****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「わたしのしもべ」(Ⅱ)

19. 「わたしのしもべ(Ⅱ)」

【聖書箇所】イザヤ書49章1~16節

ベレーシート

●イザヤ書には四つの「主のしもべの歌」があります。「第一のしもべの歌」(42:1~9)の特徴は、この地上に「さばき(公正)」(ミシュパート:מִשְׁפָּט)と「正義(義)」(ツェダーカー:צְדָקָה)を「打ち立てる」ことでした。どのようにしてそれを「打ち立てる」のかと言えば、神のトーラー、すなわち「みことば」を回復することによってです。そのために「今、神である主は、をその御霊とともに遣わされた」(48:16)ということが重要なのです。それでは「第二のしもべの歌」(49:1~6)の中に見られる「主のしもべ」の特徴とは何でしょうか。それは、イスラエルの回復と異邦人の救いをもたらす「主のしもべ」です。

 【新改訳2017】イザヤ書49章1~4節
1 島々よ、に聞け。遠い国々の民よ、耳を傾けよ。主は、生まれる前からを召し、母の胎内にいたときからの名を呼ばれた。
2 主はの口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、
を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中にを隠された。
3 そして、に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」
4 しかしは言った。「は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。それでも、の正しい訴えは主とともにあり、の報いはの神とともにある。」

●1~4節に登場する「」とはだれなのでしょうか。それは48章16節に記されていた「今、神である主は、私をその御霊とともに遣わされた」にある「」です。また、主から「あなたはわたしのしもべ」(49:3)と言われている存在です。ここでの「しもべ」は単数で、「イスラエルを代表する存在」、つまりイスラエルが果たすべき使命を踏み直されるメシア、すなわち神の御子イェシュアを示唆しています。

●1節には「島々よ、に聞け。遠い国々の民よ、耳を傾けよ。主は、生まれる前からを召し、母の胎内にいたときからの名を呼ばれた」とあります。「島々、遠い国々の民」とは明らかに異邦人を意味します。「私」である「主のしもべ」の使命について見る前に、「主と主のしもべ」の関係を見てみたいと思います。

1. 主との親しいかかわりの中に隠されたしもべ

【新改訳2017】イザヤ書49章2節
主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、
私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。

(1) 「剣」と「矢」が意味するもの

●2節はヘブル語特有のパラレリズム(同義的並行法)が用いられており、「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい」ということと「私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された」ということは同義です。とすれば、「主は私の口を鋭い剣のようにし」の「」(ヘレヴ: חֶרֶב)と「私を研ぎ澄まされた矢とし」の「」(ヘーツ: חֵץ)は、いずれも「神のことば」の比喩です。

●使徒パウロが「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペソ6:17)と書いていますが、そこに使われている「剣」(μάχαιρα)もヘブル語の「ヘレヴ」(חֶרֶב)です。またパウロは「悪い者が放つ火矢」(エペソ6:16)という表現を使っていますが、この「火矢」とは疑いや不信をもたらす意味で、「矢」はヘブル語の「ヘーツ」(חֵץ)で、今回の「矢」と同じ語彙です。その矢は敵を打ち破る神の「矢」です。詩篇64篇7節には「神が彼ら(悪者)に矢を射掛けられるので、彼らは不意に傷つきます」とあります。今回の第二の主のしもべの歌の中にある「研ぎ澄まされた矢」とは、まさに敵を打ち破る神のみことばなのです。「主のしもべ」は人となられた御子であり、主(御父)によって「鋭い」「研ぎ澄まされた」みことばをもった「しもべ」だということが分かります。

(2) 「剣」と「矢」は神のご計画の中で「隠される」

●主のしもべが、預言者としての務めを果たすための口から出る鋭い「剣」を持ち、神のみこころを成し遂げていくための「矢」となるために、主である御父は時が来るまでそれを隠されたのです。福音のことばは人を生かし、かつ殺します。それは、語る前に、与える前に、備えられる必要があるのです。御父はそのようにしてご自身の「しもべ」に対して十分な備えを与えられる方です。これが「御手の陰にかくまい」「矢筒の中に隠した」の意味です。

