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「その名が聖である方が仰せられる」

29.「その名が聖である方が仰せられる」

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【聖書箇所】イザヤ書57章1~21節

ベレーシート

●イザヤ書56章7節で「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。・・・なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」とありました。「わたしの祈りの家」とはメシア王国のことです。メシア王国が訪れる時、あらゆる隔ての壁は崩れて、ユダヤ人と異邦人はともに受け入れ合います。ついで、8節では「──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える」とありました。「すでに集められた者たち」とは「イスラエルの散らされた者たち」のことで、「さらに集めて加える」とは異邦人のことなのです。このように、ユダヤ人と異邦人のすべてが神の家族として受け入れられ、一つとなって王なる神があがめられることになります。

●しかし、56章9~12節では、神の敵が「野のすべての獣」と「林の中のすべての獣」と呼ばれています。「獣」と訳された語彙は「ハッヤー」(חַיָּה)で、歴史の中で繰り返し侵入する外敵を象徴していますが、終わりの日にも「獣」と呼ばれる反キリストが台頭してきて、神の民イスラエルを貪り食います。その理由は、10節にあるように「神の見張り人は目が見えず、みな何も知らない」からです。「神の見張り人」(ツァーファー:צָפָהの分詞複数)とは「敵の侵入を警告する預言者」のことです。彼らの目が見えていないので、その務めに適さなくなってしまっているだけでなく、「貪欲で、足ることを知らない」とあります。この「貪欲」は「強欲」のことで「足ることを知らない、飽きることを知らない」者のことで、この「貪欲」「強欲」が偶像礼拝と結びつくのです。

1. 偶像礼拝が地を占有した時代

●さて今回の57章1~13節前半は、前章の9~12節と密接に結びついています。しかも、1~2節は「義人への無関心さ」が取り上げられています。

【新改訳2017】イザヤ書57章1~2節
1 「義人は滅びるが、心に留める者はいない。誠実な人は取り去られるが、気づく者はいない。義人は、わざわいを前にして取り去られる。
2  その人は平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。

●1~2節の「義人(ハッツァッディーク:הַצַּדִּיק)、誠実な人(アンシェー・ヘセド:אַנְשֵׁי־חֶסֶד)、まっすぐに歩む人(ホーレーフ・ネホーホー:הֹלֵךְ נְכֹחוֹ)」はすべて複数形です。彼らは「わざわいを前にして取り去られ、平安に入り、自分の寝床で休むことができる」とあります。これは預言です。「わざわいを前にして取り去られ」とは、やがてマナセの治世の迫害と流血の時代が来る前に、彼らはこの世から取り去られ、「平安に入り」とは、安らかに眠ることを意味しています。これは同時に、終わりの日の未曾有の大患難の前に携挙されるエックレーシアを啓示しています。マナセはユダにおいて最悪の王であり、その55年間の治世は偶像礼拝が地を占領した時代でした。マナセは祖父アハズと同様に、アッシリアの忠実な属王であることを認めてもらうために、進んでアッシリアの宗教を輸入しました。父ヒゼキヤが行った改革はここで完全に逆戻りします。マナセは罪のない者の血を多量に流し、徹底した宗教弾圧政策をとったのです(Ⅱ列王21:16)。伝承によれば、イザヤはマナセによってのこぎりでひき殺され、殉教したと言われています。

画像の説明

ユダ王国の中で、異教の神モレクに幼児犠牲をささげるという恐るべき霊的堕落が起こったことについても、57章で言及しています。預言者イザヤはユダとエルサレムに対して語った預言者であり、その幻は、「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである」 (イザヤ1:1)とあります。ですから57章にある出来事は、ヒゼキヤ王の後のマナセ王の治世の時のことが預言的に語られていると言えるのです。

