****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

Ps133その他

「神の家の回復」という視点から

はじめに

  • 詩篇における「都上りの歌」(120~134篇)は巡礼の歌とも言われます。つまり、ユダヤ人たちが彼らのたましいの故郷であるエルサレムーそこを神がご自身の住まいとして選ばれた地―の神殿に詣でるその途上で歌われたものであると言うことです。あえて「都上りの歌」としてまとめられているその編纂者(聖霊様)の編纂の意図は何か、「都上りの歌」の主題とはいったい何かを考えながら、この一連の詩篇を読んでいくと見えてくるものがあります。それは単なる神と個人との霊的な交わりを越えた、神の民としてのイスラエル全体の回復、「神の家の回復・再建」がテーマとなっているように私には思えます。
  • 神の家の新しい建て直しは、神によって始まり、すべて神によってなされ、神に栄光が帰されていくのです。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」(詩127篇1節)とあるように、神の家の回復は神によってはじめられるのです。その証拠に、バビロンへの捕囚となった人々は(かつて預言者エレミヤやイザヤたちによって預言されてはいましたが)、ペルシアの王クロスによってイスラエル帰還が現実になったときに、彼らはまさに「夢を見ている者のようであった」と詩126篇に記されています。
  • しかし確かに今それは実現したのですが、未だそれは完全にはなされていませんでした。それゆえ、4節で「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください」と祈っているのです。
  • 詩133篇も、神の家の回復という視点で見て行きたいと思います。回復というからには、回復の原型となるものがあったということです。イスラエルの歴史においてその原型となるのはダビデ・ソロモン時代の神の家です。その時代はイスラエルの歴史における黄金時代で、神を中心とする、神を何よりも第一とする国でした。王であるダビデはなによりもまず神を第一にした王です。「私はひとつのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩27篇4節)
  • 「一つのこと」(One Thing)とは、最も優先すべきことという意味です。それを得るならば他のすべてが正しい位置を占め、機能していく事柄があることをダビデは知っていました。それを得なければ、ほかのものがどんなにすばらしくても、やがてはすべて崩れていくことを知っていたのです。その一つのこととは、「主の家に住む」ということ、別なことばで表現すれば、神との親しい交わりです。ダビデは「一つのこと」を最も優先すべき事柄として求めたのです。それゆえ神はダビデを喜び、その国に繁栄をもたらされたのでした。
  • ソロモンも若いうちは父ダビデに倣って神を畏れていましたが、その繁栄が神から与えられていることを忘れ、ソロモンの心は少しずつ別な方向へと向いていき、彼の死後には国が二つに分裂し、やがては亡国の憂き目に会う羽目になりました。その最大の憂き目が「バビロン捕囚」という出来事です。「都上りの歌」に隠されている神の家の回復のテーマはそこから始まっているのです。失敗と挫折、さげすみと辱めの経験―「深い淵より」(詩篇130篇)から、彼らは主を呼び求めました。そしてその中で、彼らは神の赦しを知り、それまで見向きもしなかった神のみことば(トーラー)に心が向けられ、それを愛するようになり、それに希望をいだき、「昼も夜もそれを口ずさむ(瞑想する)」という神の民の本来のライフスタイルを回復するようになったのです。こうしたライフスタイルの回復は神の恵みと赦しのゆえになされたのです。それゆえ、詩篇の作者は神の民にこう呼びかけています。「イスラエルよ。主によりて望みをいだけ。」と。なぜなら「主には恵みがあり、豊かな贖い(つまり赦し)がある」からです。

1. 神の家の回復のヴィジョン

  • 少し前置きが長くなりましたが、詩篇133篇を見てみましょう。ここには神の家の回復のヴィションが描かれています。
    「見よ。兄弟が共に住む、なんという幸せ、なんというしわあせであろう。」神の民が「共に住む」という現実(リアリティ)が存在しています。「共に住む」とはいったいどういうことなのでしょうか。
  • 「共に」ということばは聖書全体の中で484回、「共に集まる」ということばは97回示されています。

    共に集まり、共に歌い、共に礼拝し、共に戦い、共に交わり、共に苦しみ、共に喜び、共に泣き、共に助け合い、共に結ばれ、共に住み、共に成長し、共にいこい、共に包まれ、共に編みこまれ、共に形づくられ、共に組み立てられ、共に働き、共に歩み、共に語り、共に親しく交わり、共に建て上げる。

  • 神は神の民が「共に」あることを意図されました。神の家において「共に住む」ことの祝福が、詩篇133篇では二つのたとえで表現されています。

(1) 末広がりの恩寵として(2節)

  • 大祭司を通して、神の民全体に流れしたたる祝福の油は特別な祝福、あるいは歓迎のしるしです。大祭司は旧約ではアロンでしたが、新約では主イエス・キリスト(Jesus)。大祭司を通して人々は主のもとに招かれ、そして「共に住む」ことが実現できるのです。
  • 教会はキリストのからだであり、そのからだのかしらはキリストです。この空知太栄光キリスト教会のかしらはキリストです。牧師ではありません。主の教会、主の家なのです。からだはかしらを通してすべての祝福がきますから、からだにつながるひとりひとりがかしらなる主イエス・キリストにつながっていなければこの詩篇133篇のように「見よ、兄弟たちが一つになって共に住む」ということはなんというしあわせ、なんという楽しさであろう」ということは経験(体験)することができません。このしあわせ、楽しさというリアリティを経験するためには、私たちが主にあって「共に住む」ことを通してです。

(2) いのちをもたらす露として(3節)

