****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「わたしのしもべ」(Ⅲ)

20. 「わたしのしもべ(Ⅲ)」

【聖書箇所】イザヤ書50章1~11節

ベレーシート

●イザヤ書には、四つの「主のしもべの歌」(①42:1~4、②49:1~9、 ③50:4~9、④52:13~53:12)があります。今回扱うのは、③です。

(1)「第一のしもべ」の特徴 

●イザヤ書42章1~4節の「第一のしもべ」は、「わたしが支えるわたしのしもべ」と表記されています。その特徴は、国々にさばき(ミシュパート:מִשְׁפָּט)をもたらすことです。すなわち、神の統治(支配)をこの地上にもたらすことです。どのようにしてその統治をもたらすかといえば、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」とあるように、みことばの回復によってです。

(2) 「第二のしもべ」の特徴  

●イザヤ書49章1~9節の「第二のしもべ」は、「あなたはわたしのしもべ」「あなたがわたしのしもべであるのは」と表記されています。その特徴は、みことばを回復するための武器として、口を鋭い剣のようにされ、また研ぎ澄まされた矢として、主の中に隠されるということです。 (福音書を見ると分かりますが、)時が来たとき、主のしもべであるイェシュアの語るみことばが剣のように、また、矢のように敵を射抜きました。それゆえ、だれ一人として彼に反論することができませんでした。なぜなら、しもべは御手の陰にかくまわれ、周到な備えの中に整えられていたからです。

(3) 「第三のしもべ」の特徴  

●「第三のしもべ」は50章4~9節に記されています。ここでは「しもべ」ということばが一切なく、代わりに「私」ということばが15回出てきます。50章全体(1~11節)には三つの人称による語りかけがあります。一つは、1~3節の「主」の語りかけ。もう一つは、4~9節の「私」という存在の語りかけ。さらにもう一つは、10~11節の「イザヤ」の語りかけです。50章で注目すべき所は10節で、イザヤが「あなたがたのうちで主を恐れ、主のしもべの声に聞き従うのはだれか」と述べているところです。それゆえ、50章はイザヤ書における「第三のしもべの歌」と呼ばれているのです。このしもべは「私」であり、「イェシュア」を示唆していることは言うまでもありません。そこに入る前に、前に置かれた1~3節のみことばが何を語っているのかを考えてみたいと思います。

1. イスラエルに対する神の詰問

【新改訳2017】イザヤ書50章1~3節
1 主はこう言われる。「わたしがあなたがたの母を追い出したという離縁状はどこにあるのか。わたしがあなたがたを売ったという、わたしの債権者とはだれなのか。
見よ(חֵן)。あなたがたは自分たちの咎のために売られ、自分たちの背きのために、母は追い出された(シャーラハ:שָׁלַח)のだ。
2 なぜ、わたしが来たときだれもいなかったのか。わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないというのか。
見よ(חֵן) 。わたしは叱って海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。
3 わたしは天を闇でおおい、粗布をその覆いとする。」

●50章1~3節では、主がイスラエルの民に対して詰問しています。主とイスラエルの関係は夫婦関係にたとえられています。1節の原文には「エー」(אֵי)という反語的疑問詞があり、「どこにあるのか、いやどこにもない」を意味します。「あなたがたの母」とはシオン(=エルサレム)のことで、「あなたがた」とはイスラエルの民を指します。「母」と「あなたがた」とはここでは同義です。神と、イスラエルおよび母は決して離婚していません。ですから、それを証明する離婚状(セーフェル・ケリートゥート:סֵפֶר כְּרִיתוּת)もないのです。離婚はしていませんが、別居状態にされたのです。つまり一時的に「分かたれた」、原語は「追い出された」を意味する「シャーラハ」(שָׁלַח)の強意完了形が使われています。初出は創世記3章23節で「神である主は、人をエデンの園から追い出し」で使われています。そこでは、人が本来与えられた「王なる祭司という務め」を回復するために、一時的にエデンの園から「追い出された(=遣わされた)」のです。決して見捨てられたのではなく、使命を与えられて遣わされている状態なのです。とはいえ、神は人を事実上「追放された」(ガーラシュ:גָּרַשׁ)のですが、「王なる祭司という務め」は継続されています。最初の人アダムはイスラエルと深い関係があるのです。