【新改訳2017】イザヤ書57章3~13a節
3 しかし、あなたがた、女卜者の子ら、姦夫と遊女の子孫よ。ここに近寄れ。
4 あなたがたは、だれをからかい、だれに向かって口を大きく開き、舌を出すのか。あなたがたは背きの子、偽りの末裔ではないか。
5 あなたがたは、樫の木の間や、青々と茂るあらゆる木の下で、身を焦がし、谷や、岩の裂け目で子どもを屠っているではないか。
6 谷川の滑らかな石があなたの分、それら、それらこそが、あなたの受ける割り当て。それらに、あなたは注ぎのぶどう酒を注ぎ、穀物のささげ物を献げているが、こんな物で、わたしが慰められるだろうか。
7 そびえる高い山の上に、あなたは寝床を設け、そこにも上って行って、いけにえを献げた。
8 あなたは、扉と柱のうしろに、自分を記念する像を置いた。あなたわたしを捨てて裸になり、そこに上って自分の寝床を広げ、彼らと契りを結び、彼らの寝床を愛し、彼らの象徴物を見た。
9 あなたは油を携えて王のところまで旅し、香料を増し加え、使者たちを遠くまで送り出し、よみにまでも下らせた。
10 あなたは、長い旅に疲れても、『あきらめた』とは言わなかった。あなたは元気を回復し、それで弱らなかった。
11 あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたわたしのことを思い出さず、心にも留めなかった。わたしが久しく黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。
12 わたしは、あなたの義のわざと、あなたの行いの数々を告げよう。しかし、それらはあなたにとって役には立たない。
13a あなたが叫ぶとき、あなたが集めたものどもに、あなたを救わせよ。風が、それらをみな運び去り、もやがそれらを連れ去ってしまう。

(1) 人称の同定

●まず、3~13a節にある人称について、同定しておきたいと思います。
(1) 3~5節の「あなたがた」は、マナセ王治世時代の宗教指導者たちです。
(2) 6~13節の「あなた」は、マナセ王です。
(3) 8節の「彼ら」は、偶像、あるいは偶像のシンボル(複数)です。
(4) 6, 8節、11~12節の「わたし」は、神です。

(2) 数々の偶像礼拝

●5節の「あなたがたは、樫の木の間や、青々と茂るあらゆる木の下で、身を焦がし、谷や、岩の裂け目で子どもを屠っているではないか」という記述があります。「樫の木:アイル:אַיִל」(複)や「青々と茂るあらゆる木」も、そして「谷」と「岩の裂け目」もすべて異邦の地ではなく、イスラエルの地を指しています。「青々と茂るあらゆる木の下」が、偶像礼拝の場所と明記されています(申命記12:2)。そこで「身を焦がし」とは「興奮する、肉欲に燃える、色情を抱く」を意味する「ハーマーム:חָמָם」の受動分詞で表記され、「公然と淫行を行っていたこと」を意味します。それだけでなく、「谷」(=ベン・ヒノムの谷=ヨシャパテの谷)と「岩の裂け目」では、「子ども(複)を屠っている」とあります。異教のモレクの神の怒りを鎮めるために、また自分たちの欲をかなえるために、子どもたち(ハッイェラーディーム:הַיְלָדִים)を犠牲にすることさえ惜しまなかったのです。こうした風習はバビロンでも、そしてアハズ王の治世、マナセの治世においてなされていたようです。以下がそうです。

バビロン・・・【新改訳2017】Ⅱ列王記 17章31節
アワ人はニブハズとタルタクを造り、セファルワイム人はセファルワイムの神々、アデラメレクとアナメレクに自分たちの子どもを火で焼いて献げた。
アハズの治世・・【新改訳2017】Ⅱ歴代誌28章3節
彼(=アハズ)は、ベン・ヒノムの谷で犠牲を供え、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもたちに火の中を通らせた。
マナセの治世・・【新改訳2017】Ⅱ歴代誌33章6節
この彼(=マナセ)は、ベン・ヒノムの谷で自分の子どもたちに火の中を通らせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行い、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起こしていた。

●これは明らかに「自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない」(レビ18:21)とする神の命令に反する行為です。また9節では、「あなた(=マナセ)は油を携えて王のところまで旅し、香料を増し加え、使者たちを遠くまで送り出し、よみにまでも下らせた」とあります。ここでの「王」と訳されている原語がמֶלֶךְでモレクと同じ綴りです。新改訳改訂第三版までは「モレク」と訳されていましたが、【新改訳2017】では「王」と改訳されました。しかしここはモレクでないと意味が通じません。モレクは「アンモン人の主神」です。また7節の「そびえる高い山の上に、あなた(=マナセ)は寝床を設け、そこにも上って行って、いけにえを献げた」という記述にも、バアル、アシュタロテの偶像礼拝をし、不道徳な行為も伴っていたことが記されています。これらは「アハズ王」のときにも、「マナセ王」の時にも起こったことでした。彼らは「異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて」(Ⅱ列王16:3、21:2)、偶像神モレクへのささげ物として、幼児を祭壇の上でいけにえとして火で焼くという残酷な礼拝をしたのです。

