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Ps95の「かかわりの構造」

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  • 詩篇95篇には神の民に対する礼拝への「呼びかけの存在」がいます。その「呼びかけの存在」は、「われらの」とか「私たちの」とあるので、民のひとりとして代表的発言をしているので、「祭司的存在」と言えます。

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  • さて、1節の「さあ」(1節)と訳されたことばは「ハーラフ」הָלַךְ(halakh)「行く、来る」の命令形、6節の「来たれ」と訳されたことばは「ボー」בּוֹא「行く、来る」の命令形が使われています。英語ではいずれも Come、あるいは、Oh Comeです。新共同訳ではなぜかこれらの「呼びかけ」用語が訳されていません。おそらく新共同訳の翻訳の編集方針なのだと思います。新約聖書においても、イエスが人に対して「さあ」と訳されていることぱ(ギリシア語)を調べてみると、それが接続詞であったり、副詞であったり・・と実にさまざまななのです。
  • 「さあ」という行動を促す呼びかけとして95:1と同様の用法として使われているのは、詩篇では他に66:5、65:16、83:4の3回です。ほかの「さあ」と訳される呼びかけには、副詞の「ナー」
    נָא(na'a)か(50:2/118:2,3/122:8/124:1/129:1)、同じく副詞の「サーム」שָׂם(sam)が(66:6)が使われています。112:1/134:1にある「さあ」は原文にはありません。


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