****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「そのとき」

30.「そのとき」

【聖書箇所】イザヤ書58章1~14節

ベレーシート

●イザヤ書58章は神の民イスラエルに対する厳しい主の糾弾から始まっています。57章では偶像礼拝が批判の的でしたが、58章は偽善的行為である断食安息日が非難されています。今回の説教題は、1~14節の中に三回出て来る「そのとき」(アーズ: אָז)としました。「そのとき」、イスラエルは偽りの宗教ではなく、その偽りから解放されて、いのちあるものに変えられた主の祝福が預言されています。ですから、「そのとき」(8,9,14節)は「その日に」(バヨーム・ハフー:בַּיוֹם הַהוּא)、「見よ」(ヒンネー:הִנֵּה)と同様に、終わりの日、メシア王国における祝福を啓示する語彙と言えます。

1. 「断食」という偽善的行為

【新改訳2017】イザヤ書 58章1節
「精一杯大声で叫べ。角笛のように声をあげよ。
わたしの民に彼らの背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ。

●1節は、主がイザヤに対して語っていることばです。1節前半の直訳は「叫べ。のどで。惜しむことなく。角笛のように、あなたの声をあげよ」です。新共同訳は「喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。」です。 「思いっきり、力の限り大声を出して叫べ。角笛を吹き鳴らすような声で」とも訳せます。その叫びの理由が2節にあります。それは、彼らの背き(ペシャ:פֶּשַׁע)と罪(ハッター:חַטָּא)のゆえです。その告発の内容は何かといえば、
①「このわたしを、彼らは日ごとに求め、わたしの道を知ることを望んでいる」こと。
②「義を行い、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる」ことのためです。

●一見、何も問題がないかのように見えます。なぜそれが非難すべき理由なのでしょうか。それは、彼らが神の道を知るふりをし、神に近づくことを望んでいるかのように装っているからです。それが神に見抜かれているにもかかわらず、3節にあるように『なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。』と神に苦情を申し立てています。これは、あのパリサイ人と同様です。

【新改訳2017】ルカの福音書18章10~14節
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

●「義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です」とイェシュアは言われました。これはパリサイ人にとって、晴天の霹靂だったはずです。同じことがイザヤ書でも語られているのです。特に、今回の「私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか」という苦情は、外面的、形式的に断食をすることで神の顧みを求めていたことを表しています。また自らを戒めたのに、つまり自分を自己否定したのに、どうして受け入れてくださらないのか、認めてくださらないのかという不満です。これは今日の私たちも同じことが起こり得ます。こんなに教会のために奉仕をしているのに、という思いにもつながって来ます。その上、もし「ほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します」という思いがあるなら、不満はさらに増幅します。その不満の背景に、主への真の恐れがないことが透けています。あたかも宗教的熱心に見せかけて、一見敬虔な人のように見せかける偽善性こそが問題なのです。本当の断食は神からの愛顧を得るためにすることではなく、神のことばとその真意を尋ね求めるためにするものです。しかし神の糾弾は、3節にあるように、「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。」とあります。「断食の日に自分の好むことをし」とは、その行為に自己満足していることを意味しています。また「あなたがたの労働者をみな、追い立てる」とは、形式的な断食が行われるとどのような結果になるかを示しています。自分は自らを戒めているのだからと、労働者たちを平気でこき使い、搾取しても良いのだという心理になり、さまざまな争いをもたらすことになるのです。

●「断食」という語彙はモーセ五書の中には見られません。「断食」の初出箇所は士師記20章26節です。「そのころ、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」時代において、部族同士がお互いの内部に干渉したりすることはありませんでしたが、神にお伺いを立てるために断食をしたことが記されています。「断食する」という動詞(ツーム: צוּם)も、「断食」という名詞(ツォーム: צוֹם)も、イザヤ書においては、すべて58章に集中しています。58章5節では断食することをパラレリズムで「人は自らを戒める」と表しており、口語訳では「おのれを苦しめる」、新共同訳・岩波訳では「苦行する」、フランシスコ会訳では「魂を苦しめる」としています。真の断食は真の悔い改めをもたらすためのものですが、イスラエルの民の断食は自己本位な目的のためのものでした。ですから、あの「取税人」のような「罪人の私をあわれんでください」という祈りは決して出て来ません。むしろ「私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します」という自己の義を立てる祈りになり、天に届く祈りとはならないのです。今日の私たちも同様です。

