****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「わたしのしもべ」(Ⅳ-A)」

23. 「わたしのしもべ」(Ⅳ-A)」

【聖書箇所】イザヤ書52章13~15節, 53章1節

ベレーシート

●四つの「主のしもべの歌」の箇所および「歌い⼿」、そしてそれぞれの特徴のチャートを提⽰すると以下のようになります。内容が共通している部分もありますが、四つの歌を総合することではじめてイェシュアのご性質や働きの全貌が⾒えてきます。

画像の説明

●第四の「しもべの歌」は、それぞれ三節からなる五つの部分で構成されています。(1) 52章13~15節、(2)53章1~3節、(3) 53章4~6節、(4) 53章7~9節、(5) 53章10~12節。今回は(1)と、(2)の中の1節だけを取り上げます。(1)は、(2)~(5)の序説であり、かつ結論です。そして(2)の1節も53章の序文です。ですから今回は、53章のメシアによる代償的贖いの序説と序文を扱うこととなります。テキストは以下です。

【新改訳2017】イザヤ書52章13~15節
13 「見よ、わたしのしもべは栄える。は高められて上げられ、きわめて高くなる。
14 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、
その姿も人の子らとは違っていた。
15 そのように、多くの国々に血を振りまく。王たちの前で口をつぐむ。
彼らが告げられていないことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。」
【新改訳2017】イザヤ書53章1節
1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。

●メシアによる贖罪的受難(代償的受難)を最も鮮やかに預言している箇所と言えば、イザヤ書53章です。ここは、ユダヤ人のラビが避ける箇所でもあります。エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官の話が、使徒の働き8章に記されています。彼は礼拝のためにエルサレムに上って来て、帰る途中でした。馬車に乗りながら、彼はなんとイザヤ書53章を読み続けて(朗読し続けて)いたのです(未完了形、使徒8:28,32~33)。ということは、彼は離散したユダヤ人だった可能性があります。彼はこの箇所を契機として、イェシュアがメシアであると信じ、救われたということです。

【新改訳2017】使徒の働き8章29~39節
29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。
30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。
31 するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
32 彼が読んでいた聖書の箇所には、こうあった。「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている子羊のように、彼は口を開かない。
33 彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。彼の時代のことを、だれが語れるだろう。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
34 宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
35 ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた
36 道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
37 【本節欠如】
38 そして、馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
39 二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。

●特に重要な箇所は34~35節です。「ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか。それとも、だれかほかの人ですか」と。この問いに答える形で、ピリポは宦官にこの箇所から始めてイェシュアを伝えたとあります。ルカは単に宦官の質問に「答えた」とは記さずに、「伝えた」と記しています。この「伝えた」という動詞が「ユーアンゲリゾー」(εὐαγγελίζω)で、「イェシュアこそメシアであることを良き知らせとして伝えた」ことを意味します。

●この出来事をヘブル的・ユダヤ的視点から見るならば、驚くべきことが啓示されています。ピリポがエチオピアの宦官に出会ったことは決して偶然ではなく、神の必然的ご計画であったことが分かります。使徒の働き8章に登場する宦官はおそらく、かつてエチオピアに離散したユダヤ人のひとりと思われます。その国で出世して、女王のカンダケに仕えるために不本意に「宦官」とならざるを得なかった者です。申命記によれば、宦官は主の集会に出ることは禁じられていましたが、ピリポのイザヤ書の解き明かしによって、宦官はイェシュアを信じてバプテスマを受けました。つまりこの出来事は新しい時代が到来したことを物語っているのです。新しいメシアの時代には宦官も主の集会に加えられることが約束されているのです。伝道者ピリポは、その神の計画を担わされた人物として用いられたと言えます。エチオピアはキリスト教国となっていますが、その最初がここに登場した宦官であったのかも知れません。

●イザヤ書52章末尾にある三つの節(52:13~15)は、53章の序文として位置づけることができます。つまり53章で預言者イザヤが語る内容をコンパクトにまとめているということです。しかもその三つの節が「見よ」(ヒンネー:הִנֵּה)と、特別に注目させているのは「わたしのしもべ」、つまり「主のしもべ」です。まずその箇所を見てみましょう。

1. 第四の「主のしもべ」の序文(52:13~15)

【新改訳2017】イザヤ書52章13~15節
13 「見よ(הִנֵּה)、わたしのしもべは栄える。は高められて上げられ、きわめて高くなる。
14 多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。
15 そのように、は多くの国々に血を振りまく。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らが告げられていないことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。」

