「わたしのしもべ」(Ⅳ-B)
24. 「わたしのしもべ」(Ⅳ-B)
【聖書箇所】イザヤ書53章1~9節
ベレーシート
●前回の52章13~15節は、53章1~12節の序文であると学びました。後者は主のしもべの「受難と死」と「その結果」について記されているのに対し、前者はその逆である「高挙と受難」という順序で記されていました。いずれにしても、このことは神の福音であり、神の最も甘い出来事なのです。
●52章14節の「多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」の「驚き恐れた」(シャーマム: שָׁמַם)は、「主のしもべ」の顔が人とは思えないほどに損なわれてしまうところの「色を失うような」「ぞっとするような」驚き、あるいは「おののき」を意味する、神の刑罰に対する感情です。それは主のしもべ・イェシュアの肉体が単なる石打ちの刑ではなく、ローマ軍の兵士によるリンチによって打撲傷、裂傷、刺傷、貫通傷、破裂という五種類の傷を受け、壮絶な死刑に処せられるからです。多くの人々がそのことで「驚き恐れた」ことが完了形で記されています。ヘブル語の「完了形」は必ずそうなることを意味しています。
●イザヤ書53章2~12節は大きく分けると、(1)2~9節と(2)10~12節の二つに分けられます。つまり「受難と死」、そして「その結果」です。今回は(1)のみ取り上げます。

1. 主のしもべの受難と死
(1) 主のしもべの生い立ちと面影
【新改訳2017】イザヤ書53章2~3節
2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
●まず人称の同定をしなければなりません。この箇所での「彼」は、主のしもべである「イェシュア」です。そして「人々」とは「イスラエルの民」を指し、「私たち」とは、やがてイザヤをはじめとするイェシュアをメシアと信じる「イスラエルの残りの者、および異邦人たち」です。
●ここで重要なことは、「主の前に」(レファーナーヴ:לְפָנָיו)ということばです。1節に「主の御腕は誰に現れたか」とあります。そのメッセージでは「主のことばを聞いて信じる者たち」としていましたが、今回は「主のしもべ」です。彼は人々の前では尊ばれない存在です。しかし彼の存在は「主の御腕」にあったのです。「主の御腕」はヘブル語で「ゼローア・アドナイ:זְרוֹעַ יהוה」です。「主の御腕」も「主の御手」(ヤード・アドナイ:יָד יהוה)も、絶大な主の守りの中にあることを意味するフレーズです。その守りの中に、彼は「生え出た」(アーラー:עָלָה)のです。それは地において生まれただけでなく、そこで育ち、成長し、主の使命を成し遂げて、神のもとに「上る・帰る」ことを意味することばです。
●しかし、地における始まりは、まさに「ひこばえのよう」であることが預言されています。「ひこばえ」(ヨーネーク:יוֹנֵק)とは「木の幹や枝から新しく生え出る若枝、木の脇芽=乳飲み子」で、ここにしか出てこない語彙です。その「ひこばえ」が人々の目には「砂漠の地から出た根のように」見えたと言い換えられています。「砂漠の地」(エレツ・ツィヤー:אֶרֶץ צִיָּה)とは「乾いた地」のことです。そのような不毛な地にある「根」(ショーレシュ:שֹׁרֶשׁ)から出て来ることは、いわばあり得ないことなのです。これらの「ひこばえ」と「砂漠の地から出た根」というたとえは、メシアの謙遜を表すものです。人の目には「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」のですが、神の目は絶えず注がれているのです。これが「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように」という意味なのです。
●イザヤ書11章1節でも「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」と預言されているように、「新芽」も「若枝」も「メシア」を表す用語の一つです。1節の「新芽」は「ホーテル」(חֹטֶר)、「若枝」は「ネーツェル」(נֵצֶר)です。概念としては、「ヨーネーク」(יוֹנֵק)も「ホーテル」(חֹטֶר)も「ネーツェル」(נֵצֶר)も、いずれも同義と言えます。ちなみに、なぜイェシュアが「ナザレ」という小さな貧しい村で育ったのかと言えば、「ナザレ」が「ネーツェル」に由来するからです。ネーツェルの語源は「苦しめる、圧迫する、敵視する」を意味する「ツァーラル」(צָרַר)で、そこから名詞の「敵、かたき」を意味する「ツァル」(צַר)が派生します。これは両義性を持つ語彙です。
