ16章10節の「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」とは、そのことを意味しています。イェシュアを十字架に磔にしたユダヤ人に対する強烈な非難と同時に、イェシュアの中へと信じる者に対する義(=救い)のわざについて、「助け主」はその恵みの豊かさを明らかにしてくれるのです。
●イェシュアは「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う」(イザヤ42:3)という主のしもべとして、ストイケイアに支配されている人々に救いをもたらすために、御父から遣わされました。「傷んだ葦」の「葦」も、「くすぶる灯芯」の「灯芯」も、ともに神の教え(トーラー:תּוֹרָה)を意味します。ユダヤ教の宗教指導者たちはストイケイアによって神の教えを傷め、くすぶらせてしまったのですが、それを再び回復するために御子イェシュアが遣わされたのです。イェシュアの以下のことばは、「傷んだ葦」と「くすぶる灯芯」によって疲れ、重荷を負っているすべての人を招いています。イェシュアの義(=救い)の恵みの豊かさの一例です。
【新改訳2017】マタイの福音書11章28~29節
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
●28節の「わたしのもとに来なさい」をヘブル語にすると「ペヌー・エーライ」(פְּנוּ אֵלַי)となります。直訳は「あなたがたはわたしのほうに振り返りなさい」です。「パーナー」(פָּנָה)は「向き直る、向きを変える、顔を向ける、振り向く」という意味で、「悔い改める」の「シューヴ」 (שׁוּב)と同義です。イェシュアに向き直ることで、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と約束されています。この約束は、「いのちを与える霊」となられたイェシュアの中へと信じる者たちに対する、霊の呼びかけです。ここでの「休み」はヘブル語の「メヌーハー」(מְנוּחָה)で、詩篇23篇2節の「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」にある「いこい」と同義です。
●また29節には「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」とあります。「あなたがたも」というところが重要です。イェシュアも御父と霊のくびきを負っていました。その前提があって「わたしから学びなさい」と言われたのです。イェシュアとくびきを負うとは、「人の霊」と「キリストの霊」が人の霊の中でミングリングされること、つまり「いのちを与える霊」の内住を意味します。そのことによって、「たましいに安らぎを得る」ことができるのです。ここでの「安らぎ」はヘブル語の「マルゴーア」(מַרְגּוֹעַ)です。このことばの語源は「ラーガ」(רָגַע)で、「(海を)かきたてる」という意味と「一瞬のうちに憩わせる」という意味との両義性のある語彙です。「メヌーハー」も「マルゴーア」も同義と言えます。「メヌーハー」(מְנוּחָה)が「永遠の身の置き所としての休み」に対して、「マルゴーア」(מַרְגּוֹעַ)は「かきたてる状況の中で、一瞬にしてもたらされる安らぎ」と言えます。ヨハネ14章で「わたしはあなたがたに平安(シャーローム:שָׁלוֹם)を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」(27節)と記されています。この「平安」も上記の「休み」(メヌーハー)と「安らぎ」(マルゴーア)と同義です。
●また、29節の「わたしのくびきを負う」をヨハネのことばで表現するなら、「わたしに(キリストのうちに)とどまる」(ヨハネ15:4)となります。これも同義的パラレリズムです。後者のことばはとても重要な事柄です。こうしたイェシュアのすばらしい救い(=義)を「助け主」は明らかにしてくださるのです。
(3)「さばきについて」とは、「サタンの滅び」と関係します
●「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」(ヨハネ16:11)とあります。「助け主」はさばきについての世の誤りを認めさせます。それは「この世を支配する者」である「サタン」の滅びです。
●ヨハネの福音書では、最後の晩餐である13章に「悪魔」「サタン」の存在を明記しています。
①【新改訳2017】13章2節
夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
(※「心」は「カルディア:καρδία」で、サタンが足場を築いている場所。ヘブル語は「レーヴ:לֵב」))②【新改訳2017】13章27節
ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタン(サタナス:Σατανᾶς)が彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」
(※イェシュアの受ける苦しみが共観福音書では受動であるのに対して、ヨハネの福音書では積極的行為として記されています。)
●神から遣わされたイェシュアが世から「ゆえもなく」徹底的に憎しみを受け、呪われるのは、サタンが背後で糸を操っているからです。イェシュアが十字架で磔にされた時、サタンは「われ勝てり」と叫んだに違いありません。しかし皮肉にもサタンの最後の武器である「死」が、三日目にしてイェシュアのよみがえりによって打ち破られるのです。
