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Ps119の瞑想的説教「みことばは私の喜び」(1)

Ps119の瞑想的説教 「みことぱは私の喜び」(1)

はじめに

  • 詩119篇は詩篇の中で最も長い詩篇で、真剣に神を尋ね求める求道心と遊び心の感覚がみごとに織り成している詩篇です。8節ずつ、22のグループから成っています。ここには人生を百倍楽しむ秘訣が記されています。
  • 詩119篇では、神のみこころを示した律法(トーラー)というものを、いろいろなことばで表現しています。1節~8節までを見てみると、そこには「みおしえ」とか、「さとし」、「戒め」、「おきて」、「仰せ」、「さばき」、「定め」、「ことば」という表現があります。宝石の輝きは原石を様々な角度からカットすることによって、そこに光が当たるとそのカットによって輝きを放ちます。それと同様に、神のことばであるトーラーを詩篇119篇ではさまざまなことばで表現することによって、その輝きの美しさを放っているのです。
  • もともと、神のことば、神のおしえは旧約聖書では「トーラー」と呼ばれます。それは神が定められたおきてであり、私たちが生きる上での指針であり、戒めであり、さとしなのです。私たちがいかに生きるべきかを教えだけでなく、慰めを与え、励ましを与えるものです。「トーラー」をギリシャ語に翻訳するときに「ノモス」と訳されました。「ノモス」とは法のことです。それが日本語に訳すとき、「法律」という漢字を逆にして「律法」と訳されたのです。その訳語は、人によっては少し固い感じがするかもしれません。
  • 訳語に対するある種のイメージを持ってしまうと、それが「かせ」となって、トーラーの素晴らしさを探し出すことができなくなってしまうこともあります。しかし、神のトーラーには実に神の豊かな恩寵と神の統治の知恵が満ち満ちているのです。特に、神の福祉理念は今日においても学ぶべき驚くほどの内容です。

1. 二通りの生き方(当為と意欲)

  • 私たちの生き方には二通りあります。一つは、「したいことをする」生き方です。もう一つは、「しなければならないことをする」生き方です。
  • 「したいことをする」生き方は、人からなにかを言われてするのではないのですから、自由があり、自発性があります。そして当然のことながら意欲が見られます。そしてその意欲は創造性をはらんでいます。人からよく見られたいためにするのではありません。人から評価されるためにするのではありません。ただ自分がそうしたいからする生き方です。「したいことをする」生き方、そんな生き方ができる人は長生きできるといわれます。どうしてでしょう。おそらくストレスがないからだと思います。しかし、私たちの多く方の生き方を見ると、「したいことをする」、「したいことかできる」人生を送っている人は多くはないのではないかと思います。むしろ反対に、「しなければならないからする」という生き方の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。
  • 「しなければならない」生き方・・・たとえば、食べていくためには働かなければならないから働く」という生き方。親だから子どもを育てなければならない、学生だから勉強しなければならない。牧師だから説教しなければならない・・・。当然、そこには義務というものが存在します。極端に言うと、強制されるわけです。「今日は説教する気分ではない」と言って牧師が説教する義務を果たさないとすると、礼拝は成り立ちません。礼拝するために集まった人々が、今朝は気が重く、賛美する気分ではない・・と言って、神様を賛美するために声を出すことをしないならば、礼拝の中に神の臨在は感じられなくなります。だからといって、「礼拝だから賛美しなくちゃいけない」、「賛美は自分の思いで、したりしなかったりするものではない」と自分に言い聞かせてやっていると、ついに賛美することが辛くなってくるわけです。これが「しなければならない」という生き方です。務めているから働かなければならない、自分の仕事をなんとか果たさなければならないという義務感だけで働いているならば、仕事は楽しいものとはならないはずです。
  • しなければならないことには、必ず「かせ」があります。それを「義務」とか、「きまり」とかという風に言います。しかし、したいことをするというのは「かせ」がありません。自由です。働かない自由、遊ぶ自由、自由があるところには意欲があります。
  • この二つは、本来、結びつきません。別の世界のように交わることはないということです。したいことだけをしている、とすれば、さまざまな人間関係は崩れるでしょう。人間関係を円滑にするためには、「しなければならないことをする」ということを避けられません。ところが、しなければならないことが、いつまでもしなければならないことにとどまっているならば、これもまた辛く、喜びもなく、充実した人生とは言えないのです。ですから、しなければならないことが、したいとことと結びつくような道を探求しなければならないのです。もし、充実した人生ということが考えられるとするならば、「しなければならないこと」が、次第に、「したいこと」にまで変わっていくということになれば、それは充実した人生になるだろうと思います。
  • 詩119篇の1節を見ると、「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」の存在が提示されます。4節を読むと「あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた」とあります。つまり、ここでは「しなければならない」「守らなければならない」生き方があることを言っています。
  • 前後しますが、2節には「幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」とあります。これは、「主のさとしを守ることを、自ら、自発的に、心を尽くして主を尋ね求める」と言えます。そもそも、「心を尽くす」という生き方、これは「しなければならない」生き方からは出てこない生き方です。「しなければならない」生き方から出てくるものは「なんとか適当に(ほどほどに)」という生き方です。「心を尽くす」とは自発的でなければできないことだからです。
  • 「主のみおしえによって歩む人々」、すなわち「主のさとしを守る人々」とは、「堅く守るべき戒めを仰せつけられた」という面と、「心を尽くして主を尋ね求める」という面の、二つの生き方がかみ合っています。ここでは、当然なすべき生き方と、自ら自発的に、意欲的に生きようとする生き方が重なっているのです。
  • こうした二つの生き方が、この詩篇119篇では各段落ごとに繰り返されているのです。たとえば、9節と10節を読んでみると、「どのようにして若い人は自分の道をきよく保つことができるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。」というように・・。