●次の「わたしがあなたがたを売ったという、わたしの債権者とはだれなのか」という詰問も、「ミー」(מִי)という反語的疑問詞を使って、「だれなのか、いやだれもいない」という意味です。人に債務(負債)がある場合、妻子を奴隷として売り渡すことが律法で許されていました(Ⅱ列王4:1)。イェシュアの「一万タラントの負債のある者」(マタイ18:23~25)のたとえ話の中にも、「彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた」とあります。そこでの債権者とは主君のことですが、イザヤ書の「わたし(神である主)があなたがた(シオンと民たち)を売ったという、わたしの債権者とはだれなのか」という問いについては、そのような「債権者」などいるはずがありません。つまり神が債務(借金)を払えないので、妻子であるシオン(母)とイスラエルの民(子)を売ってということはあり得ないからです。民の母が離婚されたように見える(=追い出されて、別居状態に見える)のは、その子であるイスラエルの民の(アーヴォーン:עָווֹן)と、背きの罪(ぺシャ:פֶּשַׁע)によるのです。そうかと言って、決して神は母も子も捨てられたのではありません。むしろ、イザヤ書49章14~17節にはこう記されています。

【新改訳2017】イザヤ書49章14~17節
14 しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
15 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。
16 見よ(חֵן)、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
17 あなたの子どもたちは急いでやって来る。あなたを破壊し、廃墟とした者たちは、あなたのところから出て行く。

●この箇所の「あなた」はシオンのことです。「たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」と語っています。しかも、「あなたの子どもたちは急いでやって来る」の「あなたの子どもたち」とは、終わりの日に立ち上げられる「イスラエルの残りの者」のことであり、彼らが世界各地から「急いでやって来る」ことを啓示しています。「急いでやって来る」を意味する動詞「マーハル」(מָהַר)は預言的完了形で記されており、それはやがて確実にそうなることを意味しています。また「あなたを破壊し、廃墟とした者たちは、あなたのところから出て行く」の「あなたを破壊し、廃墟とした者たち」とは、獣と呼ばれる反キリストの軍勢を啓示しています。

●ここでイザヤ書50章に戻って、2節に「なぜ、わたしが来たときだれもいなかったのか。わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか」とあります。これは預言的問いかけです。預言的とは、イェシュアが来ないと理解できないことを指しています。「わたしが来た」と「わたしが呼んだ」とはパラレリズムです。それはやがて「わたしが来た」、すなわち神である御子が時満ちて(初臨)、来て(בּוֹא)、呼んだ(קָרָא)のに、「なぜ、答える者がだれもいなかったのか」という問いかけを、反語的疑問詞の「マッドゥーア」(מַדּוּעַ)と二つの預言的完了形(בּוֹאקָרָא)で表しています。

●また、「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないというのか」も反語的疑問詞の「ハ」(הֲ)、正確には、「ハ・・ヴェイム」(וְאִם־・・הֲ)を使って、「・・ができないのか」「・・がないというのか」「そんなはずはない。決してあり得ない」ということを、二重三重の「反語的疑問詞」を使うことによって強調しているのです。「わたしの手が短くて贖うことができないのか。」の「短くて」の原文は「不定詞+完了形」構文で「あまりにも短すぎて」という意味です。これは無能力を表す象徴です。神の「手」はご自身のご計画を実現させる力です。つまり、御手は民を贖い、救い出し、解放する力なのです。2節の「わたしは叱って海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える」という表現は、出エジプトの出来事を想起させます。同時に、3節の「闇(新共同訳=喪服)と粗(あら)布(ぬの)」(カドゥルート・ヴェサク:קַדְרוּת וְשׂק)は、いずれも悲しみの象徴であり、それをもたらすことも神の力の現れなのです。そして、終わりの日にもたらされる未曾有の大患難からの救い出すこと(解放)こそ神の力の現れです。その中で、神はご自身の民をどこまでも救おうとされ、覆い、擁護される方なのです。それを表す存在として、主は「しもべ」(エヴェド:עֶבֶד)を立てられるのです。それが「第三のしもべ」なのです。

