Ps66の「かかわりの構造」
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- 詩篇66篇は、「さあ」(5節、16節)ということばに象徴されるように、「呼びかけの詩篇」と言われるものです。興味深いことに、詩篇65~67篇には「敵」の存在がありません。
- 1~12節までは複数代名詞の「私たち」が、「全地、国々の民」に向かって、13~20節までは単数代名詞の「私」が、同胞のイスラエルの人々、とりわけ「神を恐れる人々」に向って呼びかけています。呼びかけている内容も、前半では「神がなさったみわざを見よ」とあり、その具体的な事柄としては出エジプトの出来事とバビロンからの解放を示唆しています。後半では「私のたましいになさったこと」とあり、その具体的な内容は、神が「私の祈りの声を心に留められた」ことと「御恵みを私から取り去られなかった」ことが記されています。いずれにしても、自分たちの民、そして私になされた神のみわざを「見よ」と呼びかけていることです。
- 「呼びかけの詩篇」は、他にも、98:4、100:1などに見られます。神が直接的に呼びかけるのではなく、民、あるいは個人というフィルターを通して全地に、国々に呼びかけているという設定です。この設定は実は、神がアブラハムを選ばれた当初から意図しておられたことです。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)と語られたアブラハムとその子孫は、「預言者的務め」として神のみわざを語り、「祭司的務め」として国々の民の祝福のためにとりなすということが意図されていたのです。その前者の務めが詩篇66篇で、後者の務めが詩篇67篇で取り上げられています。
- イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、「すべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出19:5~6)ためでした。ところが、その務めを果たすことにおいてイスラエルは失敗しました。そこで神の御子イエスが遣わされ、その務めを踏み直してくださったのです。
- 御子イエスが遣わされる前にも、「神は預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1~2) 御子は最後の預言者と言えます。御父のことばを語り、御父のみこころを宣べ伝えました。御子のいるところには聖霊も寄り添うようにして存在しています。御子が御父のことばを語ることができたのは、御霊の助けがあったからです。ヨハネはこう記しています。「神(御父)がお遣わしになった方は、神(御父)のことばを話される。神(御父)が御霊を無限に与えられるからである。」(3:34)と。それゆえ、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子を信じない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(同、3:36)とあります。御子ご自身も「わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」(8:26)とその預言者的務めを公言しておられます。私たちもこの御子につながる(とどまる)とき、恐れることなく、神のことばを語るようになるのです。また神の驚くべき恵みのみわざを語ることができるのです。なぜなら、その務めを果たすべく、御父によって選ばれ、引き寄せられた者だからです。