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「エシュルン」と呼ばれるイスラエル

14. 「エシュルン」と呼ばれるイスラエル

【聖書箇所】イザヤ書43章22~28節/44章1~8,21~22節

ベレーシート

●前回のメッセージ(43:19)で、「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける」を取り上げました。「今、それが芽生えている」(=改訂第三版「今、もうそれが起ころうとしている」)とは、42章9節の「・・新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる」ことと同義です。しかし異なる点があります。43章の「新しいこと」は「ハダーシャー」(חֲדָשָׁה)で単数形であるのに対して、42章9節の「新しいこと」は「ハダーショート」(חֲדָשׁוֹת)と複数形です。いずれも「主のしもべ」であるイェシュアによってなされる「新しいこと」ですが、それには二段階あるのです。たかが単数・複数、されど単数・複数を今回味わってみたいと思います。

1.聖書が告げる「新しいこと」

●43章の単数形で表される形容詞の「新しいこと」とは、イェシュアが再臨されることで実現するメシア王国(千年王国)の出来事です。しかし42章の複数形で表される形容詞の「新しいこと」とは、地上に来られたイェシュアがその死と復活によって実現される出来事であり、「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)ということばに言い表されています。御国の到来には二段階があるということを、イザヤは「新しいこと」の単数と複数で表そうとしています。

●イェシュアが宣教を開始された時に語られたことばは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。「悔い改めなさい」は現在命令形です。つまり何度でも繰り返し「神に立ち返る」ことを命じることばです。「近づいた」は現在完了形です。ギリシア語の現在完了形とは、過去になされた出来事(ここでは王となるべきイェシュアがこの世に来られたということ)が、現在も続いていることを表します。これは御国の王となるべきイェシュアが人としてこの地に来られたことで、御国が限りなく近づいていることを意味しています。しかし御国はまだ到着していないのです。なぜなら、「御国」(マルフート)とは神が統治する国です。神が統治する御国には、「王」と「その民」と「領土(地)」がなければなりません。御国がこの地に到着する(実現する)のには、二段階があるのです。

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●「天の御国(神の国)が近づいた」の「近づいた」(現在完了形)とは、イェシュアがこの世に「人として来られた」ことを意味しています。そのことで「御国が近づいた」のです。しかし「近づいた」ことと「到着する」こととは異なります。来臨されたイェシュアが十字架上で「完了した(された)」と宣言されたことで、人が神に近づく道が一回的に、かつ完全に開かれたことを意味します。ここでもまだ御国は到着していません。つまり「天の御国はあなたがたの中にある」とは言えないのです。このことが実現するのは、イェシュアが死んで葬られ、三日目によみがえり、「いのちを与える御霊」となって人の霊の中に内住することで、「御国が来た(到着した)」と言えるのです。

●御国の到来(到着)の「すでに」という最初の段階では、王が「復活のイェシュア」、その民が「イェシュアの弟子たち」、領土が「良い地」(マタイ13:8)すなわち「人の霊」において実現しました。神の視点から言うなら、D-day(=Deterministic day/決定的勝利の日)です。そして御国の「いまだ」という最後の段階は、王が「再臨のイェシュア」、その民が「贖われたすべての者たち(ユダヤ人と異邦人)」、領土は「エルサレムを中心とする全地」です。神の視点から言うなら、これはV-day(=Victory day/究極的勝利の日)です。「すでに」と「いまだ」の両方を含んでいるなら複数形の「新しいこと」(ハダーショート:חֲדָשׁוֹת)で表され、「いまだ」のメシア王国(千年王国)だけなら、単数形の「新しいこと」(ハダーシャー:חֲדָשָׁה)で表していると考えられます。これがイザヤの預言した「新しいこと」の二段階です。

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●イザヤ書で使われている形容詞の「新しい」は10回です。まとめてみるなら、以下のようになります。

①41章15節「見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。」
※「新しい」は単数形。「あなた」である「イスラエルの残りの者」を、終わりの日に異邦人を収穫するための打穀機とするとしているので、この預言はメシア王国直前の出来事を指しています。