2. 朝ごとに、しもべの耳を開いてくださる主

●4~9節にある「第三のしもべ」の特徴は何でしょうか。結論的に言うなら、「耳を開かれた従順なしもべ」です。聖書のテキストを見ながら、主としもべのかかわりを観察してみましょう。

【新改訳2017】イザヤ書50章4~7節
4 神である主は、に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとにを呼び覚まし、の耳を呼び覚まして、が弟子として聞くようにされる。
5 神である主の耳を開いてくださった。は逆らわず、うしろに退きもせず、
6 打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、(の)顔を隠さなかった。
7 しかし、神である主を助けてくださる。それゆえ、は侮辱されることがない。それゆえ、は顔を火打石のようにして 自分が恥を見ないことを知っている。


※「神である主」は、普通にはיְהוָה אֱלֹהִיםと表記されます。これで「アドーナーイ・エローヒーム」と読みます(創2:4b)。ところが、50章4, 5, 7, 9節に4回出てくる「神である主」は、אַדֹנָי יְהוִהと表記されます。これも「アドーナーイ・エローヒーム」と読みます。読みは同じですが、ヘブル語表記が異なります。神聖四文字も微妙に違います。これが何を意味するのかは分かりませんが、「私」に対する懇意性、あるいは神の主権性を強調しているのかもしれません。
※4~7節だけでも、「」は9(10)回あります。この「私」こそ「主のしもべ」なるイェシュアを示唆しています。

(1)「弟子の舌」

●4節に「神である主は、私に弟子の舌を与え」とあります。ここでの「弟子」は複数形で「教えを受けた者たち」という意味です。「教える、学ぶ」という意味の動詞「ラーマド」(לָמַד)の形容詞「リンムド」(לִמֻּד)の複数形「リンムーディーム」(לִמּוּדִים)で、主によって「教えを受けた者たち」です。その者たちの「舌」は主の教えを語る器官であり、預言者的な務めをする者にとってきわめて重要なものです。そうした「舌」を、主がしもべなるイェシュアに与えるのです。「与える」は預言的完了形で、必ずそうなることを意味しています。

●イェシュアは「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません」(ルカ4:24)と言って、ご自分をエリヤやエリシャになぞらえ、自分は預言者だと公言しています。イスラエルの歴史において、アブラハムは神から「預言者」と言われていました(創20:7)。アブラハムはどのような意味において、神から「預言者」と言われたのでしょうか。その答えは申命記 34章10節にあります。そこには「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった」と記されています。つまり預言者とは、「主と顔と顔を合わせている者」のことです。そのモーセが民に「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる」(申命記18:15)と語っていますが、それはイェシュアのことです。顔と顔を合わせて、神との親しいかかわりを許されている者、それゆえに「隠された神の秘密を知っている者」、また「その秘密を人々に伝えるために、神から信頼に値すると認められた者」、これこそ預言者です。

(2)「疲れた者をことばで励ます」

●「疲れた者」つまり、何らかの重荷を担うことに疲れた者(単数)に対して、神のことばをもって励まし教えるのです。実際イェシュアは「すべて疲れた人(複)、重荷を負っている人(複)はわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)という招きのことばを語っています。一般的な重荷、精神的苦痛、肉体的苦しみではなく、ここでの「疲れた人」や「重荷を負っている人」とは、罪と死の律法によって縛られている人々を意味します。「罪と死の律法」とは「ユダヤ教の教え」のことです。そこから人々を解放する務めを果たすことができるように、主はご自身のしもべを「朝ごとに」「呼び覚まし」ます。

●「朝ごとに」は、原文では「バッボーケル」(בַּבֹּקֶר)を二回繰り返しています。それはヘブル語の強調修辞法で「朝に朝に、朝ごとに、来る日も来る日も」という意味です。そのようにして、主はしもべを「呼び覚まし」、しもべの耳を「呼び覚ます」(ウール: עוּרの未完了使役形)というように重ねられています。つまり「呼び覚ます」とは、「私が弟子として聞くようにされる」と訳されていますが、原文では「弟子たちのように聞くために」です。ちなみに、ここの「聞くため」の「聞く」は「シャーマ」(שָׁמַע)の不定詞です。5節に「主は私の耳を開いてくださった」とあります。ここでの「開く」という原語は「パータハ」(פָּתַח)で、「聞く」と「開かれる」は同義です。それは同時に「なぞを解き明かす」という意味もあります。そのために、4節にあるように、主は弟子のように、しもべが従順に「聞く」ために、朝ごとに「呼び覚まし」「耳を開いて」くださったのです。旧約聖書で「聞く」とは「従う」ことを意味します。ここには「従順用語」が畳みかけるようにして使われています。以上のように、「第三のしもべ」の特徴は、自発的な従順なしもべです。

