****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「わたしのしもべ」(Ⅰ)

12. 「わたしのしもべ」(Ⅰ)

【聖書箇所】イザヤ書42章1~13節、18~21節

ベレーシート

●旧約において、主のしもべを「わたしのしもべ」(アヴディー:עַבְדִּי)とするフレーズが73回登場します。そのうち19回がイザヤ書の中にあります。個人を指すものもあれば、共同体を指すものもあります。以下がそれです。

A. 個人のしもべ
①イザヤ(20:3)、②エルヤキム(22:20)、③ダビデ(37:35)、④メシア(42:1/49:6/52:13~53:12)
●神は、イスラエルの民をバビロンから解放するペルシアの王キュロスを「油注がれた者」(45:1)としていますが、「わたしのしもべ」とは語っていません。最も重要なのは、メシアなるイェシュアです。

B. 団体のしもべ
①イスラエルの民(=ヤコブ、アブラハムの末裔/ 42:19,43:10,44:1,2,21,45:4) 
②イスラエルの残りの者(・・・/65:8~9, 13~14)
●イスラエルの残りの者によって救いに導かれるすべての国々の人々は、やがては「神のしもべ」となりますが、イザヤ書ではしもべとは言われていません。

●今回は「個人のしもべ」から、42章1~7節で預言された「地にさばきを確立する主のしもべ」と5~7節で預言されている「主とイスラエルが結んだ契約を確かにし、国々の光とする主のしもべ」、最後に「団体のしもべ」から、10~13節で預言されている「新しい歌を主に向かって歌え」と呼びかけられているしもべです。

1.地にさばきを確立する「わたしのしもべ」

【新改訳2017】イザヤ書42章1~4節
1「見よ(הֵן)。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ(רָצָה)、わたしの選んだ(בָּחַר)者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々(גּוֹיִם)にさばき(מִשְׁפָּט)を行う(יָצָא)。
2 彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。
3 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、
真実をもってさばき(מִשְׁפָּט)を執り行う(יָצָא)。
4 衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する(שִׂים)。島々(אִיִּים)もそのおしえを待ち望む(יָחַל)。」

●第一の「主のしもべ」(42:1~4)の特徴は、この地に「さばき」を「執り行う」「確立する」しもべです。「さばき」(ミシュパート:מִשְׁפָּט)ということばがこの短い箇所の中に3回(1, 3, 4節)も使われています。新改訳改訂第三版、岩波訳、関根訳では「公義」と訳しています。口語訳は「」、新共同訳は「裁き」、中澤訳は「定め」、フランシスコ会訳では「正しい法」、バルバロ訳は「公正」、ATD訳では「判決」と訳しています。それぞれ異なる訳語が用いられていますが、原語は「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)で、多様な意味合いがあることを示唆しています。しかしこの「ミシュパート」は神の統治概念を統括する語彙です。この統治が地に実現・成就されるのは、イェシュアが王として再臨されてからのことです。

●「ミシュパート」の概念および理念のすべては、すでに「トーラー」(תּוֹרָה)の中に語られているのですが、それが正しく理解されていないのです。なぜなら神の霊が注がれていないからです。主のしもべの務めは、この神の「トーラー」を正しく解き明かすことです。4節は同義的パラレリズムであり「さばき」と「おしえ」は同義、1節の「国々」(ゴーイム:גּוֹיִם)と4節の「島々」(イッイーム:אִיִּים)も同義です。「さばき」と「おしえ」が「国々」と「島々」にももたらされるのですが、そのためには終わりの日に「イスラエルの残りの者」が立ち上がって来なければなりません。この「イスラエルの残りの者」の出現が待ち望まれているのです。

【新改訳2017】イザヤ書42章18~21節
18 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。
19 わたしのしもべほど目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。わたしが送る使者ほど耳の聞こえない者が、ほかにいるだろうか。わたしと和解した者のような目の見えない者、主のしもべのような目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。
20 あなたは多くを見ながら、心を留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない。」
21 主はご自分の義のために望まれた。みおしえを広め、これを輝かすことを。

