「インマヌエル預言」の奥義
4. 「インマヌエル預言」の奥義
【聖書箇所】イザヤ書7~8章、30章15節、18~19節、21節
ベレーシート
●「インマヌエル」という語彙は、聖書全体で3回しか使われていません。新約のマタイの福音書に1回(1:23)、旧約のイザヤ書に2回(7:14, 8:8)です。しかし8章10節にはその意味である「神が私たちとともにおられる」とあるので、原語「インマヌエル」(עִמָּנוּאֵל)はイザヤで3回です。「イム」(עִם)は「ともに」、「ヌー」(נוּ)は「私たち」、「エール」(אֵל)は「神」です。インマヌエルの「神が私たちとともにおられる」とは「神と人がともに住む」ことでもあり、それは、エデンの園、モーセの幕屋、神殿、教会、御国、新しいエルサレムを貫いているテーマです。しかもそれを建て上げる者こそがイェシュアであるので、インマヌエルはイェシュアを表す固有名詞でもあります。イェシュアが百パーセント神であり、百パーセント人であるという認識はとても重要です。一人の律法の専門家がイェシュアに尋ねました。
【新改訳2017】マタイの福音書22章36~40節
36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
●「あなたの神、主を愛しなさい」と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という二つの戒めですが、実は一つなのです。つまりこの戒めは、神であり人であるイェシュアを愛することなのです。これを別々にすることで、神への愛と人への愛(人道愛、人類愛)と理解してしまいます。そうではなく、イェシュアを信じ、イェシュアを愛すること、これが神の教えである律法の中核です。そしてそのイェシュアがキリストとしてご自身の民を再創造され、ともにおられ、ともに住むことが聖書全体を貫く主題です。このように「インマヌエル」は聖書全体のテーマそのものです。その「インマヌエル」の預言を語ったのがイザヤだったのです。
1.「インマヌエル」の預言の背景
●「インマヌエル」という語彙が登場するのは、イザヤ書7章と8章です。そこに記されているのは、神に逆らうイスラエルの歴史の縮図となる出来事です。ですから、その出来事をイスラエルで繰り返される一つの型として、私たちの脳裏に刻む必要があります。
【新改訳2017】イザヤ書7章1~9節
1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時代、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、戦いのためにエルサレムに上って来たが、これを攻めきれなかった時のことである。
2 ダビデの家に「アラムがエフライムと組んだ」という知らせがもたらされた。王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ。
3 そのとき、主はイザヤに言われた。「あなたと、あなたの子シェアル・ヤシュブは、上の池の水道の端、布さらしの野への大路に出向いて行ってアハズに会い、
4 彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。
5 アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、
6 「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、
7 神である主はこう言われる。それは起こらない。それはあり得ない。
8 アラムのかしらはダマスコ、そのダマスコのかしらがレツィンだから。──エフライムは六十五年のうちに、打ちのめされて、一つの民ではなくなる──
9 エフライムのかしらはサマリア、そのサマリアのかしらがレマルヤの子だから。あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない。』」

●ユダの王アハズの治世に、「アラムがエフライムと組んだ」という知らせがもたらされました。その時、「王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」とあります。「アラムがエフライムと組んだ」背景には、アッシリアという強大な勢力が台頭して来たため、北イスラエル(=エフライム)とアラムがそれに対抗しようと反アッシリア同盟を結んだのです。ところが南ユダがその同盟に同調しなかったために、力ずくでユダを取り込むべく、攻め入ろうとしたのです。その知らせを聞いて「王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」と表現しています。この「恐れ」は神に対する不信仰を表しています。この恐れから、ユダの王アハズはアッシリアの王に貢物を送り、援助を求めたのです。神以外に頼る、これが偶像礼拝の罪です。これはイスラエルの歴史に繰り返し起こってくる罪です。ですから、イェシュアの誕生をヨセフに告げた御使いはこう言いました。
【新改訳2017】マタイの福音書1章21節