●自分が偽善的であるかどうかを見分ける一つのしるしは、「今日、礼拝を守れたことを感謝します」という言葉です。もしこうした思いが内にあるなら、形式的・偽善的な礼拝者である可能性があるのです。礼拝を「守った者」が真の礼拝者であるとは限りません。断食という行為に隠された本意を神は知っておられるので、「いと高き所に、その声は届かない」(4節)と主は語っているのです。これは善悪の知識の木だけを取って食べた者の末路なのです。イェシュアが来られた時代の宗教指導者たちは、そうした偽善で満ちていました。イェシュアはそうした者たちと戦われたのです。

2. 神の求める真の断食とは

●イェシュアは公生涯に入られる直前に、四十日四十夜、荒野で断食をしています。それはこれからのサタンとの戦いに備えるためでしたが、それ以外には断食をしていません。これにはバプテスマのヨハネもつまずきかけました。

【新改訳2017】マタイの福音書9章14~15節
14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。
15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします

●断食とは悲しみを表すためにするものであり、喜びにあふれる婚礼の宴会の席において、「花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか」と答えています。ここで言われている「花婿」とはイェシュアのことです。「花婿に付き添う友人たち」とは、イェシュアの弟子たちのことです。イェシュアの弟子たちは「花婿に付き添う友人たち」として婚礼に招かれた客として歓迎を受けています。ですからそのような席で彼らは「悲しむことはできない」のです。イェシュアは「天の御国」をしばしば結婚式の披露宴(宴会)にたとえています(マタイ22:1~14、25:1~13)が、「彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。」と答えています。「彼らから花婿が取り去られる日が来ます」とはどういうことでしょうか。当時のヨハネの弟子たちは分からなかったと思います。「彼らから花婿が取り去られる日が来る」とは、イェシュアがこの地から取り去られる「十字架(復活と昇天も含む)から再臨までの期間」を表しています。「花婿が取り去られる日」はイェシュアの弟子たちにとっては悲しみの時です。イェシュアはこのときこそ断食すべき時なのだと言われましたが、その「断食」とは「イェシュアを通して語られた神のことばの真意を、聖霊によって熱心に求めるようになること」を意味しています。また、それだけにとどまらず、イザヤ書58章6~7節でイスラエルの民が本来の「王なる祭司」となるために、主はこう述べています。

6 わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
7 飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。

●これは異邦人も含めた人類愛の話ではありません。イスラエルの同胞に対する愛としての断食なのです。これはイスラエルが主によって「王なる祭司」として選ばれていることが根底にあります。このことと「断食」が結び付けられているのです。神の求められる「断食」、神の喜ばれる「断食」とは、同胞の弱い者たちに対して愛の手を伸べることで、共同体の中に神の統治理念を実現する行為なのです。その誠実さの行為の水準は、神から出ているためにきわめて高いものでした。イェシュアは形式的な断食をする者に対して次のように語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書 23章23節
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義あわれみ誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

※ヘブル語訳は「正義」を「ミシュパート(מִשְׁפָּט)」、「あわれみ」を「ヘセド(חֶסֶד)」、「誠実」を「エムーナー(אֱמוּנָה)」と訳しています。

●ここに、神のトーラーの精神である「断食」の意義が語られています。十戒の後半の部分は「人を愛すること」の戒めですが、イェシュアはこの戒めの象徴的行為として「断食」ということばを用いているのです。これは表面的に「食事を断つ」という行為ではありません。それを「食事を断つ行為」だと見なしてしまったのが律法主義です。事柄の本質ではなく、目に見える行為にすり替えてしまうことが律法主義なのです。その弊害に対して、イェシュアは鋭く批判しました。もし神の喜ばれる断食をするなら、ただしそれは、やがて与えられる「神の霊」によってしか為し得ませんが、そうするならそのとき、神のあわれみが施されるのです。これは終わりの日に「イスラエルの残りの者」に実現される預言であり、「そのとき」つまりメシア王国での祝福なのです。

① 8節
そのとき(אָז)、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。

●「あなたの光が暁のように輝き出て」と「あなたの回復は速やかに起こる」はパラレリズムです。突然、闇が光に変わるように回復のわざが起こります。「あなたの義」とは「神ご自身」のことで、「主の栄光」とも同義です。イスラエルの民が出エジプトした時、常に火の柱、雲の柱があったように、イスラエルの残りの者も神の守りによって取り囲まれることが預言されています。

② 9節
そのとき(אָז)、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると、『わたしはここにいる』と主は言う。

●ここでは「呼べば、即答える」という関係、「叫び求める」と「わたしはここにいる」(ヒンネーニー:הִנֵּנִי)という親密な主との近さが強調されています。9節後半から、「もし(イム:אִם־)・・・なら」構文(英語ならIf・・)を伴い、
a.もし (אִם־)、あなたの間から、くびき(=虐待)を除き去り、虐げの指をさす(=侮辱する)ことや、邪悪なことばを取り去り、
10 飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。

