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7.詩篇18篇の神への信頼

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

7. 詩篇18篇に見る神への信頼(30~34節)

ベレーシート

  • この段落は、冠詞付きの「神」である「ハーエール」(הָאֵל)によって二分されているように思います。新改訳では、30節は「神」と訳し、32節は「この神こそ」と訳しています。いずれにしても、冠詞付きの「神」、「ハーエール」は神を強調する表現です。

【新改訳改訂第3版】詩篇18篇30~34節
30 (הָאֵל)、その道は完全。【主】のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
31 まことに、【主】のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
32 この神こそ(הָאֵל)、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
33 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
34 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。


1. 前半の部分(30~31節)

  • 30節では、神の道と仰せのことばがいかなるものであるか。その神に身を避ける者たちに神である主はどのような方であってくださるのかが語られています。そして31節では、この方以外に神はいないということが反語的に強調されています。
  • 「道」と訳された「デレフ」(דֶּרֶךְ)は、ここでは神の「行ない(行動)」と理解すべきです。それは「完全」です。神がなさることは常に完全なのです。

2. 後半の部分(32~34節)

  • この神こそ、私に力を帯びさせる方、私の道を完全にされる方であることが告白されています。ここでの「力」のヘブル語は「ハーイル」(חָיִל)で、ここでの「力」とは、戦いのための力を意味しています。同じく18篇39節に「あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。」とあります。「私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させ」るような「力」、それが「ハーイル」だと理解できます。「帯びさせ」と訳されたことばは、ヘブル語動詞「アーザル」(אָזַר)の冠詞付きの分詞となっており、「戦いのための力を備えさせてくださる方」であることを意味します。
  • 戦いのための力を備えさせてくださる方によって、「私の道は完全にされる」のです。ここでの「完全」は形容詞の「ターミーム」(תָּמִים)で、「傷のない」という意味があります。とすれば、この段落の「私」はダビデを超えた存在、つまりメシアを指し示していると理解できます。
  • 33節と34節には、神が「戦いのための力を備えさせる」とはどういうことかを、「私の足を雌鹿のようにし」と「私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる」という比喩で表現しようとしています。特に、「私の足を雌鹿のようにし」という表現を味わってみたいと思います。

●「雌鹿」を表すヘブル語は「アッヤーラー」(אַיָּלָה)です。ちなみに、「雄鹿」は「アッヤール」(אַיָּל)。
これらは二根字と呼ばれ、語幹はאלです。この語幹から派生する語彙としては、以下の語彙が挙げられます。

①「力」を表す「エール」(אֵל)
②「神」を表す「エール」(אֵל)、および「エローハ」(אֱלוֹהּ)
③「雄羊」を意味する「アイル」(אַיִל)
④「力強い者、有力者」を意味する「アイル」(אַיִל)
⑤「樫の木」を意味する「アイル」(אַיִל)

いずれも「力」を表す概念を持っています。

●ただ、「雌鹿」の「アッヤーラー」(אַיָּלָה)の場合は、「愛らしさ」と「力強さ」を合わせ持つイメージです。ヤコブの息子の一人である「ナフタリ」に対する父ヤコブの預言があります。

【新改訳改訂第3版】創世記49章21節
ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。

●これはどんな預言なのでしょうか。「放たれた雌鹿」とは「遣わされた雌鹿」とも訳すことができます。メシア詩篇の一つ、詩篇22篇の表題に「『暁の雌鹿』の調べに合わせて」とあります。暁、つまり「夜明け」を表す「シャハル」(שַׁחַר)です。その語源となる動詞の「シャーハル」(שָׁחַר)は「熱心に捜し求める」ことを意味します。「暁の雌鹿」の調べに合わせて、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」と叫ぶメシアの姿が預言されています。

●ナフタリはヤコブの愛したラケルの女奴隷ビルハの二番目の子で、ヤコブの子としては六番目の子です。ナフタリという名前は「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」という意味です。「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。」とは、死に物狂いの争いをして自由にされた雌鹿が、「美しい子鹿を産む」ことで、ついに勝つという預言的メッセージが隠れていると考えられます。「雌鹿」にたとえられた「ナフタリ」のイメージは、「愛らしい」という面と「力を持った存在」という二つの面を合わせ持っています。まさに、「雌鹿のように」とは力と愛を秘めたイメージがあるのです。詩篇18篇の「彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。」とは、そのようなイメージで理解することができると思います。「高い所に立たせる」とは、そこに立てるのは戦いに勝利した者だけです。まさに、イェシュアの道を彷彿とさせる表現です。


  • もう一つの比喩である34節の「戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」を考えてみましょう。敵との戦いのために、神はさまざまな訓練(戦術)を与えます。そのことによって、「青銅の弓をも引けるようにされる」とはどういうことでしょうか。
  • 「青銅の弓」(「ケシェット・ネフーシャー」קֶשֶׁת־נְחוּשָׁה)という表現をチェーン式バイブルでは「青銅の矢じりをつけた弓矢」だと説明していますが、その説明では「腕(=両腕)」を鍛える必要がないはずです。「青銅の弓をも引けるようにされる」というイメージがいまいち掴めません。いずれにしても神から与えられる力がなければ引くことができない弓であることは確かです。

2016.11.19


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