【新改訳2017】ヘブル人への手紙2章14~15節
14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
●イェシュアの中へと信じる者たちは、サタンの最後の武器である「死」の恐れからもはや解放されているのです。敗北したのは「この世を支配する者」です。彼はイェシュアの復活によって、敗北をすでに喫しているのです。やがてこの世の終わりの時に、人々を惑わした悪魔は「火と硫黄の池に投げ込まれ」、完全にさばかれるのです。「助け主」はそのことを明らかにしてくださるのです。
2. 「これから起こることを伝える真理の御霊」
【新改訳2017】ヨハネの福音書16章12~15節
12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。・・・
●「助け主」と「真理の御霊」と「御霊」は同義です。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」とあります。「御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます」ともあります。「すべての真理に導く」と「これから起こることを伝える」とは同義です。しかも、御子が御父のものを受けたように、御霊も御子のものを受けて伝えてくれるのです。ここに三一の神の相互内在が証しされています。
●ところで問題は、「すべての真理」と「これから起こること」とは何を示しているのかということです。その内容とは、12節にあるように「あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません」というものです。それは何でしょうか。ヒントとなることばは、「すべての真理に導く」です。「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と語られたのはイェシュアですから、「すべての真理に導く」とは、イェシュアの語ったこと、なされたことのすべてを意味します。しかも「導く」と訳された「ホデーゲオー」(ὁδηγέω)は「案内する、手引きする」の未来形です。つまり、真理の御霊が来られるとき、すべての真理に「道案内をしてくださるでしょう」という意味です。しかもその道案内の事柄は「これから起こること」についてです。
●「これから起こること」の原文は、冠詞+「来る」を意味する「エルコマイ:ἔρχομαι」の複数分詞で「来ようとしている数々のこと」です。これは一般的な未来のことではなく、メシアが現れる終末的な事柄、つまり「御国の福音」における数々の事柄です。黙示録1章8節には、冠詞+「来る」を意味する「エルコマイ:ἔρχομαι」の単数分詞で「やがて来られる方(=来たるべき御方)」とあります。単数と複数の違いですが、いずれもメシアとメシアによってなされる最後の事柄を意味しています。それは、メシア・イェシュアによって実現される神のご計画であり、みこころ、みむね、目的に他なりません。このことすべてが、真理の御霊によって道案内され、伝えられるのです。その伝えられた結晶が聖書といえますが、その聖書に記されていることを解き明かされるのも「御霊」の働きです。ですから、私たちはこの御霊が告げることに、霊を活かして、霊の耳を傾ける必要があるのです。
ベアハリート
●16章12節の 「あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません」ということばは、今日のエックレーシアにも適応します。「助け主」「真理の御霊」はすでに与えられ、働いておられますが、その方によってさらに「かかわりのいのち」が更新され、刷新され続ける必要があります。
●今日のエックレーシアはいわばラオディキア教会のようです。それは、「冷たくもなく、熱くもない。あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す」という主の警告です。主の忠告に耳を傾けましょう。
【新改訳2017】ヨハネの黙示録3章17~22節
17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。
それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」
●主の忠告は18節です。「豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」とは、どういう意味でしょうか。主の真意は何でしょうか。主が求めるエックレーシアのあるべき姿とはどのようなものでしょうか。単に「金」「白い衣」「目薬」ということばの意味を知ろうとすることであってはなりません。それを悟るために「耳のある者」となるべきであり、さらに「御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」とあります。「耳のある者」となるなら、御霊がそれを告げてくださると約束されています。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。
2025.3.30
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