Ps89の「かかわりの構造」
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- 詩89篇は長い詩篇ですが、はっきりと三つの部分からなっています。
A. 神の恵みと真実に対する賛美
B. 神の恵みと真実の宣言
C. 神の恵みと真実に基づく祈り
- 「恵みと真実」とは、具体的には「ダビデ契約」のことを指しています。ダビデと交わした契約の中にそれがよく表わされています。
サムエル記第二、7章12~16節
「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまで堅く立てる。もし、彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしはあなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように彼から取り去ることはない。あなたの家をあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
- 詩篇89篇には「恵みと真実」がワンセットとなっている箇所が7箇所あります。他に、「真実」のみが3回です。
- 38節以降は、イスラエルの歴史において、神の恵みと真実が見失われてしまったような状況があったことを想起させます。具体的にはバビロン捕囚以降のことです。イスラエルはバビロンから解放されても、大国ペルシア、ギリシア、エジプト、ローマによって支配され続けました。「あなたの王座はとこしえまでも続く」という神の約束が見失われてしまった現実の中で、49節「主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。主よ。心に留めてください。」と祈っています。この祈りはやがて来られるイエス・キリストによって実現されることになります。それが以下の図です。
- ヨハネの福音書1章17節に「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです。」とあります。特に、「与えられた」という動詞と、「実現した」という動詞の意味するところはどこにあるのでしょうか。つまり、「与えられた」ことと「実現した」こととの違いはいったいなんでしょうか。
- モーセを通して与えられた「律法」は、神と人とのかかわりを規定しているものであり「聖なるもの」です。しかし「律法」は、本来あるべき理想的な姿を指し示しますが、それを建て上げる力はありません。神がダビデに約束された王国は、まさに神と民とのあるべき理想的なキングダムです。その生きた実体を堅く建て上げることのできるのは人ではなく、神ご自身です。そして神はご自身の御子イエス・キリストを通して、律法の目指すべものを実現してくださったのです(ローマ10:4【新改訳2017】「律法が目指すべきものはキリストです」)。
- その場合に、神の賜物としての「聖霊」の存在を忘れてはなりません。使徒パウロが述べているように、律法は「罪の死のトーラー」を私たちにもたらしますが、イエス・キリストの福音は「いのちの御霊のトーラー」によって私たちを、神とのゆるぎない愛のかかわりを建て上げてくれます。イエス・キリストを信じるものに例外なく与えられる神の賜物である御霊の存在を認め、受け入れ、その方の助けに満たされて歩むならば、思いをはるかに越えた神の子どもとしての祝福にあずかることができるのです。天の御国はそのような者たちのものです。