画像の説明

(1) 主のしもべの高挙

●52章13~15節で語っているのは「」ご自身です。13節の冒頭の「見よ」(ヒンネー:הִנֵּה)は、終わりのときを示す預言的常套句です。「わたしのしもべは栄える」の「わたし」とは「しもべ」(イェシュア)を遣わす存在である「御父」です。「しもべは栄える」は、しもべが御父から与えられた任務を果たし成功するという意味です。ここで「栄える」と訳された「サーハル: שָׂכַל」は、一言では訳し得ない内容を含んだ語彙です。「サーハル」は本来「成功する、戦果をあげる」という意味ですが、ヒフィル(使役)態「ヤスキール:יַשְׂכִּיל」で使われると、「賢くふるまう、賢く行動する、思慮がある、栄える」を意味します。「主のしもべ」は、与えられた任務を成し遂げるために「賢くふるまい」、そして「栄える」という意味になります。「彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」は「ヤールーム ヴェ二ッサー ヴェガーヴァハ メオード」
(יָרוּם וְנִשָּׂא וְגָבַהּ מְאֹד)は「栄える」と同義的パラレリズムです。ここには以下の三つの動詞が並置されています。
①「ルーム」(רוּם)「上げる、高める、高く上げる」の意。
②「ナーサー」(נָשָׂא)ニファル(受動)態で「上げられる、あがめられる」の意。
③「ガーヴァハ」(גָבַהּ)「高くなる」の意ですが、「非常に」の「メオード」(מְאֹד)が付け加えられています。

●これら三つの動詞は「栄える」を意味する類義語です。それらを並置することで、主のしもべが最高度の「高さ」に置かれたことが強調されています。ヘブル語には英語のような最上級を表す用語がないために、同じ語彙を重ねたり、あるいは類義語を重ねたりして意味を強調する修辞法を用います。

●主のしもべは、賢く行動することで、与えられた任務を成功させます。そのことで最高度に高挙されるのが13節の内容です。続く14~15節では、それとは反対の受難が語られています。「受難と高挙」は「死と復活」という神の甘い事柄の言い換え表現です。「死と復活」を拡大するなら、「死」は「受難・死・葬り」を含み、「復活」は「顕現・昇天・着座・高挙」を含むことができます。使徒パウロがピリピ教会に宛てた手紙の中に、当時の賛美歌を記しています。つまり神の甘い事柄がコンパクトにまとめられています。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~11節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、 
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
受難
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、 
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
高挙

●「受難」と「高挙」は対照的な出来事です。事柄の順としては「死と復活」ですが、イザヤ書52章13~15節ではその順序が逆になっています。まず「高挙」(13節)が強調され、その後に「受難」(14節)が示され、15節ではその理由が記されるという構成になっています。パウロはイェシュアの受難を謙遜の極みとして記していますが、イザヤ書の受難は、尋常ではない、おぞましいほどの驚きを人々にもたらすことが預言されています。

(2) 主のしもべの受難に対する「驚き」

【新改訳2017】イザヤ書52章14~15節
14 多くの者があなたを見て驚き恐れた(おののいた)ように(כַּאֲשֶׁר)、その顔だちは損なわれて人のよう(כֵּן־)ではなく、その姿も人の子らとは違っていた。
15 そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らが告げられていないことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。」

14節は「多くの者があなたを見て驚き恐れたように」とあります。「驚き恐れたように」の「ように」は「カアシェル: כַּאֲשֶׁר」で、「~のように」を意味する前置詞(כּ)と関係代名詞(אֲשֶׁר)で表されますが、それは15節で、その彼が「多くの国々に血を振りまく」ことで、「王たちは彼の前で口をつぐむ」ことになるという流れになっています。 

●「驚き恐れた」(シャーマム:שָׁמַםの3男複能動完了形)は「土地が荒れ果てる、干し上がる」を意味しますが、同時に「地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそれを見て唖然とする(色を失う、驚く、驚き恐れる)」(レビ26:32)ことを意味します。また「軽蔑や嫌悪感を持つ驚き」をも意味します。「驚き恐れた」が完了形であるのは、多くの人々が「やがて必ず見て驚き恐れることになる」ことを預言しているのです。それは、「主のしもべ」の顔が人とは思えないほどに損なわれてしまう「ぞっとするような」驚き、あるいは「おののき」を意味する動詞だからです。事実、主のしもべイェシュアの肉体は十字架上とその前に、ローマ軍の兵士によるリンチを受けます。イェシュアの肉体は、打撲傷、裂傷、刺傷、貫通傷、破裂という五種類の傷を受けます。映画などでは、イェシュアの顔はまだ見ることができますが、実際には、人の面影を失うほどの損傷を受けることが預言されています。おそらく顔だけでなく、肉体全体が膨れ上がり、人の肉体とは思えないほど「正常な容姿が損なわれてしまう」という意味で使われています。14節後半では「その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」とあり、人の顔だちとは思えない姿を「~のようではなく」を意味する副詞の「ケーン」(כֵּן־)で表しています。「損なわれて」は、「破壊する」を意味する「シャーハット:שָׁחַת」の名詞の連語「ミシュハット:מִשְׁחַת」で、破損、変形した醜さを意味します。