●「御手の陰に私をかくまい」の「かくまい」は「ハーヴァー」(חָבָא)の使役態、「矢筒の中に私を隠された」の「隠した」は「サータル」(סָתַר)の使役態です。いずれも、神との親密なかかわりにおける重要な語彙です。御子イェシュアは公生涯に入るまでの30年という期間を御父のうちに過ごされ、公生涯に入られたあとも御父のうちにとどまり続けました。その御子イェシュアが弟子たちに「わたしが御父にとどまっているように、あなたがたもわたしにとどまりなさい」と言われました。なぜなら、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないから」です(ヨハネ15:5)。御父は御子イェシュアの口が鋭い剣となるように、また研ぎ澄まされた矢となるように、「御手の陰にかくまい」、「矢筒の中に隠された」のです。このかかわりの秘義を与えられたしもべ、これが「第二のしもべ」の特徴です。

(3) いたずらに空しく自分の力を使い果たしたかのように見える主のしもべ

【新改訳2017】イザヤ書49章4節
しかし私は言った。「私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは主とともにあり、私の報いは私の神とともにある。」

●主のしもべは、イザヤとイェシュアを重層的に啓示しています。イザヤの働きも主のことばを語りながら、彼の働きは「無駄な骨折り」に終わったかのように見えます。イザヤの語るメッセージによって、捕囚前のユダの民を神に立ち返らせることは出来ませんでした。後に来られた御子イェシュアの働きも、ユダヤ人を民族的に神に立ち返らせることはできませんでした。彼の力はいたずらに空しく使い果たされたように見えます。「いたずらに」は「トーフー」(תֹהוּ)、初出箇所は創世記1章2節で「茫漠として」の意味で、イザヤの特愛用語です。一見、力を尽くしてなされたにもかかわらず、実を結ばなかったように見えます。ところが、「私の報いは私の神とともにある」とあるように、その働きは完全に報われ、神のご計画は完全に成し遂げられるのです。

2. 主のしもべの使命は「イスラエルの回復」と「異邦人の救い」

(1)【新改訳2017】イザヤ書49章5節

今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内でをご自分のしもべとして形造った方が言われる。は主の御目に重んじられ、の神はの力となられた。

●5節で重要な語彙は「帰らせる」(シューヴ:שׁוּב)と「集める」(アーサフ:אָסַף)です。これは単にバビロンからエルサレムに帰ることではなく、やがて終わりの日に神から離れているヤコブ(=イスラエルの残りの者)を、しもべである御子イェシュアが神に立ち返らせ、かつ集めることです。このことが6節に再度語られています。

(2)【新改訳2017】イザヤ書49章6節

主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

●6節で最も難しい箇所は「小さなことのためだけではない」と訳されている部分です。「小さなこと」とは「イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるということ」です。なぜこれが「小さなこと」なのでしょうか。「小さなこと」と訳された語彙は「軽い」という意味を持つ「カーラル」(קָלַל)の分詞受動態「ナーケール」(נָקֵל)です。新改訳は「小さなことのためだけではない」、口語訳「いとも軽い事である」、聖書協会共同訳「たやすいこと」、バルバロ訳「あまりにもささいなこと」、関根訳「ささいなこと」と訳しています。イスラエルの回復は決して軽いことではなく、むしろ神のご計画とみこころ、みむねと目的の心臓部です。それを「(それ)だけではない」としているのは、イスラエルの存在目的のゆえです。イスラエルの使命は「王なる祭司」として神を知ることだけではなく、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創12:3)というアブラハム契約が成就することです。つまりイスラエルの回復は異邦人の救いと密接なかかわりがあるということなのです。黙示録7章にはそのことが預言されています。14万4千人からなる「イスラエルの残りの者」が、イェシュアの宣べ伝えた「御国の福音」を宣べ伝えることで、「大勢の数えきれない異邦人」に救いをもたらすことになる。このことが、「イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」の意味です。イスラエルだけが回復するのではなく、それによって異邦人の救いがもたらされることが重要視されているのです。したがって、新改訳の「小さなことのためだけではない」がふさわしい訳だと言えます。このことはすでに預言されていました。どこに預言されていたかと言えば、創世記1章20~23節にある創造の第五日です。

20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
21 神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。
22 神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。
23 夕があり、朝があった。第五日。

●創造の第五日の一体どこに「イスラエル」と「異邦人」が、表されているのでしょうか。それは「翼のあるすべての鳥」と「水に群がりうごめくすべての生き物」にです。これらが神によって「創造された」(バーラー:בָּרָא)のです。「バーラー:בָּרָא」とは無から有を造ることではなく、「キリストによって新創造(再創造)する」ことです。彼らはいずれも「死からよみがえられた初穂であるキリストによって贖われた存在」であり、しかも神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられたのです。