②42章9節「初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」
※ここでの「新しいこと」は複数形。「すでに」と「いまだ」の両方を含んだ「御国の福音」を指します。

③42章10節「新しい歌を主に歌え。」
※「新しい」は単数形。この歌はメシア王国で歌われる歌と見なせます。

④43章19節「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」
※ここでの「新しいこと」は単数形。メシア王国での祝福を語っていますが、それはすでに「芽生えている」
のです。

⑤48章6節「・・わたしは今から、新しいことを、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる。」
※「新しいこと」が複数形であることから、これはイェシュアによって語られる(「すでに」と「いまだ」を含む)「御国の福音」だと理解できます。それは「あなたの知らない秘め事(ナーツァル/נָצרの複数分詞)」だとも言われています。「秘められた事柄」と奥義の「ソード」(סוֹד)とは同義です。

⑥62章2節「そのとき、国々はあなたの義を、すべての王があなたの栄光を見る。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。主の御口が名づける名で」
※ここでの「あなた」とはシオンのことです。「新しい名」は単数形ですから、それはメシア王国で名づけられる名と言えます。

⑦⑧65章17節「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。」
※ここでの「新しい天」は天が双数形なので、当然「新しい」も複数形(ハダーシーム:חֲדָשִׁים)となっています。しかし「新しい地」の「新しい」は単数形です。18節で「わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」とあるので、当然ながら後者の「新しい」はメシア王国のことを指しています。

⑨➉66章22節「わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──主のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。」
※「新しい天と新しい地」は⑦⑧と同じです。異なっていることは、それぞれに冠詞がついていることです。これは明らかに65章を引き継いでいることを意味します。また65章では「創造する」(バーラー:בָּרָאの分詞)ですが、66章では「造る」(アーサー:עָשָׂהの分詞)としている点です。これは御国において再創造したものが、継続されていくことを語っています。

●以上、イザヤ書における「新しいこと」の単数と複数の微妙な違いを見て来ました。単数形で表される「新しいこと」はメシア王国を指していますが、イェシュアの初臨によって始められた事柄(霊による回復/再創造)がイェシュアの再臨によって完成されるということには変わりません。ですから新約の「新しい」(カイノス:καινός)はほとんど単数形なのです(Ⅱコリント5:17、ガラテヤ6:15)。しかし複数形で語っている箇所があります。それは「新しいぶどう酒とそれを入れる皮袋」のたとえ話です。そこに注目してみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書 9章17節
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。

●「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます」という話ですが、ここでいう「両方とも」とは「新しいぶどう酒新しい皮袋」の関係の重要性を意味しています。単数形で表される「新しいぶどう酒」は、「新しい契約」「新しい心」「新しい霊」「御国の福音」と解釈することができます。それを入れる「皮袋」は古くても、新しくても、いずれも複数形です。この複数形は何を意味するのでしょうか。その複数形は単に皮袋という器の数を意味するだけでなく、新しいぶどう酒を入れる「場所と時期」を意味していると思われます。

●つまり、新しいぶどう酒を入れる「場所」について考えるなら、キリストによって贖われた者の場合の「新しい皮袋」の一つは、個別的な「人の霊」であり、もう一つは集合的・団体的に「メシア王国」を意味します。ちなみに「古い皮袋」の一つは「人のたましい」であり、もう一つは神に敵対して最後にさばかれることになる「ストイケイア」を意味します。「古い皮袋」ではいずれも「新しいぶどう酒」が台無しになってしまうのです。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます」の「両方」とは、神のご計画における「すでに」と「いまだ」の御国の到来の区別を表していると考えられるのです。

●イザヤ書に戻ります。このように、神はご自身が選んだイスラエルに対して、繰り返し「わたしは新しいことをする」と語って来たのです。しかしこの神の呼びかけに対して、イスラエルは応えて来ませんでした。43章22~24節にヤコブ(=イスラエル)の主に対する七つの強い否定辞、①~⑤は「ロー」(לֹא)、⑥~⑦は「アフ」(אַךְ)があるからです。