●「人のようではなく」と「人の子らとは違っていた」の表現は、あたかも異なっているかのように見えますが、いずれも同じ表記がなされています。「人のようではなく」は「メーイーシュ:מֵאִישׁ」、「人の子らとは違っていた」は「ミッベネー・アーダーム:מִבְּנֵי אָדָם」で「人の子らのようではなく」です。いずれも冒頭に前置詞「ミン」(מִן)の省略形がついた表記となっています。

●こうしたことの結果を、15節冒頭で「そのように」(ケーン:כֵּן־)」で表しています。その内容は否定的な「驚き」ではなく、「彼は多くの国々に血を振りまく。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らが告げられていないことを見、聞いたこともないことを悟るからだ」とあるように、肯定的な「驚き」で語っています。中澤洽樹訳は「いま彼は多くの国民を驚かせ、彼に対して王たちは口をつぐむ。いまだ語られなかったことを彼らは見、いまだ聞かれなかったことを悟るがゆえに」と訳しています。

●「血を振りまく」を中澤洽樹訳では「驚かせ」と訳しています。新改訳でも改訂三版までは「驚かす」と訳していましたが、2017版では「血を振りまく」と改訳されました。原文を見ると「ナーザー」(נָזָה)が使われており、意味は「振りかける、降りかかる」です。しかしLXX訳はこれを「サウマゾー:θαυμάζω」「驚かす」と訳しました。いずれにしても、主のしもべが「血を振りまく」ことが、前代未聞の「驚き」となることが強調されているように思われます。そのことで、「王たちは彼の前で口をつぐむ」のです。「王たち」とは国民の代表であり、「つぐむ」と訳された「カーファツ」(קָפַץ)は「閉じる」ですが、「口を閉じる」ことは「畏敬」を表すことになるのです。ヨブ記29章9~10節に「首長たちは話すのを控え、手を口に当てた。君主たちの声もひそまり、その舌は上あごについた」とあります。当時の首長たちや君主たちの口を閉じさせた(黙らせた)のは、ヨブが人々から尊敬されていたからです。しかし、主のしもべの「受難」と「高挙」の知らせは、誰とも比べることのできない、全く新しいものです。その恵みも並ぶものがない、比類なき知らせなのです。

2. 主への問いかけ

●第四の「しもべの歌」は、それぞれ三節からなる五つの部分で構成されていることを最初に述べました。次は第二の区分である53章1~3節ですが、今回は53章1節だけにとどめたいと思います。

【新改訳2017】イザヤ書53章1節
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。

(1) 主の御腕はだれに現れたか

●第一区分(52:13~15)では主ご自身がしもべについて語っていましたが、第二区分(53:1~3)では預言者イザヤが主のしもべについて語っています。その最初のことばが「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか」というものです。1節の「私たち」とはだれのことでしょうか。それは少なくとも、52章13~15節の主のことばを聞いて信じた者と言えます。「私たち」とは、この「告げられていないことを見」「聞いたこともないことを悟る者たち」なのです。しかし、「心を頑なにする」メッセージを語るようにと召されたイザヤ自身が、主のしもべの「高挙と受難」という神の甘い事柄を、しかもこの格差の激しい、驚くような出来事をどれほどの人が信じるだろうか、信じる者はきわめて少ないのだということを暗に語っていると思われます。

●新約のヨハネもパウロも、イザヤ書53章1節を読んでいたことが分かります。なぜなら、イザヤのことばが引用されているからです。それは以下の通りです。 

①【新改訳2017】ヨハネの福音書12章37節~38節
37 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
38 それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

②【新改訳2017】ローマ人への手紙10章16~17節
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。
17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

●上記の二つの箇所(ヨハネ12:37~38、ローマ10:16~17)は、主のしもべであるメシアの奇跡を通して、主の御腕が現されたにもかかわらず、それが拒絶され、蔑まれ、その啓示も退けられるという文脈の中で引用されています。ちなみに、53章1節は同義的パラレリズムで書かれています。つまり「信じる」ことと「主の御腕が現れる」ことは同義なのです。イザヤの時代の人々の心が頑なであったように、イェシュアの時代の人々も、初代教会の時代でも同様に、ユダヤ人が心頑なになることが示唆されています。同様の問い掛けは、歴史の中で繰り返し語られてきました。預言者エリヤがイスラエルを神に訴えたときに神が告げられたことば(Ⅰ列19:18)を、パウロは次のように引用しています。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである」。そして彼は続けて「同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たち(シェエーリート:שְׁאֵרִית)がいます」(ローマ11:5)と述べています。このことはイザヤの召命の時にも語られていました。