●「水に群がりうごめくすべての生き物」がなぜ「異邦人」を表すのかと言えば、それはイェシュアが弟子として漁師を選んだことで分かります。それは彼らが「魚」と関係していたからです。聖書で「魚」が出て来る箇所と言えば、以下の箇所です。

①ルカ5章1~11節・・・・・・網が破れそうになるほどの大漁。人間を捕る漁師。
②ヨハネ21章3~11節・・・・153匹の大漁であった。153は「網」のゲマトリアです。
③マタイ13章47~50節・・・ 天の御国はあらゆる種類の魚を集める網(地引き網)のようなもの。
④エゼキエル47章1~10節・・御国での神殿のヴィジョン。死海は神殿から流れ出る水が入ると、そこの水が良くなり、非常に多くの魚が住むようになります。

●このように、「水に群がりうごめく生き物」とは神に贖われた異邦の民(異邦人)を象徴しています。

●もう一方の「翼のあるすべての鳥」がなぜ「イスラエル」(厳密には「イスラエルの残りの者」)を表すのでしょうか。
単に「鳥」ではなく「翼のある鳥」です。翼のある鳥の王者は「鷲」です。その初出箇所は以下にあります。

【新改訳2017】出エジプト記19章4, 6節
4『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』・・・

●「鷲の翼に乗せて」とは、イスラエルの民が「祭司」であるモーセとアロンの指導の下にエジプトから脱出し、シナイ山の麓までやって来たことを意味します。イスラエルがエジプトから救われたのは、彼らが「祭司の王国」となるためでした。すべての民族を祝福するという「王である祭司」の務めは、本来イスラエルの民に与えられた務めです。つまり、「翼のある鳥」は「イスラエルの残りの者」の象徴なのです。「神はそれらを祝福して、『生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ』と仰せられた」とあります。「それら」の対象は「イスラエルの残りの者」と「異邦人」です。これは預言的命令として、「終わりの日」に成就します。

第一の「生めよ」の祝福は「多くの子が与えられる」ことで、数的増加と同時に「実を結ぶ」という質的結実を意味します。第二の「増えよ」の祝福は「多くなる」という意味で、多くは「生めよ」と同時に用いられます。量だけでなく、質的に「大きく成長する、育てる」という成熟をも意味します。つまり神がそのように育ててくださるという祝福です。第三の「満ちよ」の祝福は神のご計画とみこころを「成し遂げる、完成する」という意味です。神が祝福してくださるならば、それらは、神によって成し遂げられ、完成されるのです。まさに「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ」(イザヤ46:10)とあるとおりです。

(3)【新改訳2017】イザヤ書49章7節

イスラエルを贖う方、その聖なる方、主は、人に蔑まれている者、国民に忌み嫌われている者に、支配者たちの奴隷に向かってこう言われる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。真実である主、あなたを選んだイスラエルの聖なる者のゆえに。」

●7節の原文は「主はこう言われる」となっており、御父がしもべである御子に対して語っています。「人に蔑まれている者、国民に忌み嫌われている者、支配者たちの奴隷」のように扱われる者はすべて単数であり、主のしもべであるイェシュアを示唆しています。事実、初臨のイェシュアはユダヤの民に蔑まれ、異邦人にも忌み嫌われ、支配者たちによって奴隷のように扱われます。しかし、彼が王として地上再臨される時には、「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す」ようになるのです。「立ち上がる」とはしもべである王なるメシアに対する尊敬を意味し、「ひれ伏す」とは服従を意味します。このように、第二の「主のしもべの歌」の特徴は、しもべの使命が「イスラエルの回復」と「異邦人の救い」であることが明らかにされているのです

(4)【新改訳2017】イザヤ書49章8節

主はこう言われる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる。

●8節も7節と同様、「主はこう言われる」(כֹּה אָמַר־יְהוָה)から始まっています。「こう」は「このように」とも訳される「コー」(כֹּה)です。その初出は「あなたの子孫は、このようになる」(創15:5)で、星の数のようになることを意味します。つまりこの語彙は「終わりの日」「見よ」「その日」と同じ終末的、預言的な副詞です。使徒パウロは「神は言われます。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。』見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)とイザヤ書を解釈して語りましたが、これは教会に対してです。しかし、それが終わりの日にイスラエルの残りの者に対してもなされるのです。「わたしは・・あなたを民の契約とし」とは、イェシュアが「新しい契約」(エレミヤ31:33)の仲介者であると同時に、実現者であることを意味します。