①「あなたはわたしを呼び求めなかった。」
②「あなたはわたしに全焼のささげ物の羊を携えて来ることはなかった。」
③「(あなたは)いけにえを献げてわたしをあがめようともしなかった。」
④「あなたはわたしのために、金で菖蒲を買わなかった。」
⑤「(あなたは)いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。」
⑥「あなたの罪でわたしに苦労をさせた(重荷を負わせた)。」
⑦「あなたの咎でわたしを煩わせた。」

●しかしながら①~⑦の事実にもかかわらず、主はイスラエルの民にこう言われます。

【新改訳2017】イザヤ書43章25節
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪(=咎/ぺシャ: פֶּשַׁע)をぬぐい去り、もうあなたの罪(חַטָּא)を思い出さない。

●なにゆえに、「あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」のでしょうか。その理由は「わたし自身のために」とあります、これは神が主権的にイスラエルの民を選んだがゆえです。神が一方的に選んだ者に対して注がれる恵みを「ヘセド」(חֶסֶד)と言います。それは「真実の愛」を意味します。それゆえ、神はイスラエルが立ち返ることができるために、恵みを注がれるのですが、その具体的な愛が「背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」のです。どのようにして罪を「ぬぐい去り」「思い出さない」ようにするのかは、ここでは一切記されてはいません。しかしやがて明らかにされます。それは「主のしもべ」によってすべての負債を支払うことによってです。ここではそれが隠されています。さらに、こうも言われます。

【新改訳2017】イザヤ書43章27~28節
27 あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの仲保者たちはわたしに背いた。
28 それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるように、イスラエルがののしられるようにした。

●「あなた」であるヤコブ(イスラエル)の最初の先祖とはアダムのことです。アダムも王なる祭司の務めが与えられていましたが、蛇の言うことばを信じるという罪を犯し(ハーター:חָטָא)、そして「あなたの仲保者たち(LXX訳は「支配者たち」)」であるイスラエルの祭司たちや王たちも神に背いた(パーシャー:פָּשָׁע)がゆえに、その王なる祭司としての務めが果たせなくなってしまったのです。それゆえ主は、聖所のつかさたち(=大祭司と祭司)を汚し(ハーラル:חָלַל)、聖絶(ヘーレム:חֵרֶם)されるように、かつイスラエルの民がののしられる(=侮辱/ゲドゥーファー:גְּדוּפָהの複数)ようにするのだ、と言っています。これは具体的には、バビロン捕囚とも、世界離散とも、そして獣と呼ばれる反キリストによる大患難とも重層的に解釈できます。ひとたび汚れたならば(=汚染されたならば)廃棄する以外にないわけですが、そんな彼らに対して語ったことばが44章1~5節です。

2. わたしの選んだエシュルン

【新改訳2017】イザヤ書44章1~2節
1 「今、聞け。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。

●44章では「わたしのしもべヤコブ」「わたしの選んだイスラエル」、そして「イスラエル」が「エシュルン」と言い換えられます。「エシュルン」という呼び名はイスラエルの愛称(雅名)です。申命記32章15節ではじめて使われますが、同じく33章5節と26節でもその愛称で呼ばれています。この「エシュルン」の語源は、「真っ直ぐにする、正しく考える、物事を正す」といった意味の動詞「ヤーシャル」(יָשַׁר)から来ています。使われているのは「正しい(=真っ直ぐな)」という形容詞の「ヤーシャール」(יָשָׁר)で、現実のイスラエルにはほど遠い名前です。しかし、イスラエルは、主から「だれがあなたのようであろう」(申33:29)と言われるほどに、特別に神に愛された存在、そして不思議な存在なのです。とても「真っ直ぐ」とは言い難い不真実なイスラエルですが、ここでは「真っ直ぐ」を意味する「エシュルン」と呼ばれているのです。それは、神がやがて必ずそうするという預言的な呼称なのです。