●イザヤ書1章3節でも「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」とあったように、ここでも「わたしのしもべほど目の見えない者が、だれかほかにいるだろうか。・・・耳の聞こえない者が、ほかにいるだろうか」と反語的に問いかけています。それは皮肉と言うよりは、主にとって悲しみのことばです。19節の「主のしもべ」は「罪深いイスラエルの民」であり、「耳の聞こえない者たち」「目の見えない者たち」です。しかし、主は「ご自分の義のために」、この民がみおしえを広め(ガーダル:גָּדַל)、かつ輝かす(偉大な者とする/アーダル:אָדַר)ことを望まれた(=喜んだ/ハーフェーツ:חָפֵץ)のです。動詞「ハーフェーツ」は預言的完了形です。ですから、必ずそうなるのです。やがてイスラエルの民は霊によってみおしえを「聞く」(シャーマ:שָׁמַע)ようになり、主の偉大なみわざを「目を凝らして見る」(ナーヴァト:נָבַט)ことになるのです。

●イスラエルの民が「耳の聞こえない者」「目の見えない者」であることは重層的です。それはイザヤの時代だけではなく、二千年前のイェシュアの初臨の時にも、そして今もなおそうです。しかし、やがて終わりの日に耳は開かれ、目も開かれます。そのような民こそ「イスラエルの残りの者」なのです。その彼らが「みおしえを広め、これを輝かす」ことで、数えきれない大勢の異邦人が救いに導かれるのですが、21節の「主はご自分の義のために望まれた。みおしえを広め、これを輝かすことを」は、まさにそのことを預言しているのです。

●ここで時を戻して、42章1節の「見よ(הֵן)。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者」に目を向けましょう。前回にも触れましたが、「見よ」の「ヘーン」(הֵן)は、後述されている事柄を強調しています。ですから、ここでの「見よ」は「わたしのしもべ」であるメシアに焦点が当てられています。「わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う」のです。彼であるメシアはイスラエルの民だけでなく、「国々(גּוֹיִם)にさばき(מִשְׁפָּט)を行う(יָצָא)」とあります。神は常にイスラエル・ファーストであり、イスラエルを通して異邦人をも「ミシュパート」されるのです。今日の状況(世界から嫌われ、敵視されているユダヤ人)からすると考えられないことですが、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」というアブラハム契約は、ぶれることのない神の確かなご計画なのです。

●そのために、「わたしのしもべ」であるメシアは「叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。」(42:2~3)必要がありました。これは預言的です。イェシュアが来られないとこの意味は理解できません。メシアの務めは「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」とあります。しばしば3節のみが取り出され、イェシュアの弱い者に対する優しさ、謙遜を表すフレーズとして説明されることがあります。そのこと自体は決して間違ってはいません。確かにそのような福祉理念がトーラーの中に記されています。しかし、ここでの真意は「主のしもべ(=メシア)によるトーラーの回復」が語られているのです。なぜなら、神の教えが変質してしまっている状況があるからです。

●この箇所はそのままマタイの福音書に引用されています。

画像の説明

●イザヤ書42章3節(マタイ12:20)の「葦」はヘブル語の「カーネ」(קָנֶה)、LXX訳は「カラモス」(κάλαμος)が使われています。しかし意味としてはギリシア語の「カノーン」(κανων)です。なぜなら「カノーン」の原義が「葦」(カーネ:קָנֶה)だからです。これは真っ直ぐに⽴つ葦のように「物差し、尺度、法則、原理、基準」を表す⾔葉です。ちなみに、聖書の「正典」を「カノン」と⾔います。したがってイザヤ書の「傷んだ葦を折ることもなく」とは、傷んでしまった神の律法(トーラー)を再び真っ直ぐに⽴たせること、回復させることなのです。「灯芯」も詩篇119篇105節では、神のみことばや神の律法を意味しています。ですから「くすぶる灯芯を消すこともなく」とは、消えかけている神の律法を、しもべなるメシアが再び燃え⽴たせることを意味するのです。それゆえイェシュアの「わたしが律法や預⾔者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」(マタイ5:17)ということばは真実です。これはトーラーの誤った解釈を矯正し正すためですが、実は肝心なことが隠されています。その肝心なこととは「霊」の回復です。

