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Ps30その他

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Ps30その他・・「少々マニアックコーナー」

  • 瞑想することの外側に置いたほうが建徳的と思われますが、ある節や言葉について、とことんごだわって見るのもちょっとした楽しみです。身の程をわきまえず、私は、詩30篇7節の訳にこだわってみました。この箇所は多くの翻訳者が苦心して訳しています。
  • 30篇6~7節、特に7節の箇所は聖書によってさまざまな解釈があるようです。ある方は、その理由として、この箇所のヘブル語原文のテキストが壊れており、見当違いの接尾語がもたらしているとしています。果たしてそうなのかどうか・・・。

יְהוָה בִּרְצוֹנְךָ,  הֶעֱמַדְתָּה  לְהַרְרִי עֹז

  • 原文(右から)の五つからなることばを、直訳的に並べて見ると、
    「主(ヤハウェ)は」、「あなたの恩寵によって」、「立たせられている」、「私の山を」、「力」

    【新改訳改訂第3版】
    詩 30:7
    【主】よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。
    あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。


    【新共同訳】
    Psa 30:8
    主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。
    しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。


    【口語訳】
    Psa 30:7
    主よ、あなた恵みをもって、わたしをゆるがない山のように堅くされました。
    あなたがみ顔をかくされたので、わたしはおじ惑いました。


    【バルバロ訳】
    Psa30:8
    主よ、あなたの恵みは、私を力強い山の上に立たせた、
    だが、あなたが御顔を隠されたので、私は恐怖に襲われた。


    【岩波訳】
    Psa30:8
    ヤハウェよ、あなたの恩寵によりあなたはわが山にとりでを立てた。
    あなたが顔を隠し、私はおびえた。


    【関根訳】
    Psa30:8
    ヤハウェは恵みによって、わたしをかたい山の上に立たせて下さった。
    しかしあなたがみ顔を隠されたので、わたしは大いに恐れた。


    【フランシスコ会訳】
    Psa30:8
    ヤーウェよ、あなたは好意をもって、わたしを 山よりもしっかり立たせてくださった。
    あなたが顔を隠されたとき、わたしは恐れおののいた。


    【典礼訳】
    Psa30:8
    神よ、あなたは恵みのうちに、わたしをゆるぎない山のようにされた。
    あなたが顔を隠された時、わたしは、おそれ おののいた。


    【現代訳―尾山訳】
    Psa30:7
    主よ。あなたは私を顧みて、私を山のように確かにしてくださいました。
    ところが、あなたは私を無視されたので、私はうろたえてしまいました。


    【リビングバイブル】
    Psa30:7
    神様が恵んでくださって、私をびくともしない山のようにしてくださった。ところが、神様は顔をそむけて、祝福の川をからしたのです。たちまち、私は意気消沈し、恐怖におじまどいました。


    【NKJV】
    Psa 30:7
    Lord, by Your favor You have made my mountain stand strong;
    You hid Your face, and I was troubled.


    【NIV】
    Psa 30:7 O LORD, when you favored me, / you made my mountain {[7] Or <hill country>} stand firm; / but when you hid your face, / I was dismayed.


コンテキスト

  • 6節と7節(新共同訳の場合には7節と8節)の間には、新改訳聖書の場合に1行開いていますが、新共同訳聖書の場合には続いています。 
  • 新共同訳の場合には前節(7節)の「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえにゆらぐことがない』と。」という理由として、次節(8節)で「主よ、あなたが御旨によって砦の山に立たせてくださったからです。」とし、「しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。」と続いています。ところが、新改訳の場合は、前節とのつながりとしては解釈せず、一行離して、「【主】よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。」と、自分が神の不在感におじまどっている時にも、主の恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださっていたという見方ができる解釈をしています。

「私の山」、あるいは「山」の解釈

  • 原文どおり、「私の山」と訳しているのは、新改訳と文語訳(「わが山」)です。手島郁郎氏も『詩篇講話』の中で、ここは「あなたは、わが山に力を確立された」とも訳せるとしています。英語訳では、NASB, NIV訳がいずれも“my mountain”としています。ところが、新共同訳では「私の」という部分が訳されておらず、לְהַרְרִי עֹזを「砦の山」と訳しています。バルバロ訳は「主よ、あなたの恵みは、私を力強い山の上に立たせた。」と訳しています。いずれにしても、「私の山」、「わが山」あるいは、新共同訳の「砦の山」、バルバロ訳の「私の力強い山」の「山」とは何を意味しているのかが問題になってきます。
  • 一方、この「山」を比喩的(「山のように」という直喩・明喩)に訳している聖書もあります。口語訳がそうです。「主よ、あなた恵みをもって、わたしをゆるがない山のように堅くされました。」と。つまり、「山」を、不動の、ゆるがない比喩として、私をそのように堅くしてくださったというふうに訳しています。このような考え方に立つ立場は、尾山訳、リビングバイブル訳、典礼訳がそうです。しかし、フランシスコ会訳では「わたしを、山よりもしっかり立たせてくださった」と訳し、その「しっかり」の度合が「山」と比べられています。「山」を不動のイメージとして理解するのはとても分かりやすいのですが、しかし、分かりやすさと、原文が言わんとしていることが果たして同じなのかどうかが問題です。ともかく、7節にある「山」をどう理解するかで、翻訳が異なっているように思います。

私の個人的な理解

  • 私は、「私の山」(わが山) 、my mountainという表現を、「ダビデの山」として理解するとき、そこはダビデがエブス人から奪ってそこをイスラエルの礼拝の中心とした自然の要害としてのエルサレムと考えることが出来ます。エルサレムを「私の山」と表現したのは、私たちが自分たちの所属する教会を「私たちの教会」と表現するように、ダビデにとっても愛着のあるエルサレムという山を意味します。ダビデはそこを選んで神の都としました。平穏なとき、順境の時には「私は、決して(永遠に)ゆるがない」と豪語した自分が、状況が変って神の不在感の中に置かれるとき、たとえ神がそこにご自身の名を置かれた神の都(エルサレム)の中にいる自分であっても、いとも簡単に揺らいでしまう自分の姿を描いているように思えます。そこは自分の置かれている状況にかかわりなく、神の恩寵によって堅く立てられている山という告白として考える事ができるのではないかと思います。そうした事を念頭に置きながら、もう一度、新改訳を読んでみます。
  • 「【主】よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。
    あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。」

結論として

  • 新改訳の訳のほうが、私としては合点がいくように思えるのです。表題にある「神殿奉献の歌」と、山あり谷ありの浮き沈みを繰り返す私たちの姿と、不動の山としてのエルサレム(神の都)がとても対照的に置かれているように思えます。やがてその不動の神の都も、神の民をリセットするために、その宮をバビロンによって破壊されることがありますが、ダビデの山として、神の永遠の都として不動の山なのです。

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