●さらに「国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる」ということばは、「ヨベルの年」(レビ25:8~17)の成就を意味します。「ヨベルの年」とは、神がご自身の民に与えたすべての賜物を本来の位置にリセット(回復、解放、自由)するという驚くべき規定です。すべて本来の姿に回復されるのです。これはまさに「エデンの園の回復」とも言えます。そのために御父は御子に「恵みの時に答え」、「救いの日に助ける」のです。それらはいずれも預言的完了形で記されていますから、確実にそうなるのです。ちなみに「恵みの時」とは「ベエート・ラーツォーン」(בְּעֵת רָצוֹן)、「救いの日」とは「ベヨーム・イェシューアー」(בְּיוֹם יְשׁוּעָה)と表記されます。それは神にとって最大限の喜びの時、最後の受け入れの時となるのです。

(5) 【新改訳2017】イザヤ書49章9~12節

9 わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘のいたるところが彼らの牧場となる。
10 彼らは飢えず、渇かず、炎熱も太陽も彼らを打たない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、湧き出る水のほとりに連れて行くからだ。
11 わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。
12 見よ。ある者は遠くから来る。見よ。ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」

●9節で、「捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』」と命じられていますが、イスラエルの民はそれができません。なぜなら彼らは「捕らわれている」からです。「闇の中にいる」からです。それはストイケイアであるユダヤ教から「出よ(出て来い)」(יָצָאの命令形、ツェーウー:צֵאוּ)ということであり、「姿を現せ」とは「あらわにされよ(目が開かれよ)」(גָּלָהの命令受動態、ヒッガールー:הִגָּלוּ)ということです。そのためには、「捕らわれ人に」、「闇の中にいる者に」、神の霊が与えられなければなりません。イザヤ書ではそのことが隠されています。預言者ゼカリヤは、彼らに「恵みと嘆願の霊」が注がれることを記しています(ゼカ12:10)。そのことによって「イスラエルの残りの者」が生まれるのです。それゆえ、「彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘のいたるところが彼らの牧場となる」とあります。「裸の丘」である牧草のないところで、羊の群れは羊飼いの下で養われるのです。その結果、「彼らは飢えず、渇かず、炎熱も太陽も彼らを打たない」ばかりか、「あわれむ者」(=羊飼い)が彼らを導き、「湧き出る水のほとりに連れて行く」のです。また11節では、主が「山々」という障害を取り除いて道とし、主の「大路を高くする」とは、民のたどる道が大路(=High Way)となるということです。主が「大路を高くする」ことで、離散の民が再び集められるのです。12節に「ある者は遠くから、ある者は北から西から、ある者はシニムの地から来る」とあります。北と西ということばがあるので、「遠く」とは東、「シニムの地」とは南すなわちエジプトと解することもできますが、詳細は不明です。いずれにしても、「見よ(ヒンネー:הִנֵּה)」、終わりの日に、主に贖われた者が世界の隅々から集まって来るというのは事実なのです。

●また離散の民だけでなく、「その日、エジプトからアッシリアへの大路ができ、アッシリア人はエジプトに、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人とともに主に仕える」(イザヤ19:23)ことが実現します。エジプト人とアッシリア人は「海の巨獣」(創1:21)にたとえられる反ユダヤ主義の人たちです。しかしそうした者たちの中からも主に仕える者が起こることが、「大路」(メシッラー:מְסִלָּה)ができることと関連して語られています。どこに集まって来るのかと言えば、シオンなるエルサレムです。このことが49章後半(14~26節)の内容です。後で簡単に触れますが、その前に「主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれる」のです。

3. メシア王国の基調は爆発的な「喜びと楽しみ」

【新改訳2017】イザヤ書49章13節
天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。

●「天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。・・」このフレーズは一体だれが語っているのでしょうか。これは「人称なき存在」の声です(イザヤ48:16)。詩篇の中にもそうした「人称なき存在」が語っている箇所が数多くあります。「人称なき存在」とは「御霊」のことです。メシア王国(千年王国)では、私たちの想像をはるかに越えた爆発的な「喜び」と「楽しさ」がもたらされます。その背後に主の「慰め」(ナーハム:נָחַם)と「あわれみ」(ラーハム:רָחַם)があるからです。そのため、天においても地においても、そして自然界も人間も・・すべてが変わります。神から与えられた賜物(能力、個性など)が開花するように、すべてが輝き出すのです。しかもそれらは一つのからだのように、あるいは一つの建物のように、すべてが無駄なく、愛によってしっかりと組み合わされます。教会の概念がそこで初めて完成、成就します。キリストの初臨の時にも大いなる喜びがあったことを、ルカはその福音書で記しています。この喜びは再臨の時にも起こります。「喜び」は重層的です。