●当時の宗教指導者たちは神の教えを「613」の戒めにまとめ、それを守ることで神の祝福を受け、メシアによって異邦の国の支配から解放されると教えていました。これがユダヤ教です。613の戒めを定め、それを守ることは、ユダヤの人々に「疲れと重荷を負わせる」(マタイ11:28)ことでしかなかったのです。それを守れば神の祝福があり、守らなければ神にのろわれるという「罪定めの教え」としてしまったのです。使徒パウロはこのユダヤ教の教えを「罪と死の律法」と呼んでいます。これは、食べるべきすべての木から「善悪の知識の木」だけを取って食べたことに起因しています。以下のことばも預言的です。イェシュアが来られないと理解できないことを意味しています。

【新改訳2017】創世記2章16~17節
16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

●最初の人が蛇にだまされ、善悪の知識の木の実だけを取って食べたことで、霊が機能不全を起こし、神とのかかわりが死んだのです。その結果、人は神の語ることばを正しく理解することができなくなり、齟齬が生じるようになってしまいました(創3章前半)。イェシュアとニコデモの会話を思い浮かべるとそれがよく分かります。霊が回復しなければ、神にあるすべての祝福がもたらされることはあり得ないのです。人が霊によって生きることが可能となるために、イェシュアは死と復活を経て「いのちを与える霊」となる必要があったのです。ですから「彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない」のです。叫んだり、言い争ったりしても、人がその霊を得ることはできないと知っていたからです。

2. 主と民との契約を確かにし、国々の光とする「わたしのしもべ」

【新改訳2017】イザヤ書42章5~7節
5 天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主はこう言われる。
6 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。
あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。
7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。

●人称の同定が必要です。6節の「わたし」=「神なる主」=御父「あなた」=「わたしのしもべ」=メシア
「わたしのしもべ」であるメシアの召命の第一は「みことばの回復」すなわち「トーラーの回復」でした。その目的は4節「地にさばき(ミシュパート:מִשְׁפָּט)を確立する(スィーム:שִׂים)」ためです。ここでの「スィーム」(שִׂים)は期間限定ではなく、永遠につまりメシア王国において実現・成就します。どのようにして回復するのかは記されていません。しかし、それは「わたしのしもべ」が「いのちを与える霊」となり、って人の霊の中に入ることによってのみ可能となるのです(Ⅰコリント15:45)。そのことの預言が、このイザヤ書42章5~7節に記されています。

●神とイスラエルの民が結んだ契約―アブラハム契約、シナイ契約、モアブ契約、新しい契約―が成り立つためには、人の霊の回復が必然なのです。それゆえ「天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なる主」が語りかけています。その方が「あなた」であるメシアを、「民の契約」すなわち「神とイスラエルが結んだ契約を確かなものとする」者とし、「国々の光」すなわち「異邦人をもその祝福に接ぎ木させる」者とするのです。

●「民の契約」は「リヴェリート・アーム」(לִבְרִית עָם)で、ここでの「民」(アーム:עָמ)はイスラエルの民を指します。「国々の光」は「レオール・ゴーイム」(לְאוֹר גּוֹיִם)で、ここでの「国々」(ゴーイム: גּוֹיִם)は異邦人を指します。神は順序として、まずイスラエルの民に契約の祝福を施され、そのあとに「国々」である異邦人にその祝福を施されるのです。これが終わりの日において、「イスラエルの残りの者」が御国の福音を伝えることによって「だれも数えきれないほどの大勢の群衆」が救われることにつながるのです。これはまだ起こっていませんが、イザヤはこのことを今から2,700年前に預言していたのです。かくして、主のしもべなるメシア・イェシュアが「見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たち」を、つまりイスラエルと異邦人の双方を「獄屋から連れ出す」のです。これが神のご計画の大枠であり、エックレーシアはその神のご計画を告げ知らせるべく預言的務めを与えられているのです。