●10節の「あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる」とは、太陽の光が真夜中に輝くように、大患難の災いや試練から、喜びの光が突如として輝くことを意味しています。

11 主は絶えず(ターミード: תָּמִיד)あなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。
12 あなたのうちのある者(ミンメハー:מִמְּךָ)者(=彼ら)は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。

●11~12節は、メシア王国での一連の祝福が語られています。

イ. 主は絶えず、あなたを導いて・・・
主は羊飼いのイメージ(詩篇23篇)。
ロ. 焼けつく土地でも食欲を満たし・・
主は乾燥したところに雨を降らせて豊かな実り(食物)を与えるイメージ。
ハ. 骨を強くする・・・・・・・・・・
本質的な部分(=霊)を新たにするイメージ。
二. 潤された園のように・・・・・・・
エデンの回復のイメージ。
ホ. 水の涸れない水源のようになる・・絶えず湧き出るいのちの源泉のイメージ。
ヘ. ある者は昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、破れを繕う者、通りを住めるように回復する者となることは、メシア王国で実現されます。「礎、破れ、通り」はすべてエルサレムを指すと思われます。

b. 13節
もし(אִם־)、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、

③ 14節
そのとき(אָז)、あなたは主をあなたの喜びとする(עָנַגのヒットパエル)。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。
──主の御口がそう語られる。(כִּי פִּי יְהוָה דִּבֵּר)」

●13,14節での「あなた」は2人称男性です。これは57章の「彼」がそうであったように、「イスラエルの子孫」(ゼラ・イスラーエール:זֶרַע יִשְׂרָאֵל)を指します。しかし実際にはその中から「イスラエルの残りの者」(女性形)の上に成就されます。なぜなら、彼らにこそ主の約束が成就されることが定まっているからです。

●「喜びとする」と訳された「アーナグ」(עָנַג)のヒットパエル態は、イザヤ書55章2節でもすでに使われていました。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく」にある「良いものを食べる」ことは「脂肪で元気づく(アーナグ:עָנַג=楽しむ)」ことであり、それはまた「たましいが生きる(₌いのちを得る)」ことと同義です。そのような契約を「永遠の契約」(ベリート・オーラーム:בְּרִית עוֹלָם)として結ぶことを神は約束しています。この「永遠の契約」を、新改訳では「ダビデへの確かで真実な約束」としています。

●14節の「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ」とは「地を支配させる」という意味であり、「あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」の「養う」とは「食べさせる」(アーハル:אָכַר)ということです。これはイスラエルの残りの者に対して、ご自身のみことばを食べさせることを意味しています。つまり主と一体となるという祝福が約束されているのです。

●さらに、14節の最後のことば「主の御口がそう語られる」は「キー・ピー・アドナイ・ディッべール」(כִּי פִּי יְהוָה דִּבֵּר)です。「ー主の御口がそう語られる」というフレーズはイザヤ書1章20節にもあります。これまでの「―主のことば―」と訳される「ネウム・アドナイ」(נְאֻם יהוה)と、どう違うのでしょうか。

【新改訳2017】イザヤ書1章18~20節
18 「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる(ヨーマル・アドナイ:יֹמַר יהוה)──
たとえ(אִם־)、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ(אִם־)、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。※18節の「אִם־」は本来なら実現不可能な事柄です。
19 あなたがたは、もし(אִם־)喜んで聞こうとするなら、この地の良い物を食べることができる。
20 しかし、もし(אִם־)拒んで背くなら、剣に食い尽くされる。※19,20節の「אִם־」は条件的な事柄です。──主の御口がそう語られる(キー・ピー・アドナイ・ディッベール:כִּי פִּי יְהוָה דִּבֵּר)。」

●18節の「ー主は言われるー」も、20節の「ー主の御口がそう語られる」も、「ー主のことばー」も、すべて神が語られた事柄は、必ず果たされるという神の断言フレーズです。しかしそれがなされるのは、「そのとき」(アーズ:אָז)であり、メシア王国においてなのです。

ベアハリート
 

●58章は、二つの段落から構成されています。ひとつは「断食」について、もうひとつは「安息日」についてです。この組み合わせは何を意味しているのでしょうか。イェシュアは律法を二つに部分に分けました。

【新改訳2017】マタイの福音書22章35~40節
35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

●「二つの戒め」とは、以下の内容です。
A 「第一の戒め」
『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
B 「第二の戒め」
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

