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8.詩篇18篇の神への信頼

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

8. 詩篇18篇に見る神への信頼(35~36節)

ベレーシート

  • 詩篇18篇35~36節は、この詩篇において中心的な節だと言われています。というのは、神の謙遜が取り上げられているからです。旧約において、神がへりくだる者とともに住むということがいろいろな箇所で語られていますが、神の謙遜について語られている箇所は稀なのです。したがって、「あなたの謙遜は、私を大きくされます。」というフレーズは、とても重要な告白なのです。このことについて考えてみたいと思います。

1. 「あなたの謙遜は私を大きくする」

【新改訳改訂3】 詩篇18篇35節
こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。
あなたの右の手は私をささえ、
あなたの謙遜は、私を大きくされます。


●「こうして」(接続詞の「ヴェ」וְ)とあるのは、これまでのことを受けて結論的に述べているという解釈による訳です。敵による苦しみの中に主を呼び求めたとき、その叫びは御前に届いたのです。その応答の形がさまざまに表現されています。

(1)「主は、天を押し曲げて降りて来られた」こと(9節)。
(2)「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、・・引き上げられた」こと(16節)

などが含まれます。しかしここ35節では、同義的パラレリズムによって、以下のように、告白されています。

あなたの右の手は私をささえ、
あなたの謙遜は、私を大きくされます。

●「右の手」とは主の権能を表す表現です。それが「私をささえ」とあります。「ささえ」と訳されたヘブル語は「サーアド」(סָעַד)という動詞です。この動詞は「支えて元気づける」という意味です。食べ物によって元気づけることもあれば、主のみことばによって回復させ、リフレッシュさせることでもあります。なぜなら、「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ」ることができるからです(詩篇19:7)。

●35節の後半には「あなたの謙遜」が私を大きくされたとあります。新改訳は「大きくされた」と訳していますが、口語訳は「大いなる者とされました」と訳し、新共同訳は「強い者としてくださる」と訳しています。また、岩波訳は「豊かにする」と訳しています。「大きくされた」とは、「偉大な者、豊かな者とされた」ことを意味します。主の「謙遜」がそうしたのだという告白です。これは「謙遜と高挙」の逆説的概念を含んでいます。この概念を以下のマリヤの賛歌(マグニフィカート)に見ることができます。

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書1章51~53節
51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、
心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
52 権力ある者を王位から引き降ろされます。
低い者を高く引き上げ、
53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせないで追い返されました。

●名詞の「謙遜」はヘブル語で「アヌヴァー」(עֲנְוָה)ですが、その動詞は「アーナー」(עָנָה)です。「アーナー」は「答える、証言する」という意味と、「悩む、苦しむ、へりくだる」という意味を合わせ持っています。やがてこれが人格化された存在こそ御子イェシュアです。そのイェシュアが次のように語っています。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書11章28~29節
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

●このようにイェシュア自身が自分を「へりくだっている」と言われるのは珍しいです。イェシュアの謙遜は第三者によって語られることが多いのです。以下のピリピ書2章でパウロが語っているのがそうです。

●「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。・・・・キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:3, 6~8)。

●Ⅱコリント書ではこう述べています。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント8:9)

●いずれにしても、キリストの謙遜と私たちの高挙は、一対の逆説的概念なのです。まさに、詩篇18篇35節の「あなたの謙遜」は「受肉の神秘」において現わされますが、まさにそのことが預言的に語られているのです。ダビデは預言者であったことを忘れてはなりません。


2. 確かな歩みを保障する主

  • 主の右の手は、私をささえ、主の謙遜は私を大きくされます。その結果、私に確かな歩みを保障してくださるのです。

【新改訳改訂第3版】詩篇18篇36節
あなたは私を大またで歩かせます。
私のくるぶしはよろけませんでした。

  • 上記の「大また(大股)で歩く」も「くるぶし」も「よろける」もすべて「足」に関連する語彙であり、「歩く」という概念です。それは人生、あるいは人生の旅を表すと考えてよいでしょう。「大また」で歩くとはどんなイメージでしょうか。危険な場所を慎重に注意して歩くというイメージではありません。大手を振って、安心して歩むイメージです。人生には多くの危険が待ち受けています。思わぬことにも遭遇します。しかし、主の右の手はいつも私をささえてくれるだけでなく、最終的には私を偉大な者としてくださるのです。そうした信仰iによってこそ、私たちの歩みに確かさがもたらされるのです。


2016.11.25


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