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5.詩篇18篇の神への信頼

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

5. 詩篇18篇に見る神への信頼(20~24節)

【新改訳改訂第3版】詩篇18篇20~24節
20 【主】は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
21 私は【主】の道を守り、私の神に対して悪を行わなかった。
22 主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけなかった。
23 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
24 【主】は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。


ベレーシート

  • 詩篇18篇20~24節の段落の中にある三つの節(21, 22, 23節)は完全に主体が「私」になっています。この節は詩篇18篇では特異な部分です。とすれば、その「私」とはいったいだれのことを指しているのか、その内容を知るなら、ダビデを超えた存在、すなわち御子イェシュアのことを証ししていることが分かるのです。イェシュアが語っているように、旧約聖書、特に「諸書、聖文書」と言われる「ケトゥーヴィーム」(כְּתוּבִים)における詩篇は、「わたしについて証言している」とイェシュア自身が語っているのです(ヨハネ5:39)。

1. この段落の構造

画像の説明

●20~24節の構成は、AとA´に挟まれるようにして、BとB´が置かれています。この段落には「~にしたがって」を意味するヘブル語の前置詞「ケ」(כְּ)と、主が「私」に対して行為をするその根拠(理由)を示すフレーズの前に、「なぜなら、私は・・をしたからです」を意味する接続詞の「キー」(כִּי־)が置かれていることで、とても分かりやすい構文となっています。ちなみに、B´に二つの節(22節と23節)が入っているのは、接続詞「ヴェ」(וְ)でつながっているからです。さらには、各節はすべて同義的パラレリズムの修辞法が用いられています。つまり、前節が後節で言い換えられて説明されているのです。


  • 一つひとつの語彙について、原語からその意味を調べてみたいと思います。日本語に訳された語彙を基にしてどんなに瞑想しても、そこからは神が意図する概念につながらないことが多くあるからです。特に、この段落の「私」が、イェシュアを示唆しているとすれば、尚のこと、調べてみる必要があるのです。

2. 20節(24節)の注解

  • 「主は私の義にしたがって私に報い」と「(主は)私の手のきよさにしたがって私に償いをされた」は同義的パラレリズムです。つまり、「私の義」とは、「私の手のきよさ」と同義であるということです。ヘブル語の「義」(「ツェデク」צֶדֶק)は、基本的に神と人のかかわりを表わす概念です。そのかかわりを節後半では「私の手のきよさ」としているのです。つまり、「義」の理解は、この「手のきよさ」の意味を理解することが重要です。
  • 「きよさ」と訳された名詞の「バル」(בַּר)は、以下のように、いくつかの意味を持っている語彙です。

①「子」「息子」の意。詩篇2篇では「御子」とも訳されます。

②収穫される穀物、麦、わらに対して実のあるものを意味します。この意味で用いられている初出箇所は創世記41章35節で、ヨセフが豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、管理させました。

③形容詞で「混じりけのない」「きよい」という意味があります。

④名詞で「広々とした野原」という意味から、多くの、豊かなイメージを彷彿とさせる語彙です。


  • 名詞や形容詞にはその語源となる動詞があります。「バル」(בַּר)の語源は「バーラル」(בָּרַר)です。「バーラル」の意味するところは「きよめる、選ぶ、試す」という意味と、もうひとつの意味は「とがらせる、鋭くする、とぎすます」があります。イザヤ書49章2節は「しもべとしてのメシア」の預言が記されていますが、そこには「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」とあるように、しもべなるメシアの働きは、鋭い剣のように神のことばを語り、とぎすまされた矢として神のみこころを明確に啓示する存在と言えます。とすれば、詩篇18篇の「私の手のきよさ」とは、「主のための働きを担うきよさ」です。その「きよさ」とは、様々な試練によって選び抜かれた、混じりけのない、純潔を保ち、やがて多くの実りをもたらす手のわざ(=奉仕の働き)だと分かります。その働きにふさわしい者こそ「バル」(בַּר)、すなわち、神の「御子イェシュア」なのです。その「御子」の義(=手のきよさ)にしたがって、主が報い、償いをされるのです。
  • 報い」と訳された動詞の「ガーマル」(גָּמַל)は、主が人に対して良いことをする、実を結ばせることを意味します。また、「償う」と訳された動詞は「シューヴ」(שׁוּב)ですが、本来、人が神から与えられていた立場や権利を、失われた状態から回復し、取り戻して与えることを意味します。

3. 21~23節の注解

  • 20節と24節の祝福をもたらした根拠(理由)が何であったかを見てみましょう。「なぜなら・・・だからです。」を説明する二つの「キー」(כִּי־)という接続詞が、21節と22節にあります。

(1) 最初のキー(21節)

  • 「なぜなら、私は主の道を守り、私の神に対して、悪を行わなかったから」です。前者の「主の道を守る」は積極的表現であり、後者の「悪を行わなかった」は消極的表現ですが、いずれも同義です。イェシュアは自分を信じて従って来る弟子たちに対して、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」と言われました(ヨハネ14:23)。主の道を守る(「シャーマル」שָׁמַר)ことは、主に悪を行う(「ラーシャ」רָשַׁע)ことをしないことです。「ラーシャ」は主の戒めや掟、神のご計画に逆らうことを意味します。そうした歩みではなく、むしろ神のご計画にいのちを賭けて参与することが、主の命令(戒め)を守ることなのです。ですから、「愛する」ことと「守る」ことは両立するのです。それはまさに御子イェシュアがこの地上で模範を示されました。だからこそ、その義にしたがって報いられたのです。

(2) 次のキー(22節と23節)

  • 22節と23節は21節の生き方を補足するものです。「私」が主とともに完全であることを願うと同時に、決して主の掟(「ホーク」חֹק=主の「定め」とも訳され、神のマスタープランのことを意味します)を「遠ざける」「離れる」「そこからわきへそれる」(=「スール」סוּר)ことなく、まっすぐに、御国の王道を歩むことを意味します。だからこそ、主は「私」を報い、償われるのです。この「報い」と「償い」は、単なるダビデ個人としての「私」だけでなく、集合名詞としての「私」に信仰によって一つとなる人々にも同様に約束されているのです。

2016.11.16


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