2. 神の終末的救いの呼びかけ

(1) 地を受け継ぐ者

【新改訳2017】イザヤ書57章13b~14節
13b しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。
14 ──主は言われる──盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」

●ここで「地を受け継ぐ」(インハル・エレツ:יִנְחַל־אֶרֶץ)とは「聖なる山を所有することができる」ということであり、終わりの日にメシア王国に入ることを意味します。そのような人は、神に「身を寄せる者」だとしています。「身を寄せる者」とは「ハーサー」(חָסָה)の分詞で、冠詞付きの「ハーホーセー」(הָחוֹסֵה)です。これは男性形ですが、女性形なら「ハーハースート」(הָחָסוּת)となります。これは神の中へと逃げ込む者を意味します。詩篇37篇では、この「地を受け継ぐ者」の幸いが以下のように述べられています。

①【新改訳2017】詩篇37篇9節
悪を行う者は断ち切られ 主を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。
②【新改訳2017】詩篇37篇11節
しかし 柔和な人は地を受け継ぎ 豊かな繁栄を自らの喜びとする。
③【新改訳2017】詩篇37篇22節
主に祝福された人は地を受け継ぎ 主にのろわれた者は断ち切られる。
④【新改訳2017】詩篇37篇29節
正しい人は地を受け継ぎ いつまでもそこに住む。
⑤【新改訳2017】詩篇37篇34節
主を待ち望め。主の道を守れ。主はあなたを高く上げ 地を受け継がせてくださる。あなたは悪しき者どもが断ち切られるのを見る。

●この詩篇37篇では、「主を待ち望む者」「柔和な人」「正しい人」「主の道を守る(者)」に、主は地を受け継がせて、つまりメシア王国に入れてくださるのです。しかしそのために重要なことがあると、この詩篇は訴えています。それは何かといえば、3節にある「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。」です。これはパラレリズムで、「主に信頼し、善を行う」ことは「地に住み、誠実を養う」ことと同義だということなのです。「善を行う」とは「誠実を養う」ことなのです。「地に住み」とは、自分が置かれている地に踏みとどまり、そこに腰を据えるという意味です。腰を据えて何をするのかと言えば「誠実を養う」(レエー・エムーナー:רְעֵה אֱמוּנָה)ことなのです。このことが、詩篇37篇の全体の重要なキーワードと言っても過言ではありません。それが「地を受け継ぐ」上で大切なのです。ところで「誠実を養う」とはどういう意味なのでしょうか。

●新改訳で「誠実」と訳された「エムーナー」(אֱמוּנָה)」は「アーメン」(אָמֵן)と同じ語根です。多くの聖書が「真実」と訳しています。ちなみに、旧約では「エムーナー」は49回。詩篇では22回使われています。いわば、詩篇の特愛用語と言えますが、その22回の内1回だけ「誠実」と訳されているのです。「エムーナー」は、神ご自身が約束されたことを決して破らないという意味です。ただしその方向性は神が人に対する場合です。3節のように、「エムーナー」が人から神への方向性を持つ場合には、「真実」ではなく「誠実」と訳しています。これは微妙に使い分けた訳語だと言えます。人の神に対する真実、つまり「誠実」は「神を尋ね求める誠実」であり、それこそが「信仰」とも言えます。ですから、新共同訳では「エムーナー」を「信仰」と訳しています。

●「誠実を養う」の「養う」とはどういうことでしょうか。「養う」と訳された動詞は「ラーアー」(רָעָה)です。神が人を、羊飼いが羊を飼う場合には「牧する、世話する」という意味になります。しかし、人が自分の誠実や信仰を世話する場合には「養う」となります。つまり自分自身の信仰、神を尋ね求めて行く信仰(=誠実)を「養う」ことの重要性がここで取り上げられているのです。しかしこれは、人の力でできることではなく、神の霊と人の霊をともに働かせることによってのみ可能なことであり、預言的です。

●主のために熱心に仕えて奉仕することは尊いことですが、単に、熱心に奉仕することは必ずしも「誠実を養う」ことにはなりません。ユダの民がバビロンの捕囚となる前に、預言者エレミヤはユダの民に対して神のことばを告げました。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と。その捕囚の地において、神はご自身の民を新しくするためにみことばによってリセットするという意図がありました。バビロンの地にとどまり、そこに住み、腰を据えて、神を熱心に尋ね求め、神のみおしえ(トーラー)を喜びとして、昼も夜もそのおしえを口ずさむ新しい生き方をすることで、神が与える「将来と希望」を尋ね求めるようになるというのが神の意図することであったのです。本当の「将来と希望」を知ること、それが「誠実を養う」という真の意味なのです。これは同時に「御国の福音」を正しく知ることでもあります。