●御父(主)としもべメシア(あなた)の関係について、6節「主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り」とあります。「義をもって」(ヴェツェデク:בְצֶדֶק)とはどういう意味でしょうか。「義」は「ツェデク」(צֶדֶק)で「正しさ、正義」という意味ですが、倫理的な意味の「正しさ、正義」というよりも、本来的にはそれは「神と人とのかかわりの概念」を表す語彙です。ですから、主がしもべを「義をもって召した」とは、主がしもべを「愛と信頼をもって召した」と言い換えることができます。「召した」は「呼んだ」という動詞「カーラー」(קָרָא)です。「わたしはあなたを愛と信頼をもって呼んだ(=召し出した)」という意味になります。ちなみに新共同訳は「義をもって」を「恵みをもって」と訳しています。つまり、しもべに対する主の「愛と信頼」のかかわりを「恵みをもって」と解釈しているのです。しもべに対する主の愛と信頼のかかわりをどのように描いているかといえば、新改訳では「あなたの手を握る」「あなたを見守る」としていますが、原文では、以下のように三つのことばが記されています。

①「わたしは、あなたの手を握る(ハーザク:חָזַק」。
「ハーザク」は「強める」の意。
②「わたしはあなたを守り(ナーツァル:נָצַר)」。
「ナーツァル」は「見守る」の意。
③「わたしはあなたを立てた(ナータン:נָתַן)」。
「ナータン」は「与える・ゆだねる」の意。

●なんと麗しい信頼関係でしょうか。これらの麗しいかかわりは、主がそのしもべをして「民の契約」とし、「国々の光」とするためです。すでに述べたように、「民の契約」とするとは「契約を確かにする」という意味です。言葉遊びですが、「握る」(חָזַק)「守る」(נָצַר)「立てる」(נָתַן)のヘブル語の頭文字を取って言葉にすると、「ハーナン」(חָנַן)となります。これは「あわれむ」という意味であり、「主がしもべをあわれんでくださった」ということになります。そのしもべが「イスラエルの残りの者」に対し「恵みと嘆願の霊」(ルーアッハ・ヘーン・ヴェタハヌーニーム/רוּחַ חֵן וְתַחֲנוּנִים)という二重三重にもあわれみを注ぐことによって、彼らが御国の福音を語り大勢の異邦人が救われることで、「国々の光」となるのです。つまり異邦人にも「光」(オール:אוֹר)である神のご計画とみこころ、みむねと目的がもたらされるということです。このように、メシアである主のしもべは「囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す」のです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11章30~33節
30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
31 それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
32 神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
33 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

●30~31節の「あなたがた」はエックレーシアで、「彼ら」とはユダヤ人です。32節の「すべての人」とはその双方(ユダヤ人と異邦人)を含んでいます。「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです」とあります。30~31節には名詞の「あわれみ」が、32節には動詞の「あわれむ」が使われていますが、「あわれむ」を表すヘブル語の「ラーハム」(רָחַם)と「ハーナン」(חָנַן)は同義です。「闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す」ことの動機は、この「あわれみ」なのです。

3. 新しい歌を主に向かって歌え

【新改訳2017】イザヤ書42章10~13節
10 新しい歌を主に歌え。その栄誉を、地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。
11 荒野とその町々、ケダル人が住む村々よ、声をあげよ。セラに住む者たちは喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。
12 主に栄光を帰せよ。島々にその栄誉を告げ知らせよ。
13 主は勇士のように出で立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって力を見せつける。