●AとBの「愛しなさい」のギリシア語原文は、いずれも「未来形」です。つまり「愛するようになる」となっています。なぜ、未来形で記されているのかといえば、「主を愛する」にも、「隣人を自分自身のように愛する」にも、この二つの戒めを実行させる神の「霊」がこのときにはまだないからです。その霊とは「聖霊」のことで、イェシュアが死から復活され、そして「初穂の祭り」で秘密の昇天をしてご自身を御父に献げた際に、御父から「もう一人の助け主」つまり「真理の御霊」である聖霊を受け取り、その日の夕べにご自身の弟子たちに与えられたものです。これをパウロは「いのちを与える霊」と言っています。この霊がなければ律法の二つの戒めを行うことはできません。イスラエルに対しては終わりの日にこれが与えられ、私たちエックレーシアにはすでに包括的に与えられているのです。

●イザヤ書58章では、順序が逆になっており、13~14節にある「安息日」は第一の戒めを指し、6~12節にある「断食」は第二の戒めを指しています。この二つの戒めを行うためには、私たちの霊が回復され、キリストの「いのちを与える霊」とミングリングする必要があります。そしてそのことがすでに成されているのです。この事実を霊によって受け取ることが信仰なのです。その信仰によって、霊は実体化するのです。

キリストの事実 ➡ 信仰 ➡ 実体化

●ルカの福音書11章では、御父がご自分に求める者たちにこの「聖霊」を与えてくださることをイェシュアは語っています(13節)。ですから、これを「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(9~10節)と述べています。この話は弟子たちがイェシュアに「私たちにも祈りを教えてください」と願ったことで、イェシュアがいつも祈っていた祈り、すなわち「主の祈り」について語った箇所です。ですからその祈りは、「御国が(地に)来る」ための祈りなのです。私たちの願いのための祈りでは決してありません。御国が来ること、神のご計画を正しく理解するために、聖霊がそのことを教えてくださるのです。「そのこと」とは「御国のこと」です。ですから、「求めなさい。探しなさい。たたきなさい。そうすれば、だれでも、それを手に入れ、それを見出し、それが開かれる」と言っているのです。旧約時代にはその聖霊が与えられずに、律法の要求だけが求められていたのです。時が来るまで、つまりイェシュアの公生涯によって現されるまで、「霊の賦与」は隠され続けていたのです。

●先ほどマタイの福音書22章35~40節から、「二つの戒め」の重要さを取り上げました。同じことが、ルカの福音書でも取り上げられています。しかし焦点は異なります。それは第二の戒めの「私の隣人とは誰のことですか。」という視点(問題)です。

【新改訳2017】ルカの福音書10章25~37節
25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えた。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗はその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

●「私の隣人とはだれですか」という質問に対して、イェシュアは「良きサマリア人のたとえ話」(30~35節)をしました。そして、話に登場する三人の中で「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と尋ねます。すると、「私の隣人とはだれですか」と聞いた者が答えます。「その人にあわれみ深い行いをした人です」。その人とは「良きサマリア人」のことです。続けてイェシュアは、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言います。
ここで私たちは「あなたも行って、同じようにしなさい」を、自分がサマリア人のようになることだと考えてしまいます。それはたましいの理解です。質問者が「私の隣人とはだれですか」と尋ねたことに対して答えたのが「良きサマリア人のたとえ話です。「あなたも行って、同じようにしなさい。」とは、「あなたが良きサマリア人のようになりなさい」ではなく、「その良きサマリア人であるイェシュアをあなたの隣人としなさい」ということなのです。そうすれば、「あなたはその人からあわれみを受けることになる」ということなのです。だれ一人、私たちはイェシュアの霊なしには、神のみこころを知ることはできません。私たちは、強盗であるサタンによって大切なものを奪われた瀕死の状態の「ある人」なのです。

●この話は、律法の二つの戒め、つまり「神を愛すること」と「隣人を自分自身のように愛すること」を知っている律法学者に対して、その戒めが指し示している本当の意味を教えることとなったのです。どういうことかと言えばこうです。「神を愛すること」と「隣人を自分自身のように愛すること」とはどちらも、イェシュアを愛することに等しいということです。イェシュアは神であり、同時に人です。人となられたイェシュアを、あなたの隣人とすることが神の戒めの本意なのです。たとえの中に登場する「強盗に襲われた人」とは「私たち自身」なのですが、なかなかこのことに私たちは気づけないのです。もしこのことが理解できるなら、イザヤ書58章に記された主の糾弾を正しく理解できる者となるのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2026.7.19
a:41 t:1 y:0

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