****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

Ps25その他

Ps25その他 「みことばをみことばによって解釈する」


はじめに

  • みことばを瞑想するうえで、いつも私の念頭にあることは、聖書のことばを聖書によって解釈するという方法です。これはみことばの理解を自分の理解や経験の中に閉じ込めてしまうことなく、客観的な面から理解する方法で、この訓練によって、みことばのイメージが自分の枠を越えて拡大します。
  • たとえば、詩篇25篇を例に取ってみたいと思います。
    12節の「主を恐れる者はだれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」というみことばを瞑想のキーバースとしたとします。その場合、そこにあるいくつかのワード、「主を恐れる者」、「選ぶべき道」、「主は・・(その人に)教える」という表現が何を意味しているかを思い巡らす必要があります。

1. 「主の恐れる者」とは

  • 14節にも「主はご自身を恐れる者と親しくされる」とあります。「主を恐れる者」とはいったいどういう者なのか。詩25篇だけでそれを考えてみると、以下のような者だということが分かります。

    「主を仰ぐ者」(1節)
    「主を信頼する者」(2節)
    「主を待ち望む者」(3節、21節)
    「主の契約とそのさとしを守る者」(10節)
    「いつもその目が主に向かう人」(15節)
    「主に身を避ける人」(20節)

  • これらはみな「主を恐れる者」と同義と言えます。この25篇では、主は「主を恐れる者」だけでなく、「罪人」に対しても、また「貧しい者」に対しても等しく、「そのいつくしみのゆえに」、「道を教えられる」方だということが見えてきます。

2. 「選ぶべき道」とは

  • 次に、12節の「選ぶべき道」とはどんな「道」なのでしょうか。「選ぶべき道」とは、「当然、選択すべき(しなければならない)道」、「それほどに重要な道」という意味だと思いますが、これも詩25篇だけで考えてみると、「あなたの道(デレフ・複数)」(4節)、「あなたの小道(オルハ・複数)」(4節)、「ご自身の道(デレフ・単数)」(9節)、「主の小道(オルハ・複数」(10節)と、単数や複数で表現されていますが、いずれも「主の」、「あなたの」道、小道であるということです。
  • その道とは、「真理に導く」道(5節)であり、「公義に導く」道(9節)であり、「恵みとまこと」の道です(10節)。この道こそ、「選ぶべき道」(12節)と言えます。

3. 「主は、(選ぶべき道を) 教えられる」とは

  • 選ぶべき大切な主の道ですから、それは主から教えていただかなければ分かるはずもありません。その道は、主から学ばなければなりません。そこで「教える」という動詞の意味を味わいます。
  • この詩篇には、訳語だけではわかりませんが、原語を調べると、「教える」と訳された動詞には二つのヘブル語が使われていることが分かります。一つは「ヤーラー」というヘブル語で、「教える、指示する、方向づけする、示す」(25:8, 12)という意味。どこへつながっている道なのか、その方向づけをしてくれるという意味です。もう一つの「教える」は、「学ぶ」と同義で「ラーマド」というヘブル語が使われています(25:4, 5, 9)。ちなみに、この二つの「教える」という動詞が一つの詩篇の中にあるのは、この詩25篇と詩119篇の二つです。主が「主を恐れる者に道を教えられる」のですが、詩25篇を全体通して「ヤーラー」と「ラーマド」の二つの意味が込められていると受け取ってもよいのではないかと思います。つまり、主は、はっきりとした方向を指し示すために「これが道だ、これに歩め」と教えてくださいます。また、私たちの失敗や挫折などの痛い経験を通して、主はご自身の道を、私たちの頭にではなく身体を通して学ばせ、身につけさせてくれます。ですから、そこには「罪の赦し」が背景にあります。それゆえ、詩篇25篇には「若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。」(7節)とか、「主よ。御名のために。私の咎をお赦しください。大きな咎を。」(11節),「私のすべての罪を赦してください。」(18節)と述べています。決して、自分の犯した罪のことを忘れていません。敵の存在は、自分が主の道を学ぶプロセスの中で犯した過ちに気づかせてくれた「愛すべき存在」であるかのようです。

最後に

  • このように、12節のことば「主を恐れる者はだれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」というみことばが、詩篇25篇だけでも、それを瞑想するための題材を十分に提供しています。これにさらに、新約的な光を加えることで、このみことばの持つ力が豊かにされます。
  • 「わたしは道である」と言われた御子イエス・キリストのことばによって、神の子どもとしての「選ぶべき道」が示されます。たとえば、「広い門からではなく、狭い門から入れ。滅びに至る道は広く、いのちに至る道は狭い。」と進むべき方向が示されます。また、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。」など、その生き方としての道を教えられると同時に、それを学ばせようとしておられます。
  • 再度、詩篇25篇12節の「主を恐れる者はだれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」という主の恩寵を、聖書全体を通して、自分の心の襞にしみこませるようにして、繰り返し、繰り返し、瞑想し味わうのです。

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