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。
●ここでイェシュアは「ご自分の民をその罪からお救いになる」とあります。「その罪」は複数形です。これは「あの罪、この罪」のことではなく、イスラエルが何度も繰り返す罪を複数形で表しているのです。民の罪とは「偶像礼拝の罪」です。この繰り返される罪にもかかわらず、イェシュアは彼らをその罪から救い出して、「神と人がともに住む」という祝福をもたらす「インマヌエル」なのです。
●イザヤは召命を受けた時(6章)から6年後に、息子「シェアル・ヤシュヴ」を伴い、「上の池の水道の端、布さらしの野への大路」でユダの王アハズに会い、直接、主のことばを伝えます。ちなみに、自分の息子を連れて行くことも、主のことばを告げた場所も、すべてが預言的であり、隠された意味を持っています。息子の名前「シェアル・ヤシュヴ」(שְׁאָר יָשוּב)は「残りの者が帰って来る」という意味です。それは、イスラエルの民がやがて霊によって悔い改め、真に頼るべき方のもとに帰って来るという預言であり、それが「残りの者が帰って来る」という名前に秘められているのです。のです。この「残りの者」はイザヤ書における重要な思想です。またイザヤがアハズに語った場所である「上の池の水道の端、布さらしの野への大路」も預言的・奥義的です。ここはエルサレム郊外にあるギホンの泉のことで、この泉からエルサレム城内に水を引いていました。水の少ないエルサレムにとって、籠城のための水源確保は絶対不可欠でした。国家存亡の危機に際して、アハズがなによりもそこへ赴いたということは至極当然なことですが、イスラエルの真の源泉は「ギホンの泉」ではなく、神ご自身です。そのことを示すために、その所でイザヤはアハズと会っているのです。アハズはそこで神のことばを聞くことになるのです。
●4節「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない」。なぜなら「それ(=連合軍のたくらみ)は起こらない。それはあり得ない」(7節)からです。「恐れ」は、最初のアダムが蛇の言うことを信じた後に生じた感情です。「恐れてはならない」は神がイスラエルに対して絶えず語ってきた命令ですが、人の霊が回復しない限り、この恐れを克服することは決してできないのです。「恐れ」は単なる感情の一つではなく、数々の偶像礼拝を呼び込んでしまう入り口ともなります。ですから、「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない」と命じられているのです。
●これはイスラエルの信仰の基本でした。「気を確かに持ち(なさい)」は「(心を)守る」を意味する「シャーマル」(שָׁמַר)の命令形、および「落ち着いていなさい」も「静かにする」を意味する「シャーカト」(שָׁקַט)の命令形です。特に後者の「シャーカト」は、イザヤ書30章15節にも出てくる重要な語彙です。いずれにしても、主を「信じなければ堅く立つことはできない」のです。これは「たましい」ではなく、「霊」の回復の必要性が隠され語られています。そして「主に、しるしを求める」ことも、霊が回複されなければできないことなのです。しかし神はそのことを隠して(=封印して)要求していることを忘れてはなりません。
2.「主に、しるしを求めよ」
【新改訳2017】イザヤ書7章10~14節
10 主はさらにアハズに告げられた。
11 「あなたの神、主に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも。」
12 アハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」
13 イザヤは言った。
「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。
14 それゆえ、''主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ''。
●イザヤ書7章は大きく二つの部分に分けられます。一つは1~9節の部分、もう一つは10~25節の部分です。前者は差し迫る国家的危機に対して「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない」というメッセージです。そして後者は「信じ堅く立つ」ために、「主に、しるしを求めよ」というメッセージです。「しるしを求める」の「求める」を意味する「シャーアル」(שָׁאַל)という動詞は重要です。イザヤ書7章においてその語彙が11節と12節にあります。一方は命令形で、もう一方はそれを否定するかたちです。つまり、「あなたの神、主に、しるしを求めよ」との命令に対して、アハズは「私は求めません」とあります。しかも「主を試みません」と一見、信仰的なことを語っています。しかし彼はその背後で、アッシリアの王に防衛の保障を求めて賄賂を送っていたのです。Ⅱ列王記16章7~9節にこう記されています。