(3)「耳を開かれる」ということ

●ちなみに、詩篇40篇6節に「あなたは私の耳を開いてくださいました」とあります。その意味は、8節では「わが神よ、私はあなたのみこころを行うことを喜びとします」と説明されています。「耳を開かれる」ことと「みこころを行うことを喜びとする」ことは同義です。ところで、ここで「耳を開く」と訳された「カーラー」(כָּרָה)は、旧約では15回、詩篇では6回(7:15/22:16/40:6/57:6/94:13/119:85)使われています。この動詞は「穴を掘る、穴をあける、刺し通す」という意味で、出エジプト記21章に記されています。それによれば、6年間、強制的に義務として仕えてきた奴隷が七年目に自由の身となるにもかかわらず、そのあとも、主人のもとで自発的に仕えたいと決心した場合は、主人がしもべの耳をきりで刺し通さなければなりませんでした。それは、奴隷にとって、主人に対する目に見える「愛のしるし」「従順のしるし」でした。そこから、しもべが「耳を開かれる」とは、主人がしもべの「からだ全体」を受け取ることを意味するようになりました。それゆえ、ヘブル人への手紙10章5節では「あなた(=御父)は、いけにえやささげ物を望まないで、わたし(=イェシュア)のために、からだを造ってくださいました。」(第三版)と引用されています。「耳を開く」ことが「からだを造る」こととして解釈されているのです。それは主のしもべイェシュアの「受肉」であり、そこには隠された深い意味があります。

●「からだ」は、神のみこころを行うために必要なものであること。また、主に対する愛と従順のあかしを立てるために不可欠なものだということです。これは人においても同様です。やがてメシア王国(千年王国)においても、その後の「新しい天と新しい地」においても、なぜ私たちが朽ちないからだを与えられるのかの答えがここにあります。御国では朽ちないからだを与えられることで、制限されることなく神に仕えることが可能となります。そのために「からだ」が不可欠なのです。ここにキリストの花嫁が「キリストのからだ」と呼ばれるヘブル的所以があるのです。

●再び、イザヤ書50章に戻ります。5節の「耳を開かれる」ということばは、第三の「しもべの歌」においては、神のみおしえを学ぶことを意味します。4節の「(主が)私が弟子として聞くようにされる」とあるように、メシアであるしもべが神の任務を全うするためには、しもべ自身がまず人として神の御声を十分に聞くようにされなければなりません。神のことばを人に教えるためには、教える者自身がまず学ばなくてはならないのです。耳が開かれることによって、神の教えについての知恵、洞察力、説得力が与えられます。学ぶ力と教える力を身に着けることを、聖書は「耳を開かれる」と表現するのです。「パータハ」(פָּתַח)の「開く」は、従順を意味する「カーラー」(כָּרָה)と同義語です。

3. 従順なしもべの苦難に対する不退転の決意

●「耳を開かれる」とは、神の御声を十分に聞くようにされるだけでなく、たとえ迫害や恥辱を受けたとしても、主を信頼して、喜んで従って行くことを意味します。決して後戻りは許されないのです。再度、イザヤ書50章5節以降を見てみましょう。

【新改訳2017】イザヤ書50章5~9節
5 神である主の耳を開いてくださった。は逆らわず、うしろに退きもせず、
6 打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。
7 しかし、神である主を助けてくださる。それゆえ、は侮辱されることがない。それゆえ、は顔を火打石のようにして 自分が恥を見ないことを知っている。
8 を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。
さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来るがよい。
9 見よ(חֵן)。神である主を助けてくださる。だれがを不義に定めるのか。
見よ(חֵן)。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす。


※「見よ」という語彙が、終わりのことに留意する「ヒンネー」(הִנֵּה)であるか、後ろに語られている言葉に留意する「ヘーン」(חֵן)であるかを知るため、ヘブル語を表記しています。