●イェシュアは預言されていた通りに「ベツレヘム」で生まれましたが、育った場所は「ナザレ」という貧しい村です。マタイの福音書2章23節に「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『彼はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった。」と書かれています。しかしそのように預言されている箇所を旧約聖書で見つけることはできません。どのようにして預言されていたことが分かるのでしょうか。それは、エッサイの根株から出る「新芽」、すなわちエッサイの子孫から出る一つの「新芽」が「ネーツェル」(נֵצֶר)という語彙であり、ギリシア語の「ナザレ」をヘブル語に訳すと「ナーツラット」(נָצְרַת)となります。「村(町)」が女性名詞であるためにこのような表記になりますが、その語根は実は同じ(נצר)なのです。重要なことは、「主のしもべ」が、ガリラヤにある貧しい小さな村である「ナザレ」で育ったという事実です。当時のユダヤ人の社会では、「ガリラヤ」の出身というだけでも軽蔑の眼差しが向けられていました。ましてや、その中の寒村「ナザレ」に対するイメージ、そして「ナザレ人イェシュア」に対する眼差しはなおさらのことでした。ですから、イェシュアの弟子となるナタナエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言ったのです(ヨハネ1:46、第三版)。ナザレ出身のイェシュアは、当時のユダヤ社会から見れば、「田舎者」でしかなかったのです。田舎から都会に出て来た者に対する地域的偏見は、ナタナエルの評価と同様に、今日の現代社会においても何ら変わりません。
(2) 主のしもべの容姿
●2節の後半を見ると、「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」とあります。
①「見るべき姿(面影:新共同訳)がない」
②「輝き(威厳:口語訳)もない」
③「人が慕うような見栄え(好ましい容姿:新共同訳)もない」。
つまり、この世の価値観からすれば、評価すべきものが何一つ「ない」。原文の「彼」にはすべて「ない」のです。ヘブル語で「姿」とは「トーアル」(תֹאַר)、「輝き」は「ハーダール」(חָדָר)、「慕うべき」は「ハーマド」(חָמַד)。それらがすべて否定されているのです。
●イェシュアの弟子たちは、彼の容姿について全く沈黙しています。旧約ではイスラエルの最初の王となったサウルは「だれよりも肩から上だけ高かった」とか、後継者となるダビデもその姿は「立派だった」と聖書は記しています。聖書の中で姿が「美しい」(ヤーフェ: יָפֶה)が使われている人物(女性を除く男性)を挙げると、ヨセフは顔も体つきも美男子でした(創世記39:6)。ダビデも紅顔の美少年で姿も立派でした(Ⅰサムエル16:12)。ダビデの四番目の息子アブサロムは頭がきれるだけでなく、足の裏から頭の頂まで非の打ちどころのない人物であったとあります(Ⅱサムエル14:25)。しかし肝心のイェシュアの容姿には一切触れることなく、ただ罪なき人であり、まことの神であったことを描いています。しかしイザヤ書53章では、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」とあります。
●「顔立ち」(マルエー: מַרְאֶה)については、52章14節にも同じ言葉がありました。そこでは受難にあったしもべの顔立ちが人のようではないことが預言されていますが、53章2節では正常時の顔立ちも決してハンサムではなかったことを記しています。当時の人々はイェシュアの顔立ちを見ていたはずですが、それについての情報は皆無です。イェシュアを題材にした映画では、イェシュアを演じるほとんどの俳優の顔立ちはなかなか立派なものです。そうでないと、観客を得ることができず、興行は赤字となってしまう懸念があります。イェシュアを信じ愛する者にとっても、イェシュアの顔立ちはすばらしいと思いたいという心理が働きます。しかし、主のしもべであるメシアの顔立ちは良いとは言えないようです。むしろ、主は人の心を見ます。神は決してうわべを見ない方であり、「わたしは・・人が見るようには見ない」とも断言しておられます(Ⅰサムエル16:7)。いつの時代においても、多くの人々が自分の容姿や顔立ちにコンプレックスを抱いています。それは人間的な価値観で自分を見ているからです。それゆえ、イェシュア・メシアの顔立ちが良いとは言えないということの中に、神の配剤を信じます。それは、彼の存在が人間的な価値観によって左右されないための神の配剤であり、またそのことで悩んでいる多くの者たちとの連帯や共感を得ることができるからです。
(3) 人々からの完全な拒絶
3節「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」