7 アハズは使者たちをアッシリアの王ティグラト・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から救ってください。
8 アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物としてアッシリアの王に送ったので、
9 アッシリアの王は彼の願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕らえ移した。彼はレツィンを殺した。」
●さて、「あなたの神、主に、しるしを求めよ」(イザヤ7:11)と語るイザヤに対してアハズが「私は求めません」と言うことは、イスラエルの国においては大問題です。イスラエルの歴史において(特に王制の時代になってから)、各王に対する評価は「ダビデのように歩んだ」か、あるいは「ヤロブアムの道を歩んだ」かで決まります。「ダビデのように歩む」とは「主を尋ね求める」ことを意味し、「ヤロブアムの道を歩んだ」とは「主を尋ね求めない」ことを意味するのです。「主を尋ね求め」なければ自分の考え方、自分の能力、自分の情熱によって歩むことになり、これが偶像礼拝をもたらす要因となるのです。
●主にのみ頼るということは、他国と同盟を結ぶことなく、ただ黙って静かにしていることを意味します。北のアッシリアと南のエジプトという強国の間に挟まれた小国イスラエルにとって、「落ち着いていなさい(静かにしていなさい)。恐れてはならない」とは、常識的に考えるならば、不安この上ないメッセージです。しかし、ダビデは「主を信頼する者」「主を尋ね求める者」の象徴的存在です。ダビデは「いのちの日の限り、主の家に住むという、一つのことを主に願い(シャーアル: שָׁאַל)、それを求めた(ダーラシュ: דָּרַשׁ)」王です(詩篇27:4)。これこそダビデの霊性を特徴づけるものです。ダビデの霊性の系譜は、やがてイェシュアにつながります。「主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる」(7:14)というその「一つのしるし」が「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」ことです。つまり、「処女が身ごもり、男の子を産み、その名がインマヌエルと呼ばれる」ことが起こると、それが神のサインなのです。これが「インマヌエル」(עִמָּנוּאֵל)預言と言われるものです。神の民を堅く立たせる「一つのしるし」、「神が私たちとともにいる」というインマヌエルの存在、すなわち「王なるメシア・イェシュア」の誕生です。
●7章で主は、アハズ王に対して「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。」と言います。なぜならアラムとエフライムの連合軍がユダに攻め入ることはなく、8章1~4節では、アラムとエフライムがアッシリアによって滅亡することが記されています。
【新改訳2017】イザヤ書8章1~4節
1 主は私に言われた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。
2 そうすれば、わたしは祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤに、わたしの確かな証人として証言させる。」
3 それから私は女預言者に近づいた。彼女は身ごもって男の子を産んだ。すると、主は私に言われた。「その名をマヘル・シャラル・ハシュ・バズと名づけよ。
4 それは、この子が『お父さん。お母さん』と呼ぶことを知る前に、ダマスコの財宝とサマリアの分捕り物が、アッシリアの王の前に持ち去られて行くからである。」
●8章1~4節には、主がイザヤに、大きな板に人々が分かるはっきりとした字体で「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書くように命じます。これが「預言的行動」と言われるものです。主はこの名前が意味することを4節で語っています。それによれば、きわめて近い将来、アラム(=ダマスコ)とエフライム(=サマリア)の分捕り物がアッシリアによって速やかに持ち去られるということです。事実、そうなりました。ユダに対してはどうでしょうか。7章14節ではじめて登場する「インマヌエル」という語彙は、8章8節と10節にも登場します。
【新改訳2017】イザヤ書8章7~10節
7 それゆえ、見よ。主は、強く水の豊かなあの大河の水、アッシリアの王とそのすべての栄光を彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8 ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって首にまで達する。
その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす。」
9 諸国の民よ、打ち砕かれよ。遠く離れたすべての国々よ、耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。