(1)「逆らわず、うしろに退きもせず」(5節)

●しもべは大胆に神のことばを伝えることで、迫害や恥辱を受けることが定められています。しかし主のしもべはそれらに躊躇することなく、完全に喜んで、不退転の決意をもって従って行きます。それは6節にも重ねられて語られています。「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった」(6節)は、主体的に、自発的に自ら進んで忍耐をもって苦難を受けるイェシュアの姿そのものです。「打つ」とは犯罪人に対する鞭打ちを意味します。「ひげを抜かれる」とはユダヤ人にとっては最大の屈辱を意味し、「唾を顔にかけられる」ことは、この上ない侮辱です。このような屈辱や侮辱はいかなる人間といえども甘受することは出来ません。しかしイェシュアはこれを自ら進んで受けられたのです。

(2)「主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱されることがない」(7節)

●なぜ「私は侮辱されることがない」と言えるのでしょうか。それは主が支え、助け、勝利を与えられるからです。それは「主が私を助けてくださる」のだということを、しもべが信頼しているからです。いかなる時にも主の助けがあるので、恥辱と屈辱の中にあっても、耐えることができるのです。「私は顔を火打石のようにして」の「火打石」とは最も堅い石を意味するところから、どんなことがあっても怯まない強い決意を表しています。「自分が恥を見ないということを知っている」とはどういうことでしょうか。「恥を見る」とは「ボーシュ」(בּוֹשׁ)でいのちが枯渇することを意味します。それがここでは明確に否定されています。つまり、いのちの源泉である御父につながっているので、決して枯渇することがないことを知っている、それゆえイェシュアは侮辱されることがないのです。

(3)「見よ。彼らはみな」(9節)

●「見よ。神である主が私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか。見よ。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす」(9節)。ここでは、主のしもべイェシュアの従順による勝利を宣言していると同時に、しもべの敵がみな滅び、捨てられることが「彼らは衣のように古び」と「シミが彼らを食い尽くす」でたとえられています。これが「第三のしもべ」の結論です。

4. 主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め

【新改訳2017】イザヤ書50章10~11節
10 あなたがたのうちで主を恐れ、主のしもべの声に聞き従うのはだれか。闇の中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。
11 見よ(חֵן)。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火の明かりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことは、わたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは苦悶の場所で伏し倒れる。

●10~11節は、50章全体の結論であり、イザヤが問いかけています。誰に問いかけているのでしょうか。「あなたがた(=イスラエルの民)のうちで主(=御父)を恐れ(畏れ)、主のしもべ(=イェシュア)の声に聞き従う」者とは一体誰か、それは終わりの日に立ち上げられる「イスラエルの残りの者」しかいません。主の御名に信頼し、神に拠り頼むようになるまでは、イスラエルの民は「闇の中を歩くのに光を持たない」者なのです。そのような者に、主のしもべがそうであったように、主に信頼し、主に拠り頼むことを語っているのです。

●11節は、主のしもべを信ぜず、悔い改めない者に対して警告しています。「あなたがたはみな、火をともし、燃えさし(=火矢)を身に帯びている」とあります。自分の火をともすことは、自分を信頼することです。闇の中を自分の火と燃えさしによって歩もうとすることは、必ず「苦悶の場所で伏し倒れる」つまり、さばきを受けることになる。そのことを「ハーイェター」(הָיְתָה)の完了形で表しています。

①【新改訳2017】ゼカリヤ書13章8~9節
8 全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」

②【新改訳2017】イザヤ書10章20~22節
20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。
21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
22 たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。


ベアハリート

●使徒パウロは、神のしもべであるイェシュアを、またメシア(キリスト)の謙遜と高挙をたたえています。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~11節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

●メシア(キリスト)は「必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入る」ということを、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを、失望していたエマオの途上の弟子たちに説き明かされました。イェシュアのうちに謙遜と従順の極みを見させられます。
そのことによって、イェシュアはすべての名にまさる名

画像の説明

すなわち、「イェシュアの御名」を与えられたのです。それは、天にあるもの、地にあるもの、地の下にある
すべての舌」が「イェシュア・ハンマーシーアッハは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためなのです。

三一の神の霊が、私たちとともにおられます。

2026.2.1
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