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4.律法主義への傾斜と罠

歴史書(2)」の目次

4. 律法主義の罠・・律法によっては神の民は再建されない


(1) 律法による信仰生活か、それとも恵みによる信仰生活か?

  • 今日のクリスチャンが、必ずしも、恵みによる信仰生活(恵みの支配の中を歩み、恵みによって生きる)をしているとは限らない。
    ①ルカの福音書18章9~14節・・義と認められたのはだれか
    ②ルカの福音書10章38~42節・・イエスはここでなぜマルタに「マリヤは良い方を選んだ」と言われたのか。

(2) クリスチャンと律法との関係

  • 使徒パウロは「確かに、今は恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6:2)と宣言する。それは、「・・あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にある」(ローマ6:14)からである。「律法の下にはない」という意味は、「律法に対して死んだ」ということである。律法が死んだ、なくなったのではなく、私たちが律法に対して死んだのである。どのようにしてかというならば、イエス・キリストと共に十字架上で死んだのである。クリスチャンは律法に対して終止符が打たれており、「律法から解放された」ということである。それは、私たちがキリストとしっかりと結ばれ、御霊の助けによって、多くの実を結ぶようになるためである。・・これが恵みであり、それが今、実現しているのである。(ローマ7:4、6節、Ⅱコリント3:6参照)
  • したがって、新約聖書の強調点は、私たちクリスチャンが「キリストのために生きることではなく、キリストと共にある(キリストにとどまる)ということである。「キリストのために」と「キリストにある」とは全く異なる生き方をもたらす。「キリストのために」生きるということは、主が求めておられると思われることを行うことである。そのためには、聖書を読み、みこころにかなった生き方の原則を見つける。そしてその原則に従うように努力する。そのような生活をするならば、神が祝福してくださると信じる。しかし、これこそが完璧な律法主義的クリスチャンのライフスタイルなのである。というのは、神の祝福を手に入れるために、行いによって信仰の成長をはかろうとするからである。神の恵みによってではなく、律法に支配されている人生となる。神が願っておられることは、神のために、あるいはキリストのために何かをすることではなく、キリストと共にあること、キリストのうちに、キリストのことばに、キリストの愛の中にとどまることである(ヨハネ15:4~5,7, 9)。
  • 聖書的原則に従って生きることは、一見良いことのように見える。しかしこれは巧妙な律法主義なのである。確かに、新約聖書には、私たちがどのように生きるべきかについての教えが書かれている。しかしそれらは従うべき宗教的規則ではなく、主が私たちを通して現わされる様々な形なのである。信仰生活とは、私たちを通して、神ご自身が現わされることである。このために、今は、キリストが私たちのうちに住まわれ、御霊の助けが備えられている。


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