①「イェシュアをあかしするバプテスマのヨハネの誕生の喜び」(1:14, 44)
②「マリアの喜びの賛歌」(1:47、第三版「喜びたたえます」) 
③「羊飼いたちに伝えられた喜びの知らせ」(2:10)
④「御子の任命式における御父の喜び」(3:22) 
⑤「名が天に書き記されていることの喜び」(10:20)
⑥「聖霊による喜び」(10:21) 
⑦「失われたものが見つかった喜び」(15:5~7, 9~10, 32)
⑧「復活のイェシュアとの出会いと約束の喜び」(24:52)

●これらに共通するのは、まさに神に愛される喜び、神に見出された喜びです。御国における光(啓示の光、悟りの光、愛の光)の種と同時に、喜びの種もすでに信じる者たちの心の中に蒔かれていますが、やがてそれらの種は芽吹き、大きな喜びの花を咲かせるのです。人知をはるかに越えるような「喜び」と「楽しみ」の世界を待ち望める者はなんと幸いでしょうか。ダビデもそのことを知って預言的に語っています。「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります」(詩篇16:11)。

4. シオンの回復(エルサレムの再建)

●49章の後半である14〜26節では、主が「あなた」と呼びかけているその対象は「しもべ」ではなく、「シオン」つまり「エルサレム」を意味します。シオンはエルサレムの雅名です。そこはやがて神の民イスラエルが帰還する場所であり、王なるメシアが世界を統治する場所です。シオンが「あなた」と擬人的に語られているのです。

(1)シオンの最初の問いかけと主の答え(14~23節)

●シオンにとって二つの問いかけのうち、最初の問いかけは「主は(シオン)を見捨てた。主はを忘れた」のではないかというものです。いずれも現実の悲劇を見て絶望するシオンに、主が力強い励ましを与えている箇所です。

①「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」

●「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」のではないかというシオンに対して、主は「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。・・たとえ、女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」(15節)と断言しています。女が自分の乳飲み子を忘れるということはあり得ない話ですが、仮にそういうことがあったとしても、主はシオンを忘れないどころか、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」(16節)と語っています。これは、主の手には再建されるシオンの青写真、新しいエルサレムの城壁の青写真が刻み込まれているのです。回復されるシオンに対する主のことばは、①「あなたの子どもたちは急いでやって来る」(17節) ②「彼らはみな集まって、あなたのところに来る」(18節) ③「住むには狭すぎるようになる」(19節)

②「見よ。わたしの旗を諸国の民に向かって揚げる。」

●「私は主に見捨てられた」とする問いかけに対する主の答えとして、22~23節にあるように、主が諸国の民、および敵であった者たちに、主の旗を掲げるようにして合図を送り、彼らによって、シオンの息子たちや娘たちがシオンに帰還するための援助がなされることが預言されています。その援助が具体的にどういうものかは書かれていませんが、そのようにさせるのは主ご自身です。このことによってシオンは「わたし(神)が主であることを知る」ようになるのです。ちなみに、「わたしの旗を諸国の民に向かって揚げる」の「わたしの旗」とはどういう意味でしょうか。同義的パラレリズムが使われているので、「旗を揚げる」ことと「主が手を上げる」ことは同義です。「わたしの旗」は「ニッスィー」(נִסִּי)で、かつてアマレクとの戦いで勝利したあとでモーセが祭壇を築いて、それに「アドナイ・ニシ」と名づけました(出17:15)が、それは「主はわが旗」という意味です。この「旗」は目に見える「旗」ではなく、また人が振れるような旗でもなく、神が敵を打ち破ることのできる主権的な力の現れです。

(2)シオンの第二の問いかけと主の答え(24~26節)

●シオンの第二の問いかけは、「奪われた物を勇士から取り戻せるだろうか。捕らわれた人を横暴な者から救い出せるだろうか」(24節)というものです。そのようなことは現実的に見て、到底不可能なことではないかという問いかけです。しかしこの問いかけに対する主の答えはこうです。主の訪れの時には、神に立ち返った者たちを溢れるばかりに祝福されますが、同時にシオンを虐げた者たち(異邦人の国々)に対しては、恐るべき怒りをもって復讐されるのです。

三一の神の霊が、私たちとともにおられます。

2026.1.18
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