(2) 土を盛り上げて、道を整えよ

●このことは、イザヤ書57章14節の「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け」にもつながる話なのです。原文は「ソーッルー(סֹלּוּ)・ソーッルー(סֹלּוּ)・パッヌー(פַּנּוּ)・ダーレフ(דָרֶךְ)」で、直訳すると「あなたがたは盛り上げよ。あなたがたは盛り上げよ。あなたがたは整えよ。道を」です。「盛り上げる」のヘブル語は「サーラル」(סָלַל)で「土を積み上げて、新たな道を整える」ことを意味します。これはバビロンからの帰還には当てはまりません。これは終わりの日に、王なるメシアを迎える新たな道を整えることを意味します。つまり究極的な救いという次元から呼びかけられているのです。その上で、「わたしの民の道から、つまずきを取り除け」の「つまずきを取り除く」とは、王なるメシアを迎える新たな道を整えることにおいて、障害となる道を取り除くという意味です。具体的には、置換神学的な解釈であり、自己中心的な解釈=偶像礼拝となる解釈を取り除くことです。道を「整える」と訳された「パーナー」(פָּנָה) も、神に「向かう、振り向く」ことを意味し、それは霊による悔い改めを預言しています。このこともバビロンからの帰還には当てはまりません。この14節の命令は、1~13a節の歴史的事実を越えた神の救いのご計画をコンデンス(要約)した神のことばなのです。神の命令は、それを実現させる霊が与えられることで成就します。旧約のほとんどの命令は、このことが隠されて語られているのです。イェシュアが人となって来られ、洗礼と、そして受難と死と復活と顕現によって御父から与えられる聖霊、すなわち「いのちを与える霊(いのちを創り出す霊)」によって可能なのです。エックレーシアの場合は、すでに包括的に与えられていますが、イスラエルの場合はいまだそれに与ってはいないのです。しかしそれは必ず「イスラエルの残りの者」において実現するのです。

(3) 「なぜなら」

●14節の神の命令は、15節においてその理由が示されています。訳語では訳されていないので分かりませんが、15節と16節の文頭には、いずれも理由「なぜなら」を示す「キー」(כִּי)が置かれています。

【新改訳2017】イザヤ書57章15~16節
15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。
16 わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息が。

●15節の「いと高くあがめられ」「永遠の住まいに住み」「その名が聖である方」という表現は、それぞれ神の至高性、神の永遠性、神の本性を示すことばです。この中で最も重要なのは、その名が「聖である」(קָדוֹשׁ)ということばです。後半の「高く聖なる所に住み」の「聖なる」も同じく形容詞の「カードーシュ」(קָדוֹשׁ)が強調されています。「カードーシュ」とは、この世の見えるものも見えないものも、被造物とは明確に区別された存在であることを意味する語彙です。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ」(イザヤ55:8)も、同じ「聖である」ことを表すことばです。イザヤ書においてこの語彙は重要です。なぜなら、137回中38回で、イザヤ書が最も多く使われています。さらに1~39章で19回、40~66章でも19回と均等に使用されています。ちなみに詩篇15回、レビ記20回です。以下は、名詞「コーデシュ」(קֹדֶשׁ/470回)の初出箇所です。

【新改訳2017】出エジプト記3章1~5節
1 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
2 すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
4 主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。
5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」

●「あなたの立っている場所は聖なる地である」の「聖なる地」(アドゥマット・コーデシュ:אַדְמַת־קֹדֶשׁ)こそ、特別な地、区別された地です。だれもそこに近づくことのできない地なのです。モーセがそこに近づくためには、「履き物を脱ぐ」必要がありました。「履き物を脱ぐ」とはどういう意味でしょうか。これは死を通ることを意味します。なぜなら荒野で履き物(サンダル)を脱ぐことは、歩くことができないばかりか、羊飼いが羊を飼うことも出来ません。羊飼いにとっていのちに等しい靴を脱ぐということは、死を意味するのです。死をもってでなければ、聖なる方に近づくことは出来ないということです。これが「聖の概念」です。今、私たちが神に近づくことができるのは、唯一、イェシュアの代償的贖いがあるからなのです。

●その聖なる方が、「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む」とあります。この「砕かれた人、へりくだった人」 (単数)こそ、この世でただ一人、人となられたイェシュアです。神がこのイェシュアを高く聖なる所にともに住まわせたこと、すなわち、受肉・苦難・死・復活・昇天・着座が、後半の「へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすため」に必要なことだったのです。この箇所を原文で見てみましょう。訳文と原文のニュアンスが少し異なります。