●「新しい歌」とは何でしょうか。「新しい」のヘブル語は「ハーダーシュ」(חָדָשׁ)です。これは「王」と関連があります。初出のエジプト記1章8節には「やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった」とあります。これを契機としてエジプトでのイスラエルの民の苦しみが始まるのです。つまり、王によって状況が一変してしまうということです。とすれば、新しい王として再臨されるメシアに対して「新しい歌を王である主に向かって歌う」ことはふさわしいことです。

●イザヤ書42章10~13節にメシア王国での賛美の用語がまとまっているのは珍しいことです。ここでは、イスラエルの残りの者に対してというよりも、異邦人に対して、「新しい歌」を主に向かって歌う(賛美する)ことが呼びかけられています。なぜなら「キリストによって新創造されている」からです。「新しい歌を主に向かって歌え」と命じられるのは、神ご自身が私たちの内に絶えず新しいことをなそうとされているからです。

① 歌え「シール」(שִׁיר) 10節
② 声をあげよ「ナーサー」(נָשָׂא) 11節
③ 喜び歌え「ラーナン」(רָנַן) 11節
④ 声高らかに叫べ「ツァーヴァハ」(צָוַח) 11節
⑤ 告げ知らせよ「ナーガド」(נָגַד)  12節
⑥ ときの声を上げる「ルーア」(רוּעַ) 13節
⑦ 叫ぶ「ツァーラハ」(צָרַח) 13節

画像の説明

●このように、メシア王国はメシアに贖われた者たちによる爆発的な喜びが湧き上がるところです。そこで栄光を受けるべきお方はただ一人「主のしもべ」なるお方です。

【新改訳2017】詩篇81篇1~4節
1 喜び歌え 私たちの力なる神に。喜び叫べ ヤコブの神に。
2 ほめ歌を歌い タンバリンを打ち鳴らせ。麗しい音色の竪琴を 琴に合わせてかき鳴らせ。
3 新月と満月に 角笛を吹き鳴らせ。 私たちの祭りの日に。
4 これは イスラエルのためのおきて ヤコブの神のための定めである。

●来週の日曜日の夜から八日間、アシュレークラスで、The 4th Celebrate Sukkoto が行われます。詩篇81篇は仮庵の祭りの詩篇で、賛美用語が溢れています。仮庵の祭りの基調は霊による「喜び」です。
1節「喜び歌え」(ラーナン:רָנַן) 「喜び叫べ」(ルーア:רוּעַ)
2節「ほめ歌を歌え」(ナーサー:נָשָׂא)「打ち鳴らせ」(ナータン: נָתַן)「かき鳴らせ」(ナータン:נָתַן)、
3節「吹き鳴らせ」(ターカ:תָקַע)

●仮庵の祭りは、単に過去になされた神の恵みを思い起こす日でなく、神の約束が成就する日の訪れを待ち望む預言的な祭りなのです。やがて「イスラエルの残りの者」も「異邦人」も、信仰(=霊)によって共感しつつ、ともに喜び歌う日が来るからです。

ベアハリート

●最後に、メシア王国の王座に着いておられる王なるメシアに対して、御国で唯一の祭りである仮庵祭で賛美する圧倒的な光景を味わって終わりたいと思います。(すべての国々の民=異邦人、私たち=イスラエルの残りの者)

【新改訳2017】詩篇47篇1~9節
1 すべての国々の民よ 手をたたけ
喜びの声をもって 神に大声で叫べ
2 まことに いと高き方主は恐るべき方。
全地を治める 大いなる王。
3 国々の民を私たちのもとに 
もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。
4 主は 私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。
主が愛されるヤコブの誉れを。セラ

5 神は上られる。喜びの叫びの中を。
主は行かれる。角笛の音の中を。
6 ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え
ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え
7 まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え
8 神は国々を統べ治めておられる。
神はその聖なる王座に着いておられる。
9 国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。
まことに地の盾(=支配する者)は神のもの。
神は大いにあがめられる方。


三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.9.28
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