10 はかりごとをめぐらせ。しかしそれは破られる。事を謀れ。しかしそれは成らない。神が私たちとともにおられるからだ。
●8章7~8節では、アッシリア王とその全軍が押し寄せることを「強く水の豊かなあの大河の水・・は、ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって首にまで達する」とたとえています。また「その広げた翼は・・あなたの地をおおい尽くす」とあるように、大きな鳥が羽を広げて獲物に飛びかかろうとする様子にもたとえられています。しかしそうだとしても、ユダは神が特別に選ばれた民であり、インマヌエルの祝福にあって守られるのです。10節の、ユダに敵対する諸国の民のはかりごとも実現しません。なぜなら、ユダには依然として「神が私たちとともにおられる」(=インマヌエル)という約束があるからです。
●7章14節で預言された「インマヌエル」は、イザヤの二人の息子の名前「シェアル・ヤシュヴ」(残りの者が帰って来る)と「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕りは急、略奪は速やか)が密接な関係をもって展開する、歴史的なメッセージであることが明らかにされます。啓示の順序とそれが成就する順序は逆になっていますが、いずれも「インマヌエルの祝福」に包含されていることには変わりません。イザヤの息子たちの名前が全イスラエルに対するしるし(オート:אוֹת)となっているということです。そのしるしとは「さばきと救い」です。どういうことかといえば、アッシリアがアラム(=ダマスコ)とエフライム(=サマリア)の分捕り物を速やかに持ち去ったように、神のご計画において全イスラエルの滅びが「速やかに来る」ということです。しかし全イスラエルは完全に滅びることなく、「残りの者」だけが救われ、神の民として回復されるのです。
3. 主の啓示を束ね、主のメッセージを封印せよ
(1) イザヤに対する主の励まし
●ユダの人々の目には、イザヤの言動がおそらく「謀反」あるいは「反逆」と映ったようです。しかし主はイザヤを励まし、民の道を歩まないようにと戒め、諭されます。
【新改訳2017】イザヤ書8章11~16節
11 まことに、主は強い御手をもって私を捕らえ、この民の道に歩まないよう、私を戒めてこう言われた。
12 「あなたがたは、この民が謀反と呼ぶことを何一つ謀反と呼ぶな。この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。
13 万軍の主、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。
14 そうすれば、主が聖所となる。しかし、イスラエルの二つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には罠となり、落とし穴となる。
15 多くの者がそれにつまずき、倒れて打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられる。
16 この証しの書を束ねよ。このおしえをわたしの弟子たちのうちで封印せよ。」
●主がイザヤに諭されたことは、「万軍の主、主を聖なる者とせよ。主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき(とせよ)」ということでした。そうすれば、「主が聖所となる」とあります。これはエルサレムにある聖所のことではなく、主にある者たちの霊の部分「シークレット・プレイス」(隠れ場)のことです。主が彼らの聖所となられることで、「残りの者」が立ち上がるのです。イザヤの語ったことばは、最も基本的・原則的な事柄です。神本意のメッセージです。しかし多くの人々はそのことでつまずき、倒れて打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられるのです。「原則はそうであったとしても、でも現実は・・・」という人々にとって、イザヤの語ったメッセージはつまずきとなります。ですから、どんなに人々から謀反者と呼ばれたとしても恐れてはならないと、主はイザヤを戒めているのです。
(2) 主が語られたことばを封印して、主を待ち望め
●主はイザヤに「この証しの書を束ねよ。このおしえをわたしの弟子たちのうちで封印せよ」と命じました。主のメッセージが人々にとってはつまずきであったとしても、そのメッセージが神からのものであったことが明白になるまで、主のことばが確かなものであることを「待ち望む」ことです。「証し」と「おしえ」は同義で、「おしえ」は「トーラー」(תּוֹרָה)のことです。
【新改訳2017】イザヤ書8章17~18節
17 私は主を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みを置く。
18 見よ(ヒンネー:הִנֵּה)。私と、主が私に下さった子たち(=息子たちの名前)は、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、また不思議となっている。