(1) トーラーに対する自発的な愛を表わす表現

①「心を尽くして、あなたを尋ね求めています」(2、10節)
②「たくわえる」(11節)
③「どんな宝よりも楽しんでいます」(14節)
④「思いを潜めます」(15、23節)
⑤「喜びとします」(16節)
⑥「走ります」(32節)・・走るとは情熱を傾けること、熱心な献身を表わします。

(2) その根拠・理由を表わす表現

①「あなたが、私の心を広くしてくださるからです。」(32節)
②「そうして私は広やかに歩いていくでしょう。・・・」(45節)

  • ここで「広く」とか「広やかに」という言葉は、自由に生きることを意味します。「あなたが、私の心を自由にしてくださるから」、「そうして私は自由に生きていくでしょう。」
  • おきてとか、さとしとかを求めるという生き方が、自由に歩むことと結びついているのです。ここで人生の充実の方向を聖書がとっているということがわかります。そして「意欲」を別なことばで言い換えるならば、「愛」ということになります。愛というのは自発性がないと成り立たないものです。義務や強制では愛ということは生まれようがありません。愛というのは自発的なものでなければだめです。その点は、47節に出てきます。「わたしはわたしの愛するあなたの戒めに自分の喜びを見いだすからです。」 
  • 普通、戒めなどということを言う人は絶対に愛したくない人でしょう。そういう人と出会うのを避けたいと思います。ところが、この詩人はあなたの戒めという言葉に愛するという言葉がつくのです。さらに驚くべきは、そこに自分の喜びを見いだすということです。喜びというのも意欲です。自発的でないと喜びというのは成り立ちません。
  • 48節「わたしは、わたしの愛するあなたの仰せに手を差し伸べ(尊ぶという意味)、あなたのおきてに思いを潜めましょう。」 
    ここでの「思いを潜める」というのもたいへんな言葉です。いったい義務とか戒めとかいうのを深く思うなどということを普通考えません。おざなりに、しかたがないから思うわけです。「思いを潜める」とは、「深く思う」ということであり、非常に濃密な態度であり関係です。この濃密な態度というのは愛に結びつくものです。しかし、その愛に結びつくものが、どこまでも「堅く守るべき戒め」と結びついているということなのです。

2. 二つの生き方を結びつけるもの・・〔苦難の経験〕

(1) 苦しんだので迷いから救い出された

まず67節を取り上げます。
「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」
ここでは口語訳で読んでみます。
「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみことばを守ります。」
これは大変印象深いことばです。「あやまちを犯した」とあるのを口語訳では「迷いました」と訳しています。

  • 「迷う」という言葉は、なかなか含みのある言葉であり、人生体験ということを取り上げる場合には、迷うという言葉は非常に深い意味を持ってくる。この詩人は、裏から言うと、苦しむことをしたから、やっと迷いから救い出されたということを言っているのです。
  • 作者は、今は神のみ言葉を守っているといふうに告白していますが、それは今のことであって、かつてはどうであったかというと、迷いに迷ったというのです。苦しむというも、人生体験では大きな役割を演じることばですが、この苦しみと迷いというのがたいへん微妙に結びつきます。普通、私たちは苦しんだから迷ったという風に考えます。だから苦しみは迷いの解決にはならないというのが、私たちの普通の受け取り方、考え方ではないかと思うのですが、この詩人はだいぶ違います。わたしが迷ったのは、苦しまなかったからだというのです。
  • 詩人は幸か不幸か苦しむことをしたので、今は迷いを吹っ切りましたというのです。苦しむことは確かに不幸なことですが、苦しんだことによって、迷いが吹っ切れたという点では、幸いかもしれません。苦しむことは不幸というふうに普通持っていくのですが、苦しむことによって迷いを吹っ切るということもありうるのです。

(2) 苦しみの体験によって神のことばを学ぶ

似たような言葉が71節にもあります。
「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」   

  • これは67節と密接に結びつきます。苦しみにあったことが良かったのだというのです。裏から言うと、苦しみに会わなかったことは、わたしには悪いことだった」ということふうに解釈できます。こういうわけで、苦しみの体験と、神の言葉との結びつきということが出てきますので、これを人生体験と、神の言葉ないし、聖書とのかかわり合いとして受け取ってよいのではないかと思います。イスラエルの民が経験した捕囚の経験はまさにそこに導く神の計らいでした。


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