●「蔑まれ」という語彙が二度も繰り返されます。確かに、イェシュアは当時のパリサイ人、サドカイ人、ローマ人によって軽蔑の対象となりました。その公生涯で、特に死においては最高度の侮辱を受けました。また、身体的、精神的な面においてありとあらゆる痛みを受け、傷を負いました。これらはすべて預言者イザヤによって預言されていたのです。「蔑まれ」と訳された「バーザー」(בָּזָה)の受動分詞。「バーザー」の初出箇所は創世記25章34節で、エサウが長子の権利を「侮った」で使われています。ここには、エサウがいかに霊的な事柄に対して無関心であったかを表す出来事が記されています。腹を空かせてやって来た兄エサウが食べ物を求めた時に、ヤコブはすかさず言いました。「今すぐ私にあなたの長子の権利(相続権)を売ってください。」と(31節)。決して自分では得ることのできない長子の権利を一杯の赤い煮物で売るように求めたのです。それはヤコブが常々願っていたことでした。長子の権利(相続権)を軽んじていたエサウは、なんと一杯の煮物との交換という形で簡単にそれをヤコブに売ったのです。「長子の権利」ということばが、25章に4回(31, 32, 33, 34)出てきます。「初子」「初物」「初穂」と同じ語根を持つ「長子の権利」である「べホーラー」(בְּכֹרָה)は、二倍の相続権を有し、かつ家督権、霊的リーダーの権威を意味します。これらは長子にのみ与えられる特別な権利でした。エサウはそれを「侮った」のです。つまり、主のしもべは、ご自分の民から「蔑まれ」、特に宗教指導者たちから侮辱の対象であり続けたのです。ましてや、その受難における彼は、顔を背けるほど蔑まれ、尊ばれることのない存在だったのです。
●「のけ者にされ」は「尊ばれる」ことが否定される「ロー・ハーシャブ」(לֹא חָשַׁב)で、人々から「無視される、見捨てられる」ことを意味します。主のしもべは、人を祝福しても、人から祝福を受けることはありませんでした。それゆえ、彼は「悲しみの人で、病を知っていた」のです。イェシュアが文字通りの病を経験したということではなく、精神的な悲しみにあわれたという意味です。
【新改訳2017】イザヤ書53章4~6節
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背き(פֶּשָׁע)のために刺され、私たちの咎(עָוֹן)のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎(עָוֹן)を彼に負わせた。
●イザヤ書53章4~6節は、イェシュアの十字架による代償的苦難と死を予告している重要な箇所です。これまでも、この箇所は何度も味わってきましたが、原語で味わってみる時、あらためて贖罪的苦難の意味を明確にさせられます。ここに来てはじめて、「主のしもべ」の受難の目的が何であったのかを知ることができます。4節に注目してみると、冒頭に「まことに」と訳された「アーヘーン」(אָכֵן)があります。これはその後に記されている事実を強調するときに使われる副詞です。またここで使われている動詞の多くが分詞で使われていますが、重要なことは、それは受動態ではなく、すべて能動態だということです。つまり「彼」が主動で、「私たち」が受動なのです。
①「彼は私たちの病を負った(完了形)」
②「彼は私たちの痛みを担った(完了形)」
●イザヤは罪を「病」(ホリー: חֳלִי)としています。罪は病気なのです。罪は死をもたらす感染力の強い病であり、その病を、癒やすことができるのは神のみです。「痛み」(マフオーヴ: מַכְאוֹב)は、罪がもたらす様々な悲しみや心痛を意味します。「病」も「痛み」もいずれも複数形です。それらを主のしもべは自ら「負い」「担った」と預言的完了形で表されています。「負う」という動詞は「ナーサー」(נָשָׂא)で、本来は、上げる、持ち上げるという意味ですが、これが「病を負う」ことで「罪を赦す」という意味になります。「担う」と訳された「サーヴァル」(סָבַל)は旧約で9回使われていますが、そのうち5回がイザヤ書です。46章4節では「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う」とあり、53章11節でも、主のしもべは「彼ら(多くの人)の咎を負う」とあります。いずれも神の恩寵を表していますが、偶像の神は逆に人々に背負われる神です。ここで重要なことは、主のしもべが「自ら主体的に、自発的に」イスラエルの人々の病を負い、痛みを担うことが記されているのは、四つの福音書の中ではヨハネだけです。また、使徒ペテロも同様にイェシュアの主体的な受難を以下のように記しています。
①【新改訳2017】ヨハネの福音書10章17~18節
17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」②【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙2章22~24節
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
