****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

Ps68の「かかわりの構造」

Ⅱ/A(42~72篇) | テキストPs68 | 原典テキストPs68 | 瞑想Ps68/A | 瞑想Ps68/B | 礼拝用語Ps68 | 恩寵用語Ps68 |

Ps68

  • 詩篇68篇の「かかわりの構造」はきわめて複雑です。「神」、「敵」、「私たち」、「この世の王」、そして「人称なき存在」が存在しますが、どこからどこまでがどの人称が語っているのか理解するのが難しい詩篇です。
  • この詩篇のかかわりを見る上で、難しくしているもうひとつの理由は、もう一つ難しさは、1節の訳が、聖書によって異なっているという点です。1節「神よ。立ち上がってください。神の敵は、散り失せよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。・・のように、神の御前から滅びうせよ。」と新改訳は命令形に訳していますが、そのように訳しているのは新改訳だけであり、他の聖書、新共同訳、関根訳、岩波訳、フランシスコ会訳では、「神が立ち上がると(き)、神の敵は散らされ、逃げ去り・・・滅び去る」と直接法で訳されています。口語訳、尾山訳、文語訳では、「願わくは・・」(文語訳)、「神よ、立ち上がって、その敵を散らし・・てください。」(口語訳)と嘆願に訳しています。
  • このように、命令であるか、平叙であるかか、嘆願であるかによって、誰が語っているかも異なってきます。命令、あるいは嘆願として訳せば、語っているのは「私たち」であり、平叙である場合には、語っているのは「人称なき存在」であるということができます。しかも、敵(神に逆らう者)に対してだけでなく、神が立ち上がるときには、正しい者(神に従う者)は、神の御前で「喜び祝い、楽しむ」と訳されています。つまり、神が立ち上がられるときには、神に逆らう者と神に従う者との間に、はっきりとした違いがみられます。このように、神に逆らう者と神に従う者が対照的に語られていることを考えるなら、ここは「人称なき存在」が語っているとするのが自然です。
  • 詩篇68篇では、神の勝利の凱旋が歌われています。
    • 「神は敵の頭を打ち砕かれる。」(21節)
    • 「神よ。人々は、あなたの行列を見ました。聖所でわが王わが神の行列を。」(24節)
    • 「エルサレムにあるあなたの宮のために、王たちは、あなたに贈り物を持ってきましょう。」(29節)
    • 「神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に」(34節)
    • 「イスラエルの神こそ力と勢いを御民にお与えになる方です。」
  • これらのことが実現するのは、キリスト再臨における「千年王国」においてです。詩篇はそのときのことを預言的に語っているのです。
  • この詩篇68篇の結論は、19節と最後の35節の「ほむべきかな、神(主)」(バールーフ・エロヒーム(アドナイ)」です。このフレーズは詩篇で14回使われていますが、新約時代においては、「ユーロゲートス・ホ・セオス」Εύλογητος ό θεόςとして使われています(マルコ14:61、ルカ1:68、ローマ1:25/9:5、2コリント1:3/11:31、エペソ1:3、1ペテロ1:3)。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional