****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「わたしのしもべ」(Ⅳ-C)」

25. 「わたしのしもべ」(Ⅳ-C)

【聖書箇所】イザヤ書53章10~12節

ベレーシート

●イザヤ書はメシアの贖罪的死についての最も重要な箇所です。今回のテキストに入る前に、前回の箇所から三つの補填をしたいと思います。

【新改訳2017】イザヤ書53章4~8節
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。


(1) 病を負い、痛みを担う「しもべ」(4節)

4 まことに(אָכֵן)、(הוּא=主のしもべ)は私たちの病(חֳלִי)を負い(נָשָׂא)、私たち痛み(悲しみ、心痛= מַכְאוֹב)を担った(סָבַל)。それなのに、私たち(独立代名詞:אֲנַחְנוּ)は思った(חָשַׁב)。神に罰せられ(נָגַע)、打たれ(נָכָה)、苦しめられた(עָנָה)のだと。

●前回でも述べましたが、4節でイザヤは罪を「」(ホリー: חֳלִי)としています。罪(ハッター:חַטָּא)は病気であり、死にいたる病なのです。罪は死をもたらす感染力の強い病であり、その病を癒やせるのは神だけです。
また「痛み」(マフオーヴ: מַכְאוֹב)は、罪がもたらす様々な悲しみや心痛を意味します。「」も「痛み」もいずれも複数形で、聖書は、主のしもべがそれらを自ら「負い」「担った」ことを預言的完了形で記しています。

●「負う」と訳された動詞「ナーサー」(נָשָׂא)は「上げる、持ち上げる」という意味です。「病を負う」とは「罪を持ち上げる」となり、それで「罪を赦す」という意味になります。他方「担う」と訳された「サーヴァル」(סָבַל)は旧約で9回、そのうち5回がイザヤ書で使われています。46章4節では「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う」とあり、53章4節では「痛みを担った」、11節では、主のしもべが「彼ら(多くの人)の咎を負う」とあります。いずれも神の負担を意味する恩寵的語彙です。ここで重要なことは、主のしもべ自身が「主体的に、自発的に」イスラエルの人々の病(罪)を負い、その痛みを担うことが記されています。それなのに、「私たち(独立代名詞アナフヌー:אֲנַחְנוּ)は思った(ハーシャヴ: חָשַׁב)。(彼は)神に罰せられ(נָגַע)、打たれ(נָכָה)、苦しめられたのだ(עָנָה)と」とあります。ここでなぜ、わざわざ独立代名詞の「私たち」が記されているのかと言えば、真実が見えない「私たち」をあえて強調するためです。真実はこうです。「(הוּא)は私たちの背き(פֶּשַׁע)のために刺され(刺し通され、刺し貫かれ/חָלַל)、私たちの咎(עָוֹן)のために砕かれた(打ち砕かれ/דָּכָא)」のです。ここでは「」が独立代名詞として強調されています。

【新改訳2017】マタイの福音書8章13~17節
13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた
14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた
17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。

●上記の記事を読んでどう思うでしょうか。どんな病気でも癒やせる医者のところに私たちは行くでしょう。しかし百人隊長のしもべの癒やし、ペテロの姑の癒やし、悪霊につかれた人、病気の人々の癒やしのすべてが、御国が来るとこうなるという預言的デモンストレーションなのです。イェシュアは病という罪を贖われた(=代償的死を受けられた)ので、御国においては必ずこうなるという宣言を行動で証ししているのですが、当時の人々は、完全な癒やしを与えるためにイェシュアが自ら病を負い、私たちの痛みを担うという代償的な死の必然性を全く理解できなかったのです。今日においても正しく理解されていません。私たちエックレーシアは、携挙で霊のからだを与えられるまでは、病から完全に癒やされることはありませんが、携挙される時、完全な癒やしが与えられます。

(2) 刺され、砕かれる「しもべ」(5節)

5 しかし、(הוּא)は私たち背き(פֶּשַׁע)のために刺され(刺し通され、刺し貫かれ/חָלַל)、私たちの咎(עָוֹן)のために砕かれた(打ち砕かれ/דָּכָא)のだ。への懲らしめ(מוּסָר)が私たちに平安をもたらし、その打ち傷(חַבּוּרָה)のゆえに、私たち癒やされた(רָפָא)。
(※「罪」を意味する「ハッター」(חַטָּא)が12節で登場します。罪に関する重要な三つの語彙がすべて53章に揃っています。)

●5節の「刺され、刺し通され」の「ハーラル」(חָלַל)と、「砕かれ、打ち砕かれ」の「ダーハー」(דָּכָא)は、ともに強烈な死のイメージの語彙です。ところが、これらのヘブル語には生のイメージの意味が内包されているのです。これをヘブル語の両義性と言います。なぜそのような意味を有するのかといえば、その理由はヘブル語が神の言語だからです。

●「刺される」という意味の動詞「ハーラル」(חָלַל)の初出箇所は創世記4章26節です。そこでは、「人々は主の名を呼ぶことを始めた」の「始めた」に「ハーラル」が使われています。「始める」ことと「刺し通される」ことがどう繋がるのでしょうか。文脈を見ると、カインが妬みによってアベルを殺したため、アベルに代わって神はセツを授けます。「セツ」(שֵׁת)は「代わりの子を置く」の「置く」を意味する動詞「シート」(שִׁית)から派⽣した名詞で、第二のアダムであるイェシュアが隠された形で証しされています。セツからエノシュ(אֱנוֹשׁ)が生まれますが、エノシュは「弱い人」という意味です。なぜなら「癒やしにくく、直らない」を意味する「アーヌーシュ」(אָנוּשׁ)を語源としているからです。しかしこの弱いエノシュが主の名を呼び始めることによって、主の祭司の体系が回復したことを意味することばが「ハーラル」(חָלַל)なのです。まさに「夕があり、朝があった」をなす(ハーヤー:הָיָה)神が、地を耕すための「祭司の体系」を新たに継続していかれることが「ハーラル」の語彙に込められています。

●また、同じ5節に「彼は私たちの背き(פֶּשַׁע)のために刺され(חָלַל)、私たちの咎(עָוֹן)のために砕かれた(דָּכָא)のだ」とあるように、「ダーハー」(דָּכָא)には「砕かれる、押しつぶされる」(=crush)という意味があります。ところが、形容詞の「ダッカー」(דַכָּא)では、57章15節「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである」という神の祝福が述べられています。さらには同義語「ダーハー」(דָָּכָה)があります。最後の文字が「アーレフ:א」から「へー:ה」に置き換わっただけで、意味もほとんど同義です。詩篇51篇17節に「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません」にある「打たれる」がその「ダーハー」(דָָּכָה)です。このように、死をイメージする「ハーラル」(חָלַל)と「ダーハー」(דָּכָא)、および「ダーハー」(דָָּכָה)の語彙の中に、生のイメージが含まれている、それがヘブル語特有の「両義性」です。それは「死と復活」を表す「神の甘い事柄」を啓示するものです。神の歴史(His story)は、この「神の甘い事柄」のリズムによって展開していくのです。それゆえ、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」ということが言えるのです。

(3) 「彼」と「私たち」のかかわり

●今回の箇所における「彼」と「私たち」のかかわりが何を示唆しているのかに目を留めたいと思います。「彼」も「私たち」も、独立代名詞が使われています。つまりその存在と関係が強調されているのです。ここでの「」(フー:הוּא)とは「主のしもべ」であり、後のイェシュアのことです。それに対する「私たち」(アナフヌー:אֲנַחְנוּ)とは「私の民」(8節)である神の民「イスラエル」(ユダヤ人)です。しかも「彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者(複)の地から絶たれた(断たれた)のだと」とあります。つまり主のしもべの死が贖罪的な死であったということイスラエルの民の「身代わりの死」であったということを、イスラエルの民(ユダヤ人)は、誰一人として思わないという「預言」です。この預言は現代のユダヤ人においても然りです。いまだに彼らは政治的メシアの登場を待ち望んでいます。ですから、やがて獣が神殿を建てることで、彼こそメシアだと信じて契約を結んでしまうのです。しかし、歴史の最後の最後に、イェシュアこそメシアであったということが、彼らにはっきりと示される出来事が起こるのです。