  • 「共に住む」こと、そこには交わりがあります。その生きた愛の交わりが、聖書では「いのち」というのです。「永遠のいのち」はまさに神のいのち、神との愛の交わりを意味しているのです。
  • 「シオンの山々に下りるヘルモンの露」とはどういう意味でしょう。イスラエルは雨季と乾季がはっきりしていて、乾季の時はほとんど雨が降りません。ところが乾季(5月~10月頃まで)には多くの果物がなります。どうして雨が降らないのに果物がなるのでしょう。それは露のせいです。露は寒暖の差が大きいとより多くできます。ヘルモンはおびたただしいほどの露を発生するのですが、シオンにそうしたヘルモンのおびただしいほどの露が降るということはないのですが、「兄弟たちが共に住む」ということの中に、そうしたリアリティの中に、ヘルモンにも似た霊的な祝福が注がれるというのです。その理由は「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」とあります。
  • 初代教会における「共に住む」という一致のヴィジョンが使徒の働き2章に示されています。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。」とあります。それぞれが自ずから、強制されてではなく、自発的に、ささげることによって「共に住む」ための必要がまかなわれました。46節には「毎日、心を一つにして、宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。
  • ここには初代教会に実現していた兄弟たちが、「共に住む」という姿が記されています。彼らは特別伝道集会を開いたわけではありません。トラクトを配布したわけでもありません。「主が、そこにとこしえのいのちの祝福を命じられた」というリアリティが存在していただけです。そこに主が救われるべき人々を加えてくださったのです。

2. 食卓を共にすること

  • 「共に住む」という具体的な生活は、食卓を共にするということです。ある作家の講演が北海道新聞(道新)に載っていました。

    彼の両親は、会津から北海道へ出稼ぎに来て、そのまま滝上町というところに住み着いて、炭焼きの仕事を16年ほどしました。その作家は炭焼き小屋で生まれ、四歳くらいまでそこで育ったそうです。炭焼き小屋というのは、非常に質素な作りの建物ですが、彼にとっては家であったのです。なぜならそこには家族がいて、一諸に食事をし、生活していたからです。狭い家に10人家族が暮らしていました。中学1年まで父と同じ布団に寝ていたほどで、もちろん勉強部屋もなく、夕食の後は茶の間で勉強したり、本を読んだりしていました。おなじ空間に住んでいるわけですから、両親の家計の厳しさも、子供ながらにひしひしと感じていた。親が子供に見栄を張ることがないため、子供のほうも、ほしい物が買ってもらえなくても、黙っているしかなかった。そんな彼が大人になり、結婚し、子供も与えられて、一戸建ての家がほしいということで、家を建てた。新築の家を。しかしこれが失敗だった。小説を書くために、何よりも書斎を中心に考えて、20畳ほどの広さを取ったため、台所や居間などに広さも予算を割けなかった。その結果、家族が集まる団欒の場所を圧迫してしまった。そうなると、家族の生活そのものがおかしくなってしまった・・・・

  • 「現在の家族はみんなが断絶状態にある。茶の間文化がそのものがなくなってしまった。家は家族の母港。家の中で共に住むということは、家族が集まる場所を確保し、そこで食卓を共にすることなんだ。」とその作家は言っています。
  • ヨハネの福音書15章4節に「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」と。7節では「わたしのことばにとどまる」というふうに言い換えられています。9節では「わたしの愛の中にとどまりなさい。」、「とどまる」ということばは、「住む」ということばと同義です。「わたしのうちに住みなさい」との招きです。
  • 生活の親密さは「共に住む」ことから生まれるものです。家族が共に住む家は、愛を育てる苗床です。聖書において、家や住むことは、神と私たちとの交わりについて明確なかたちをイメージさせる手段として表現されています。神が家を持っておられ、その家に私たちが住む。これは、神と私たちとの交わりが最も親密であり、最も穏やかであることを詳しく説明するために与えられている最も豊かなイメージなのです。
  • 「わたしがあなたがたのうちに住むように、あなたがたもわたしのうちに住みなさい」と主イエスが言われるとき、私たちは本当に「自分の家」と呼ぶことができる親しみに満ちた、フレンドリーな場所を提供されているのです。家とは、私たちが恐れを抱く必要のないような場所、あるいは空間です。そこで私たちは心の防御を捨てて、心配事からも、緊張からも自由になることができる場所です。家とは、私たちが笑ったり、泣いたり、抱き合ったり、踊ったり、ぐっすり眠ったり、食べたり、飲んだり、遊んだり、一緒に語らいをすることのできる場所です。家とは、私たちが休息し、くつろぐことができる場所、癒される場所です。それは、そこにいることの心地よさを感じるようなイメージ、・・・ホーム、それが愛のホームです。
  • しかし、この世界にはそうした家を持たないホームレスの人々が大勢いるのです。安全で、心にかけてもらうことができ、保護され、愛されていると感じられる場所をもたない「ホームレス」、これが現代の悩みを最もよく表すことばかも知れません。
  • 放蕩息子のたとえ話で、息子が帰郷して、自分の家に帰った話がありますが、聖書は「家に帰ること」が救いであり、いのちなのだと教えています。しかも、その家は父の家、失われることのない、永遠の親しい家庭、愛の交わりのある家に帰ることが救いだと教えているのです。それは、「御父、御子、御霊なる三位一体の神の愛の交わりの中に招かれること、帰ること」であり、それが聖書のいう「いのち」であり、「救い」なのです。
  • これから主にあって、神の家族として、神を中心とした神の家に「共に住む」ということを祈り求めていきたいと思います。これは決して容易ではありません。主の導きと助けと守りがなければ決して実現できないことです。

    「主が家を建てるのでなければ、それはむなしいのです。」

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