●43章でも触れた「水」の注ぎについて、主は再び言及されると同時に、「主の霊」の注ぎについても言及しています。

【新改訳2017】イザヤ書44章3~4節
3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。
4 彼らは流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。

●3節の冒頭に接続詞の「キー」(כִּי)があります。ここでは訳出されていませんが、訳出するなら「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところ(ヤッバーシャー:יַבָּשָׁה)に豊かな流れを注ぐようにわたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ(ヤーツァク: יָצַק)」となり、それゆえ「彼らは流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える(ツァ―マハ:צָמַח)」のです。ここでの「彼ら」とは「あなた(ヤコブ=イスラエル)の子孫(=末裔)であり、エシュルンすなわち「イスラエルの残りの者」のことです。それが「青草の間に芽生える」のです。「青草」(ハーツィール:חָצִיר)は「種のない草、すなわちキリストなきトーラーで生きるイスラエル」を意味します。そのような中から芽生えて来るのが、神の霊を注がれた「イスラエルの残りの者」なのです。「芽生える」の「ツァーマハ」(צָמַח)は、神である主がエデンの園に人に食べさせるための木を「生えさせた」(ツァーマハ: צָמַח)と同じです。

●「水」と「霊」には密接なつながりがあります。それは「いのちの回復」「いのちへの刷新」という概念です。エゼキエル書37章には「すっかり干からびてしまった骨が生き返る」というヴィジョンが記されています。そこでは干からびた骨に主の息が吹きつけられることによって、はじめて生き返ります。息がそれらの中に入ることで、生き返り、自分の足で立ち上がるのです。これは再生したイスラエル(=イスラエルの残りの者)を意味しています。こうして世界各地に散らされたイスラエルの民が故国に帰ってその地に住み着くのです。イスラエルの建国(1948年)以来、ユダヤ人たちはイスラエルの地に帰って来ています。しかし彼らはいまだ生き返ってはいません。エゼキエル書37章の預言はメシア王国(千年王国)の直前に実現される預言と言えます。「水」はいのちを芽生えさせる象徴です。メシア王国では地ののろいは消えるため、多くのいのちが本来の在り方を現すのです。神の栄光がこの地に現されるのです。神はご自身が約束したこと、宣言したことを、将来において必ず実現させる方です。そしてその証人となるために、イスラエルが選ばれているのです

3. 「わたしのほかに岩はない」(6~8節)

 【新改訳2017】イザヤ書44章6~8節
6 イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう言われる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。
7 わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べ立ててみよ。彼らに未来のこと、来たるべきことを告げさせてみよ。
8 おののくな。恐れるな。わたしが、以前からあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があるか。ほかに岩はない。わたしは知らない。

●イスラエルの民が神によって選ばれたのは、「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない」ことの証人とするためです。神は全歴史を初めから終わりまで支配しておられる方です。地における出来事は、すべて神のご支配によりご計画に従って正確な順序と時に起こされ、神のみこころに従って秩序をもって配列され、かつ予告されます。そして神のみむねによって最善に整えられて、神の目的が実現・成就されます。このような神を「」というメタファーで表しているのです。

●「まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。」(第三版:詩篇18:31)とあるように、「神」と「岩」(ツール: צוּר)が同義で使われています。18篇2節にも「身を避けるわが岩、わが神」とあります。他の例としては、「救いの岩」(詩95:1)、「力の岩」(詩31:2)の「岩」も「神」と同義です。詩篇61篇2節の「どうか、及びがたいほど 高い岩の上に、私を導いてください」の「及びがたいほど 高い岩」も神を表す表現です。使徒パウロはこの「岩」のことを「キリスト」と解釈し、その岩から出る水を「御霊」と解釈しています(Ⅰコリント10:4)。まさに「岩」のメタファーの中に「三一の神」が証しされています。