●一義的に、聖書はイスラエルを基軸として啓示されています。イスラエルを基軸とするということは、アブラハム契約にある「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」という約束に基づくことを意味しています。「地のすべての部族」(=地のすべての家族「コル・ミシュペホート・ハーアダーマー」
כֹּל מִשְׁפֶּחֹת הָאֲדָמָה)とは「アブラハムを祝福する者たち」を意味します。アブラハムとその子孫であるユダヤ人を「軽く扱う(無関心な)者たちや、彼らを呪う者たち」は「地のすべての部族」(=地のすべての家族)の中に含まれません。「地のすべての部族(家族)」の「部族(家族)」は「ミシュパーハー」(מִשְׁפָּחָה)で氏族、民族を意味しますが、その関連語である「シフハー」(שִׁפְחָה)は「女奴隷」を意味します。とすれば、それはサライの女奴隷ハガルの子(イシュマエル)です。イシュマエルは、アブラハムを祝福する異邦人を代表すると言えます。イシュマエル(יִשְׁמָעֵאל)とは「神が聞かれる(顧みられる)」という意味ですが、イサクが生まれた後にイシュマエルは異邦人の代表として神に顧みられるのです。この順序は型です。というのは、イェシュアの福音は彼の弟子たちであったユダヤ人から始まりました。しかし後に使徒ペテロを通して、異邦人にも同じく聖霊のバプテスマの恵みが注がれます。そのようにして、異邦人はエックレーシア(教会)の共同体として組み込まれるのです。このことは、終わりの日に、イスラエルの残りの者によって宣べ伝えられる御国の福音を信じて殉教する「数えきれない大勢の異邦人」(黙示録7章)が、御国の構成メンバーとされることの型なのです。

●主のしもべの贖いととりなしの対象は「私の民(アンミー:עַמִּי)」(53:8)であり、「多くの人(ラッビーム:רַבִּים)」(52:14,53:11,12)「多くの国々(ゴーイム・ラッビーム: גּוֹיִם רַבִּים)」(52:15)です。これは基軸となる「イスラエルの民」と、間接的に「異邦人」を指しています。すなわち、イスラエルの代表的意義を担わされている主のしもべは、まずは「イスラエルの救い」を、それから「諸民族の救い」という順序で二重の使命を負わされています。換言するならば、イザヤ書52~53章の主のしもべはイスラエルの中から選ばれ、まずはイスラエルの「多くの民」の救いのために遣わされます。しかしその「多くの人」ということばの中に、「イスラエルの中の多数」と「諸国民の多数」という二義性が含まれて語られているということです。意味としては「全人類」ということになるのですが、「全人類」という語彙では、イスラエルが基軸であることを希薄にしてしまうという危惧があります。聖書は「イスラエル」と「諸国民」とは明確に区別されているのです。イェシュアが「救いはユダヤ人から来る(出る)」(ヨハネ4:22)と言ったこともそういう意味です。

●さて、ここから今回のテキストである10~12節を味わっていきます。イザヤ書53章2~12節は大きく分けると、(1)2~9節と(2)10~12節の二つに分けられます。つまり、しもべの「受難と死」と「その結果」です。今回は後者を取り上げます。

【新改訳2017】イザヤ53章10~12節
10 しかし、彼を砕いて病を負わせること(痛めること=חָלָה)は主のみこころであった(חָפֵץ)。彼が自分のいのち(彼の魂/ナフショー:נַפְשׁוֹ)を代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころ(חֵפֶץ)は彼によって成し遂げられる。
11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの(עָוֹן)を負う。
12 それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たち(פֹּשְׁעִים)とともに数えられたからである。彼は多くの人の(חַטָּא)を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

画像の説明

●10~12節には罪を表す三つの語彙がすべてあります。
①「ハッター:חַטָּא」②「アーヴォーン:עָוֹן」③「ぺシャ:פֶּשַׁע」で、新改訳は順に「①・②・③背き」と訳します。聖書によって訳語がまちまちであるのが難点です。幕屋における「ささげ物」についても同様で、新改訳の「代償のささげ物」を口語訳は「(けん)(さい)」と訳し、新共同訳は「賠償の献げ物」と訳します。これは「数々の行いの罪」の赦しのためのささげ物を意味します。回復訳は「全焼のささげ物」「穀物のささげ物」「平安のささげ物」「罪(単数)のためのささげ物」「違犯(複数)のためのささげ物」、すべて「ささげ物」と訳しています。ヘブル語で「ささげ物」を「コルバーン」(קָרְבַּן)と言います。したがって、回復訳のように「〇〇のささげ物」と訳すのがふさわしいように思えます。これら五つのコルバンがすべて正当に献げられて初めて贖いが成立するのです。しもべイェシュアはご自身を完全なコルバンとして御父に献げてくださったのです。

1. 主のみこころ

【新改訳2017】イザヤ53章10節
しかし、彼を砕いて病を負わせること(痛めること=חָלָהの使役形)は主のみこころであった(חָפֵץ)。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころ(חֵפֶץ)は彼によって成し遂げられる。

●ここで重要なのは、主のしもべを砕いて(crush)、病(=罪)を負わせることは、主のみこころであったということです。なぜなら、主のしもべが「代償のささげ物」(アーシャーム:אָשָׁם)となることで、主のみこころが成し遂げられるからです。そのことが「彼によって」と記されています。原文では「彼の手によって」(ベヤードー:בְּיָדוֹ)と記されています。主のみこころはしもべの手によって成し遂げられるということですが、そのしもべが御父の守りの中で自らのいのち(ナフショー:נַפְשׁוֹ)を民のための代償のささげ物とすること(=身代わりとなること)によって、初めて自分の子孫を末長く見ることができると言っても過言ではありません。またその「子孫」とは霊的な子孫であり、贖罪的いのちを信仰によって与えられた者たちです。「末長く」とは「数多くの日々を生き長らえる」という意味で、おそらくメシア王国の期間を彼らが王として生き長らえることを指しています。ここでの「代償のささげ物」とは、幕屋の五つのささげ物(コルバン)を代表していると思われます。主のしもべは「ささげ物」であると同時に、それを献げる祭司でもあるのです。またここの「子孫」(ゼラ:זֶרַע)は明記されてはいませんが、歴史の最後に立ち上がって来る「イスラエルの残りの者」のことであると考えられます。

●「みこころであった」には動詞「ハーフェーツ」(חָפֵץ)が使われており、主の「みこころ」には名詞「へーフェツ」(חֵפֶץ)が使われています。名詞「ヘーフェツ」は「み旨」とか「望まれること」とも訳されます。10節は、しもべの大いなる苦しみによって、主のみこころが「成し遂げられる」(ツァーラハ:צָלַח)という勝利宣言が語られているのです。ちなみに、「主のみこころであった」は「アドナイ・ハーフェーツ」(יהוָה חָפֵץ)とあり、預言的完了形で必ずそうなることを表しています。「ヘーフェツの愛」―この愛は神が喜んで良いものを惜しみなく与えようとする愛です。

●そもそも天の父はその子どもたちに良いものを惜しみなく与えることを何よりも喜びとされる神です。人が自分の欲望や私利私欲のために求めることに対してではなく、神のみこころにかなって願い求めることに対して、神は黙っておられない方なのです。与えることを何よりも喜びとされる神、この神の惜しみなく与えようとする愛こそが「ヘーフェツの愛」なのです。このような愛が、人から神に向けられると、その人の願いと関心と愛着がすべて神に向けられることになります。詩篇1篇の「その人」(ハーイーシュ:הָאִישׁ)のようです。イェシュアは「求める者には与えなさい」(マタイ5:42)と言われましたが、そもそも天の父がそのようなお方だからでした。天の父は求める者には惜しみなく良いものを与えることができる方です。ですから、天の父を自分の父とする者にはそれができるということを意味しています。

2.激しい苦しみのあとを見て、満足する

【新改訳2017】イザヤ書53章11節
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎(עָוֹן)を負う。