●ところが、「私たち」はそのようには思わずに、彼が神からの懲罰的苦難を受けたと考えたのです。ここに登場する「私たち」は53章1節にもある「私たち」のことです。それはイザヤを含めたイスラエルの民、やがてイェシュアの時代の宗教指導者たち、さらにすべての人間を含む「私たち」と考えられます。その「私たち」の真相が6節で表現されています。そこには「私たち」が一人の例外もなく、「羊のようにさまよい」「それぞれ自分勝手な道に向かって行った」と記されています。羊のようにさまようとはどういうことでしょうか。さまよった羊は決して自分の力で戻ってくることができません。「さまよう」とは「自分勝手な道に向かって行く」ことであり、それは滅びる(破滅する)ことを示唆しています。
2. 主のしもべの受難の理由
【新改訳2017】イザヤ書53章5節前半
しかし、彼は私たちの背きのために刺され(第三版:刺し通され)、私たちの咎のために砕かれたのだ。
●イザヤ書53章5節では、主のしもべの受ける苦難が決して「主のしもべ」自身のものではなく、あくまでも、「私たちのそむきの罪のために」、「私たちの咎のために」とあるように、代償(身代わり)的な苦難であり、そのために、彼(主のしもべ)は「刺され(刺し通され)」「砕かれた」のです。ここではそのいずれもが受動態的表現であることに注目しなければなりません。使徒ヨハネや使徒ペテロが理解しているイェシュアの苦難は積極的な苦難であるのに対し、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では受動的苦難、すなわち受難を告知しています。
①【新改訳2017】マタイの福音書 16章21節
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。②【新改訳2017】マルコの福音書8章31節
それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。③【新改訳2017】ルカの福音書9章22節
そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。
●ちなみに、イザヤ書53章5節の「背きの罪」は「ペシャー」(פֶּשָׁע)で、神の律法の教えを破ることを意味します。「咎」は「アーヴォーン」(עָווֹן)で、本来は「ゆがむ」の意で「不義」とも訳されます。いすれも罪を表す語彙で複数形です。ちなみに、単数形で表される罪の場合は「原罪」を表し、ヘブル語では「ハッター」(חַטָּא)を使います。神への違反行為、歪んだ思いと行為の罪の結果、罪を犯した者ではなく、代わりの者がその罪のゆえに「刺し通され」「砕かれた」のです。これが代償的贖罪、すなわち「身代わりの死」です。「刺し通された」「砕かれた」(いずれも受動態)という語彙は、残虐、かつ苦痛に満ちた死を示しています。
3. 代償的贖罪(身代わりの死)がもたらしたもの
●6節に「主」は彼(主のしもべ)に「すべての者の咎を負わせた」とあります。ここで、すべての出来事の仕掛け人が「主」であることが明らかにされます。10節にも「・・彼を砕いて病を負わせることは 主のみこころであった」とあります。「主のしもべ」が自ら積極的に苦難を負うことであったとしても、また受難であったとしても、その背後には、主のご計画があります。「主は、・・すべての者の咎を彼に負わせた」のです。この「負わせる」という動詞は「パーガ」(פָּגַע)のヒフィル(使役)態ですが、本来は「会う、出会う、とりなしをする、嘆願する」という意味です。神のもとからさまよい出た者を再び神と出会わせるために、だれかが仲介的な働きをすることを意味します。「パーガ」の初出箇所は創世記23章8節で、アブラハムが妻サラを葬る土地を得るために、ヒッタイト人たちにエフロンが所有するマクぺラの土地を十分な価で譲ってくれるよう「交渉する、頼む、お願いして」という意味で使われています。その「パーガ」は、イザヤ書53章12節の最後にも「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」という訳で使われています。
●「罪を負う」の「負う」も「赦す」という意味であり、人間の犯した罪を負うことでその罪が赦されるためにとりなしをする「主のしもべ」に焦点が当てられています。主はその働きをご自分のしもべに「負わせた」ということになります。しもべの側からすれば「負わせられた」という表現になり、負わせる側も負わせられる側も、多大な痛みを伴うことになります。そのことを知った上で、主は彼に「負わせた」のです。主と「主のしもべ」のかかわりが揺るぎない愛と信頼で結ばれていなければ、なし得ることは不可能です。
(1) 「平安」(シャーローム)
●しもべの身代わりの苦難と死がもたらすのは「平安」です。「平安」の原語は「シャーローム」(שָׁלוֹם)ですが、この語彙は神が人に与える祝福の総称です。これは、神と人との間にある障害を取り除いた結果としてもたらされるものです。主との和解による結果としての祝福のすべての領域が、この一語(単数形)で言い表されているのです。