●ここでの「私」は預言者イザヤです。ここに二つの待望用語があります。一つは「待ち望む」と訳された「ハーハー」(חָכָה)で、「一縷の望みとして熱心に待つ」ことを意味します。もう一つは「望みを置く」と訳された「カーヴァー」(קָוָה)です。後者は、ノアが、地が乾いたことを知るために最初は烏を、次に鳩を、さらに七日待って再び鳩を、そしてさらにもう七日待って鳩を箱舟から放ったように(創8:6~12)ときの「待つ」(ヤーハル:יָחַל)と同義です。それは、「主を信頼しながら、期待しながら、沈黙の中で忍耐深く待つ」ことを意味します。こうした姿勢が神の民の回復に向けた「しるし」となるのです(18節)。以下にも、主を待ち望むことが強調されています。
べアハリート
【新改訳2017】イザヤ書30章15節、18~19節、21節
15 イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
18 それゆえ主は、あなたがたに恵みを与え (ハーナン:חָנַן) ようとして待ち(ハーハー:חָכָה)、それゆえ、あわれみを与え(ラーハム:רָחַם)ようと立ち上がられる(ルーム:רוּם)。主が義(=公正:ミシュパート:מִשְׁפָּט)の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望む(חָכָה)すべての者は。
19 ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え(חָנַןの不定詞+未完了)、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。
(※詩130:2参照「私の願い(חָנַןの複数名詞)の声に耳を傾けてください」)
21 あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。
●神である主が預言者イザヤを通して「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」と救いを約束したにもかかわらず、ユダの人々はこれを望まなかったとあります。「立ち返る」ことが簡単ではないことが分かります。これは霊の働きであり、イェシュアの霊によってのみ立ち返ることができるのです。ですから、主の方が忍耐をもって、民が悔い改める時を待っておられるのです。そのことが、18節の「それゆえ」で始まるのです。
【新改訳2017】イザヤ書30章18節
それゆえ主は、あなたがたに恵みを与え (ハーナン:חָנַן)ようとして待ち(ハーハー:חָכָה)、
それゆえ、あわれみを与え(ラーハム:רָחַם)ようと立ち上がられる(ルーム:רוּם)。主が義(ミシュパート:מִשְׁפָּט)の神であるからだ。
幸いなことよ、主を待ち望む(ハーハー:חָכָה)すべての者は。
●「主は、あなたがたに恵みを与えようと」の「恵みを与えようと」は「ラハナン」(לַחֲנַן)で「恵むために」とも訳せます。「ラ」(לַ)は前置詞「~のために」を意味し、「恵む」は「ハーナン」(חָנַן)で「あわれむ」ことを意味します。主のあわれみは人の霊の目を開かせることで顕著に表されます。つまり主が「あなたがたに恵みを与えようと」とあるのは、主が「あなたがたの霊の目を開かせたい」と願っているからです。そのために主は「待っておられる」のです。ここの動詞「ハーハー」(חָכָה)は、放蕩息子の父がいつ帰って来るのか分からない自分の息子を忍耐と大いなる期待をもって待っている(ルカ15:20)、そのようなニュアンスです。ひとたびイスラエルの民が主に立ち返るなら、主は彼らを「あわれみを与えようと立ち上がられる」のです。これも放蕩息子の父のイメージです。「もう、息子と呼ばれる資格はありません。」という息子に対して、父はなんら責めることなく、彼を受け入れ、最高のもてなしをします。これが「あわれみを与えようと立ち上がられる」ということです。ここでの「あわれむ」は「ラーハム」(רָחַם)が使われています。「ラーハム」の名詞が「子宮」を意味することから、最も深いところにある心情を意味する「あわれみ」―やがてイェシュアが「かわいそうに思って」何らかの行動を起こす要因となる心情で「ハーナン」(חָנַן)と同義です。主はあわれみをもって「立ち上がられる」(ルーム:רוּם)のです。
あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから
「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。
●21節は「あなたが右に行こうと左に行こうと、主との最善のかかわりが保たれるような道に歩むように、背後から主が声をかけて下さる」という意味であり、決して、右に行けとか、左に行けといった命令や指示を背後から与えるのではなく、むしろ最善のかかわりの中で、人が霊によって自由に歩むようになるのです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2025.6.8
a:270 t:1 y:1