●しもべが「激しい苦しみのあとを見て、満足する」とありますが、しもべは「どの地点から見て」満足しているのでしょうか。「満足する」と訳された「サーヴァ」(שָׂבַע)の初出箇所を見ると、人々が天からのパンで満ち足りる(出16章)とあります。とすれば、主のしもべがすでに高挙されて、そこで豊かな満足を得ている必要があります。それは森の中の木を見るのではなく、森全体を天の観覧席から見て、つまり神のご計画全体を俯瞰することによる満足です。つまり「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する」ことと、「多くの人を義とし、彼らの咎(עָוֹן)を負う」ことは同義なのです。

3. とりなしをされるしもべ

【新改訳2017】イザヤ書53章12節
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

●12節の「それゆえ」(ラーへーン:לָכֵן)は、11節を受けての結果です。ここでは「戦勝品」という語彙があります。この語彙があるということは、神が勝利をもたらしたことを前提としています。神(=御父)は「多くの人(複数)」を彼(しもべ)の取り分として分け与え、「強者たち」はしもべの贖いによる分捕り物として、彼が分かち取った(分捕った)ものです。「分け与え」も「分かち取る」も、主体は御父と御子で異なりますが、同じ動詞「ハーラク」(חָלַק)が使われています。特に「強者たち」とあるのは、終わりの日に、獣による迫害の中で殉教することになる「だれも数えきれないほどの大勢の群衆(異邦人)」のことかも知れません。彼らこそ、信仰による勝利者なのです。そのような強者たちを戦勝品として分かち取ったのは、「彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たち(פֹּשְׁעִים)とともに数えられたからである」としています。さらに、彼(=主のしもべ)が多くの人の罪(ハッター:חַטָּא)を負われた(ナーサー:נָשָׂא)のです(預言的完了形)。しかしそこからよみがえって、彼ら(=贖われた多くの人)のためにとりなしをするのは、彼ら(=贖われた多くの人)が本来の「王なる祭司としての務めを回復するため」に他なりません。

ベアハリート

●イェシュアは弟子たち、つまり祭司として選ばれた者たちに、次の話をされました。「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:11~13)。ですから、「求め(原文=求め続け)なさい。そうすれば(必ず)与えられます。捜し(続け)なさい。そうすれば、必ず見出します。たたき(続け)なさい。そうすれば(必ず)開かれます」と言われました。

●神は私たちに何が必要であるか、私たちが求める前からご存じです。だからといって、私たちが求めることもしないで与えられたら、私たちはそれを感謝することはないでしょう。むしろ、私たちの方から私たちの必要を神に願い求めるなら、神は内心、殊の外喜ばれて、求めた者に対して惜しみなく与えようとするのです。そしてそれを感謝している子どもを見て、さらに喜ばれるのです。神の方としては与えたくて、与えたくて仕方がないのですが、相手(私たち)が求める前に与えるなら意味がありません。神は人から求められることを待っておられる神なのです。ただし、その願いは神のみこころにかなうものでなければなりません。私利私欲や自己中心的な願い、悪い動機で願う願いは、みこころにかなうものとは言えません。以下も、祭司たちに対して語られたことばです。王なる祭司として回復し、整えられるために求めるなら、「それをする」、「与える」と語っておられます。

①【新改訳2017】ヨハネの福音書14章13~14節
13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

②【新改訳2017】ヨハネの福音書16章23~24節
23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

●イェシュアはすでに「いのちを与える霊」を信じる者の霊に吹き込んでおられます。パウロが言う「いのちを与える霊」は、ヨハネが言う「もう一人の助け主」であり、「真理の御霊」であり、「聖霊」です。それがすでに私たちの霊の中に与えられているのは大きな喜びです。さらに重要なことは、イェシュアの名、シェーム・イェシュアを呼んで、神に求めることです。「ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた」(Ⅰ列王10:13/第三版)とあるように、「望みのままに与えた」の中に「へーフェーツ」(חֵפֵץ)の愛、「ヘーフェツ」(חֵפֶץ)の愛が注がれています。神は「王である祭司」に、殊の外、何でも与えたいのです。ですからイェシュアのことばの中へと入り、それを得る者となりましょう。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにありますように。

2026.4.26
a:107 t:2 y:0

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