画像の説明

●原文直訳は「打ち砕かれた者(単数)、へりくだった人(単数)の霊とともに(わたしは住む)、へりくだった人たち(複数)の霊と砕かれた者たち(複数)の心を生き返らせるために」となります。最初の単数で表される「打ち砕かれた者」と「へりくだった人」の霊はイェシュアのこと。後半の。「へりくだった人たち(複数)」と「砕かれた者たち(複数)」とはイェシュアを信じる者たちのことです。彼らの霊と心を生き返らせることで、彼らも神とイェシュアとともに住むことができるように神がなしてくださったのです。

【新改訳2017】イザヤ書57章16節
わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息が。

●さらに、16節にもう一つの理由を示す「キー」(כִּי)があります。強い否定辞「ロー」(לֹא)を伴いながら、「永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない」のは、神から出た霊、つまり神が造ったいのちの霊(創世記2:7)が「衰え果てる」(アーラフ:עָלַף)からだとしています。イェシュアがガリラヤに住む群衆を見て、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」彼らを深くあわれまれたとありますが、「倒れている」が「衰え果てる」(アーラフ: עָלַף)という意味であり、悲惨な状態を描写しています。動物の中で羊ほど傷つきやすく、迷いやすいものはいません。羊は飼い主なくしては一日とて生きてはいけません。そのような状態にある民衆に対して、イェシュアは深いあわれみを示されたのです。理解を越えた神のはかりごととは、神の至高性、永遠性、本性といった絶対的超越性を保持しながらも、最も低い者と共に住むというパラドックス(逆説)です。このパラドックスを成立させているのが、主のしもべ(イェシュア)の代償的贖いなのです。

(4)「それでも」の破格の恵み

【新改訳2017】イザヤ書57章17~21節
17 の不正な利得の咎のために、わたしは怒った。わたしは顔を隠して彼を打ち、そして怒った。しかしはなお背いて、自分の思う道を行った。
18 の道を見たが、それでもわたしはを癒やす。わたしはを導いて、とその嘆き悲しむ者たちに、慰めを報いる
19 わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれわたしはを癒やす。──主は言われる──
20 しかし、悪しき者は荒れ狂う海のようだ。まことに、それは鎮まることができず、その水は海草と泥を吐き出す。
21 悪しき者には平安がない。──私(=イザヤ)の神はそう仰せられる。」

●再び、新たな人称が登場します。17~19節にある「彼」とは一体誰を指し示しているのでしょうか。「悪しき者」でないのは明白です。「彼」は神によって「癒やされる者」です。「癒やされる」とは「罪が赦される」ことと同義です。19節の「遠くの者にも近くの者にも」の「遠くの者」とはイスラエルに接ぎ木される異邦人のことであり、「近くの者」とはイスラエルの民です(エペソ2:17参照)。ここまで考えてくると、彼とは「イスラエルの残りの者」に絞られてきますが、問題は、「イスラエルの残りの者」(シェエーリート:שְׁאֵרִית)、あるいは「逃れの者」(ペレーター:פְּלֵיטָה)にしても女性名詞であることです。ここでの彼は男性名詞単数です。どう考えれば良いのでしょうか。もしそれを「イスラエルの子孫」(ゼラ・イスラーエール:זֶרַע יִשְׂרָאֵל)とするなら解決します。すなわち「」とは救われるべき「イスラエルの子孫」(イザヤ45:25)と見なします。

●17節の「」を、神は「不正な利得の咎」(=むさぼりの罪)のゆえに怒ります。しかし彼は「なお背いて、自分の思う道を行った」とあります。神はそのような「彼の道を見た」にもかかわらず、「それでもわたしは彼を癒やす」と宣言されるのです。「それでも」と訳された接続詞「ヴェ」(וְ)は、恩寵による逆接の接続詞です。「慰め」も「平安」も「癒やし」も本来はあり得ない破格の恩寵を注がれる者もいれば、神に逆らう「悪しき者たち」は荒れ狂う海のように、絶対に平安は与えられません。イスラエルの子孫でありながら破格の恩寵を受ける者がいる一方で、それに与れない者もいるのです。その区別は神の絶対的主権にあります。その意味において、「その名が聖である方が仰せられる」と言えるのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2026.7.5
a:18 t:3 y:3
 

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