Ps90の「かかわりの構造」
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- 詩篇90篇に登場する「私たち」という存在は、人間の存在のはかなさをよく悟った者たちです。それゆえ、「自分の日を正しく数える知恵」、すなわち「知恵の心」を得させてくださいと祈っています。もし、この知恵が得られないならば、人生において「むなしさ」(「へヴェル」הֶבֶל)を味わうことになります。
- 「自分の日を正しく数える知恵」とは、毎朝、神の恵みで満ち足りること、また、敵の策略に翻弄されることなく、すべての日に喜び歌い、楽しみ、生涯にわたって輝いて生きること。明確な人生の目的と意味を悟って自分の手のわざが確かなものとされていく生涯を意味しています。そして、こうした生き方は神を自分の住まい(「マーオーン」מָעוֹן)とすることと密接な関係にあります。
- 「住まい」とは自分の居るべきところです。帰るべきところ、すべての源泉、すべてを共有するところです。モーセもダビデも、そして御子イエスもその「住まい」をもっていました。ヨシュアはカナンの地に侵攻してそこを占領する戦いをしましたが、戦いの後には必ず戦いの本営(本丸)、あるいは拠点である「ギルガル」に民と共に戻っています。「ギルガル」ということばは「転がす」という動詞から出てきたことばですが、それは自己信頼の道を捨てて、ただ神のみを信頼する道を選び取ることを意味します。ヨシュアは常にそうした自分の戻るべきところを知っていたのです。
- ヨシュアの霊性、ダビデの霊性、御子イエスの霊性は、まさに、永遠の住まいとしての神とともに住み、神とともに生きる「知恵の心」を得ていたのです。ただ、そこに帰るために、神はしばしば「私たちを塵に帰らせ」られます。ここでの「塵」という名詞「ダッカー」(דַּכָּא)は、「打ち砕く」という動詞「ダーハー」דָּכָאから来ています。たましいが打ち砕かれた者にこそ、「知恵の心」が与えられるようです。イエスの語られた「放蕩息子」(ルカ15章)がそうでした。
- 「塵」、すなわち「打ち砕かれた者」の引用箇所は以下の通りです。
詩篇34:18
「主は心の打ち砕かれた心に近くおられ、霊の砕かれた(ダッカー)者を救われる。」イザヤ57:15
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方がこう仰せられる。『わたしは高く聖なる所に住み、心砕かれて(ダッカー)、へりくだった人々とともに住む。へりくだった人の心を生かし、砕かれた(ダッカー)人の心を生かすためである。』」