(2) 「癒やし」
●しもべによる身代わりの苦難と死がもたらすのは「癒やし」です。「癒やし」の原語は「ラーファー」(רָפָא)です。罪が病であるならば、罪から解放されることは「癒やし」になります。この「ラーファー」が聖書で最初に使われているのは創世記20章17節ですが、そこでは、アブラハムが神に祈った(とりなした)ことで、「神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった」とあります。ここに、「とりなし」と「癒やし」が結びつけられています。「癒やし」は「救い」と同義です。やがてイェシュアをメシアと信じる「イスラエルの残りの者」が「大勢の数えきれない異邦人」に福音を宣べ伝えることで、彼らに救い(癒やし)をもたらせるものとされるのです。
4. 神への完全な信頼のあかしとしての「黙従」
●前段落(4~6節)において「主のしもべ」の代償的苦難と死が示されましたが、7~9節の段落においても、表現は異なりますが、同じテーマが繰り返されています。そこで重要なのは、主のしもべの「黙従」ということです。
【新改訳2017】イザヤ書53章7~9節
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
●7節には「黙って従う主のしもべ」の姿があります。それは苦難の中にあっても一切「口を開かない」という表現で表されています。「口を開かない」とは、自分で自分を弁護しようとしないことです。一切の不当な扱いに対して抗議をしないことです。この黙従の中に、4節に見られた、主体的に苦難を受ける、主のしもべの姿があります。ヘブル人への手紙5章8~9節にも「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」とありますが、まさに黙従は神への完全な信頼のあかしなのです。別のことばで表現するなら、これは「全焼のいけにえ」を献げることと同義です。それはアブラハムが愛する子イサクを献げた行為に表されています。「主のしもべの黙従」の様子を「屠り場に引かれて行く羊のように」、「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように」と表現していますが、「羊」と「雌羊」は神へのいけにえの本体である「主のしもべ」です。神に献げられるいけにえは、神への信頼において完璧でなければならなかったのです。
●8節では「虐げとさばきによって、彼は取り去られた」とあります。「虐げとさばき」とは不当な裁判ということであり、「取り去られた」「生ける者の地から絶たれた」とは、死の宣告を受けて殺されたということです。御子イェシュアが受けた苦難と死はきわめて悪質、かつ不当なものであり、死に至らせる刑罰は最も残酷なものでした。「彼が私の民の背きのゆえに打たれ」とは、すべての人のためではなく、イスラエルの民の背きの罪(ぺシャ:פֶּשָׁע)の身代わりのためだとしていることは重要です。それはイェシュアの誕生の際にも「この方がご自分の民をその罪(複数)からお救いになる」(マタイ1:21)と記されている通りです。聖書の預言はイスラエルを基軸にしていることを、異邦人である私たちは認めなければなりません。「主のしもべ」の苦難と死が、イェシュアの十字架の苦難と死を預言していることは言うまでもありませんが、それは新約聖書を読んだ者にしか分かりません。新約聖書を知らないユダヤ人たちは、この「しもべ」がイェシュア・メシアであることを、いまだに分からずにいるのです。
●9節は「彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた」とあります。これはしもべの葬りを意味しますが、「悪者どもとともに、富む者とともに」とはどういうことでしょうか。それは、しもべが犯罪者として共同墓地に葬られるはずであったけれども、富める者とともに葬られたことを意味します。この預言は、アリマタヤのヨセフがイェシュアのために自分の墓を提供したことによって成就しています(マタイ27:57,60、
ヨハネ19:42)。
●最後に、イザヤ書53章7~9節の「しもべの黙従」をうまく説明した箇所を引用して終わります。
【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙2章22~25節
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。※これは、ペテロがディアスポラと呼ばれるユダヤ人信者に当てて書かれた手紙です。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにありますように。
2026.3.29(受難週)
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