●イザヤ書44章9~20節には、偶像を造り、それを慕うことは空しいことが語られています。「おのが腹を神とする」ことは、自分の欲望に従って生きることです。そのことの空しさが訴えられています。そして偶像は「私たちのたましいを無限に肯定する神」です。悪魔は「この世の栄華を見せて」、人々を誘惑し、この世のこの上ない富と贅沢を味わわせます。ですから世の多くの人々が彼(=獣と呼ばれる反キリスト)に従うようになるのですが、それは一瞬にして滅びる運命にあります。エシュルンをエシュルンたらしめる力は偶像の神にはありません。それは何の役にも立たない神であり、それを造る者もみな空しく、恥を見るのです。

ベアハリート

【新改訳2017】イザヤ書44章21~22節
21 ヤコブよ、これらのことを心に留めよ。イスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしがあなたを形造った。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ、あなたはわたしに忘れられることがない。
22 わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」

●何の役にも立たず、恥を見させられる偶像を頼ることから、「わたしに帰れ」と主は言われます。22節では「帰れ」ということばが強調されています。原文ではそのことを強調するために「帰れ」を長形の命令形を使うことで表しています。原文を見てみましょう。

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●普通ならば、右図の赤色部分のように「シューヴー」なのです。

画像の説明

●しかし「長形命令形」はヘブル語の文法書でも説明されることは少ないのですが、あることを強調するとき、また、ある気持ちを強調するときに用いられるようです。ここでは「主に返る」、「主に立ち返る」(新共同訳は「主に立ち帰る」)ことが強調されているのですが、それは「立ち帰り」を可能とするお膳立てがすでにできているからです。そのお膳立てとは「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った」という神のあわれみの事実です。「消し去った」は預言的完了形です(イザヤ25:8、43:25)。イザヤ書においてきわめて重要な語彙です。「消し去った」は「罪を赦した」ことを意味します。罪の赦しのための代価が支払われたのだから、「わたしに帰って来なさい」と命じているのです。あの罪この罪を悔い改めるのは「たましいの悔い改め」であり、また繰り返してしまうことで、心が萎えます。ここでは、ただ「神に向かって帰る」ことが強調されているのです。新改訳では、第三版までは一貫して「罪を悔い改める」と訳していました。しかし2017版では「罪から立ち返る」に改訳されています。原文はただ「神に立ち返る」、あるいは「罪から神に立ち返る」です。神に立ち返ることができるのは、すでに罪が赦されているからです。イザヤ書44章22節はそのことを正しくイメージさせてくれる箇所と言えます。

●主の贖いのみわざはすでにイェシュアの十字架と復活によって実現しています。御国は人の霊の中に来ています。しかし御国が全地において来るのは、イェシュアが再臨される時です。すでに御国の福音を聞き、異邦人クリスチャンとメシアニック・ジューからなる「エックレーシア」にある人々は喜んでいます。しかし終わりの日において、神の選びの民であるイスラエルの残りの者が主の贖いを悟った時、爆発的な喜びとなるのは「いまだ」なのです。メシア王国(千年王国)は、天も地も、またその中にいるすべての異邦人が、イスラエルの残りの者に現された主の栄光を見て喜び叫ぶのです。最後に、イザヤ書44章の神の選ばれたエシュルンに対する主の約束を、再度振り返りましょう。

【新改訳2017】イザヤ書44章2~5節
2・・・恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。
3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。
4 彼らは流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。
5 ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名で自分を呼び、ある者は手に『主のもの』と記してイスラエルの名を名乗る。」

●「わたしの選んだエシュルン」と呼ばれるイスラエルの残りの者の上に「主の霊」が注がれる結果、」異邦人の上にも主の祝福が臨むことが記されています。5節に三回記されている「ある者」の最初の者は「私は主のもの」と言い、第二の者は「ヤコブの名で自分を呼び」、第三の者は「手に『主のもの』と記してイスラエルの名を名乗る」とあります。これらは、ヤコブ(エシュルン)の仲間となることの特権的意識を表しています。使徒パウロのことばに従えば、この「ある者」とはイスラエルに接ぎ木された異邦人のことです。ここにユダヤ人と異邦人がともに、キリストにある相続財産を受けることの喜びが預言されているのを見るのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.11.09
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