【新改訳2017】イザヤ書6章9~13節
9 すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」
11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。
12 主が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。
13 そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株(マツェヴェット:מַצֶבֶת)こそ、聖なる裔。」

●「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる」という預言は、バビロン捕囚を想起させます。また「そこには、なお十分の一が残る」はバビロンから帰還する者がいることを想起させます。しかしやがては「それさえも焼き払われる」とは、終わりの日に神の民にふりかかる未曾有の苦難(大患難)を意味します。テレビンや樫の木のように大きな木が切り倒されて焼き払われるとは、神の民(ユダヤ人)の多くが滅びるが、その中に「切り株」(マツェヴェット:מַצֶבֶת)すなわち「聖なる裔(すえ)」(ゼラ・コーデシュ:זֶרַע קֹדֶשׁ)が残るのです。それが「イスラエルの残りの者」なのです。その時まで、神の民であるイスラエルの心は頑ななままだということです。パウロがイザヤ書6章10節を引用して「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いているとおりです(ローマ11:8)。しかし、こうした預言は「モアブ契約」の中にすでに語られていたのです。

【新改訳2017】申命記29章2~4節
2 ・・・あなたがたは、エジプトの地で、ファラオとそのすべての家臣たちとその全土に対して、主があなたがたの目の前でなさったことをことごとく見た。
3 すなわち、あなたが自分の目で見たあの大きな試み、あの大きなしるしと不思議である。
4 しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに悟る心と見る目と聞く耳を与えられなかった

●4節の「今日に至るまで」(アド・ハッヨーム:עַד הַיּוֹם)は預言的です。イスラエルの民に悟る心と見る目と聞く耳が与えられるのは、実に終わりの日なのです。彼らはその日まで頑なにされることが預言されているのです。

(2) イスラエルの歴史の時計は止まったままである

●ユダヤ人がメシアであるイェシュアを殺した後、第二神殿が失われてからというもの、イスラエルの歴史の時計は止まったままです。その時計が再び動き出すのは、エルサレムに神殿が再建される時です。その時に、ユダヤ人は獣と呼ばれる反キリストと、彼の正体を知らずに七年間の契約を結びます。しかし、その契約の半分である三年半が満ちた時に、反キリストは預言者ダニエルによって語られた『荒らす忌まわしいもの』として聖なる所に立ち、正体を現すのです。また、「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる」(ダニエル12:1)ということが成就するのです。

【新改訳2017】ダニエル書12章1, 3節
1 ・・・・ しかしその時、あなたの民(=イスラエル)で、あの書に記されている者はみな救われる
3 賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる

●その時、あなたの民で、あの書(=いのちの書)に記されている者はみな救われるのです。「あなたの民」とはユダヤ人です。その者たちは「イスラエルの残りの者」と呼ばれます。彼らは未曾有の大患難の中で、「恵みと嘆願の霊」(ゼカリヤ12:10)を注がれることによって、主に立ち返り、「賢明な者たち」となり「多くの者(異邦人)を義に導いた者」となるのです。これは彼らに対する神の恵み(ヘーン:חֵן)に他なりません。「ヘーン」の語源は「ハーナン」(חָנַן)で、それは霊的な盲人に対してなされる「開眼の恵み」です。それは、復活されたイェシュアの「いのちを与える霊」「いのちを創り出す霊」によってなされる恵みなのです。これはすでにイェシュアの死と復活によって、イェシュアをメシアと信じるすべての人に包括的に与えられていますが、イスラエルにその恵みが民族的に与えられるのは、終わりの時なのです。

ベアハリート

●イザヤ書53章は、イェシュアがメシアであることを証明するための最大の根拠となる箇所です。しかしユダヤ教はそうではありません。それはメシア観の違いです。ユダヤ教のメシア観は、ダビデ王のような人間的な力ある王です。彼らの国を異邦人の支配から解放してくれるメシアなのです。ですから、十字架で死んだ「受難のメシア」はあり得ないのです。またユダヤ教では、イザヤ書53章の「主のしもべ」をイスラエル民族全体、もしくはイザヤ自身として解釈しています。イザヤ書53章は、イェシュアをメシアと認めたくないユダヤ教のラビたちの頭を悩ませて来ました。ですから好まれない箇所として、シナゴーグで公に読まれることはありません。そのため、その箇所の存在すら教えられていないユダヤ人がいると言われています。それゆえ、彼らにイェシュアがメシアであることを伝えることは難しいのです。終わりの日に神が「恵みと嘆願の霊」を注がれるまでは、彼らの頑なさは続くのです。しかし私たちエックレーシアにとっては、イザヤ書53章を重要なメシア預言として学ぶ意義は大きいです。次回から、53章に描かれるメシアの贖罪的な死と復活という神の甘い事柄をより詳しく、緻密に学んでいきたいと思います。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2026.3.15
a:147 t:3 y:0 

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional