****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「シオンを慰める主」

21. 「シオンを慰める主」

【聖書箇所】イザヤ書51章1~23節

ベレーシート

●イザヤ書51章は大きく二つに分けられています。一つは1~11節、もうひとつは12~23節です。また、語る主体が主ご自身(1~8節、12~20節)とそれに応答して語るイザヤ(9~11節、21~23節)とが、交互に置かれています。いずれの内容も、メシア・イェシュアによってなされる終わりの事柄が語られています。そのことを知るためには、私たちの霊の目が開かれる必要があります。そのために「シェーム・イェシュア」と呼ぶことは重要です。なぜなら、主ご自身が『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』(エレミヤ33:3)と語っておられるからです。主の御名を「シェーム・イェシュア」と呼び求めることによって、私たちの霊を用い、霊によって理解し、霊の中にとどまるのです。

●イェシュアは「聖書は、わたしについて証ししている」(ヨハネ5:39)と言われました。イザヤ書は66章から成っています。前半の1~39章は旧約の39の書に相当し、後半の40~66章は新約の27の書に相当します。とりわけ、51~52章は「二つで一つの章」となっています。51章ではメシアが主のしもべとして「イスラエルを神に連れ戻して地を復興すること」が語られており、52章ではそのメシアが「王として支配すること」が語られています。今回取り上げる51章には「主の御腕」という力ある主の名前が登場します。その名前こそが「シオンに慰めをもたらす」のです。

1. 「わたしに聞け」

【新改訳2017】イザヤ書51章1~3節
1 「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け
あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ。
2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼一人を呼び出し、彼を祝福し、彼を増やしたのだ。
3 まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。

●1節の原文での冒頭句は「わたしに聞け」(シムウー・エーライ: שִׁמְעוּ אֵלַי)です。そして「目を留めよ」、「考えてみよ」と畳みかけています。誰に向かって命じているのかといえば、「義を追い求める者」(複数分詞、ロードゥフェー・ツェデク: רֹדְפֵי צֶדֶק)、および「主を尋ね求める者」(複数分詞、メヴァクシェー・アドナイ:מְבַקְשֵׁי יְהוָה)です。これらは同義的パラレリズムです。「義を追い求める者」と「主を尋ね求める者」とはどういう人たちのことでしょうか。使徒パウロがローマ書9章30~32節で述べているように、それは「行いではなく、信仰によって追い求める者」です。しかし「(=救い)」は、イスラエルよりもエックレーシアの方が先に得たのです。まさに「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」(マタイ19:30, 20:16)とある通りです。「先にいる多くの者」とはイスラエルのことであり、「後にいる多くの者」とはエックレーシアのことです。イスラエルと言っても、義とされる(=救われる)のは「イスラエルの残りの者」であることは言うまでもありません。なぜなら、こう言われているからです。

【新改訳2017】イザヤ書10章20~23節
20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る(シャーアン:שָׁעַןの受動態)。
21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
22 たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。
23 すでに定められた全滅を、万軍の神、主は、全地のただ中で起こそうとしておられる。

●51章1~2節で、主はご自身の民に対して「あなたがたが切り出された岩」、「あなたがたの掘り出された穴」に目を留めよ(ハッビートゥー:הַבִּיטוּ)」と命じます。「岩」と「穴」は「起源、家系」などを表す比喩です。「あなたがた」である「イスラエルの残りの者」に、自らの家系の起源に目を留めよと命じられています。それは「父アブラハムとあなたがたを産んだサラのことを考えてみよ(=目を留めよ:הַבִּיטוּ/נָבַט)」ということです。つまり彼らのルーツであるアブラハムとサラに目を留めるなら、「わたしが彼一人を呼び出し、彼を祝福し、彼を増やした」ことが分かるだけでなく、神がアブラハムに対してなされた約束(子孫繁栄、土地の賦与、万民祝福)も必ず実現するということを思い起こさせているのです。この約束は主の一方的な約束であり、イスラエルの民が真実であるか否かにかかわらず、必ず実現される約束なのです。

●特に、3節の「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする」という預言は重層的です。神の民がバビロン捕囚となったときも、世界離散したときも、また終わりの時の未曾有の大患難の時にも、廃墟とされたシオンを「主は慰める」からです。その中でも特に、終わりの日の慰めが本体です。単にイスラエルの民を回復するだけでなく、シオンもかつてのエデンのように、主の園のようにし、楽しみと喜びを回復してくださるからです。このことは、イザヤ書35章にも預言されていました。

【新改訳2017】イザヤ書35章1~2節
1 荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。
2 盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。

●このようなシオンの回復は、バビロン捕囚からの解放のときにはなかったことです。しかしメシア王国においては、シオンはエデンの園のように回復すると同時に「楽しみと喜び、感謝と歌声」(51:3)が溢れるのです。「楽しみと喜び」のフレーズはメシア王国の特徴です。それゆえ「義を追い求める者(複)」「主を尋ね求める者(複)」は、自分たちの「父アブラハムとあなたがたを産んだサラのこと」に目を留めよ(=目を注げ)との主の声を、「聞け」と命じられているのです。

【新改訳2017】イザヤ書51章4~8節
4 わたしの民よ(עַמִּי)、わたしに心を留めよ(קָשַׁב)。
わたしの国民よ(レウーンーミー:לְאוּמִּי)、わたしに耳を傾けよ(אָזַן)。おしえ(תוֹרָה)はわたしのもとから出て、わたしが、わたしのさばき(מִשְׁפָּט)を諸国の民の光と定めるからだ。
5 わたしの義は近く(カローヴ:קָרוֹב)、わたしの救いは現れた(ヤーツァー:יָצָא)。わたしの腕は諸国の民(עַמִּים)をさばく。島々(イッイーム:אִיִּים)はわたしを待ち望み(קָוָה)、わたしの腕に期待をかける(יָחַל)。
6 目を天に上げよ。また、下の地を見よ。まことに、天は煙のように消え失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者はブヨのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義は絶えることがない。
7 義を知る者たちよ、わたしに聞け心にわたしのおしえを持つ民よ、人のそしりを恐れるな。彼らの、ののしりにくじけるな。
8 まことに、シミが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる。」

4~8節もメシア王国の預言でパラレリズムになっています。その内容は「おしえ(תוֹרָה)はわたしのもとから出て、わたしが、わたしのさばき(מִשְׁפָּט)を諸国の民の光と定めるからだ」の意味です。言い換えるなら、「主の民が主の教えを心に持つことで、主は瞬く間に、諸国の民(アンミーム:עַמִּים)の光として輝かす」と解することができます。これが「イスラエルの残りの者」を通して「数えきれない大勢の異邦人」に、御国の福音を伝えることで救いをもたらすということです(ヨハネ黙示録7章)。このことは、すでにイザヤ書40章11節で語られていました。

【新改訳2017】イザヤ書 40章11節
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊(テラーイーム:טְלָאִים)を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊(アーロート:עָלוֹת)を優しく導く。

●主は「羊飼いのように」、御腕に「子羊たち」(テラーイーム:טְלָאִים)を引き寄せ、懐に抱き、「乳を飲ませる羊」(アーロート:עָלוֹת)を優しく導かれます。「乳を飲ませる羊」とは、神のみことばを教える祭司たちのことで「イスラエルの残りの者」のことです。イスラエルの残りの者は最強の「王なる祭司」となり、イェシュアが伝えた御国の福音を「数えきれない大勢の異邦人」である「子羊たち」(テラーイーム:טְלָאִים)に伝えて、彼らを救うのです(黙示録7章)。神の愛が彼らを「飼い」「引き寄せ」「抱き」「導く」という一連の動詞の中に表されています。

●51章7節の「心にわたしのおしえを持つ民」(アム・トーラーティー・ヴェリッバーム:עַם תּוֹרָתִי בְלִבָּם)とは、エレミヤが預言した「新しい契約」を結ぶことになる者たち(エレミヤ31:31~34)のことでもあります。つまりその契約を結ぶのは「イスラエルの残りの者」です。「新しい契約」(ベリート・ハダーシャー:בְּרִית הֲדָשָׁה)が本来的に結ばれる対象はイスラエルの家およびユダの家、つまり「全イスラエル」なのですが、神のご計画においては、「先にいる多くの者(イスラエル)が後になり、後にいる多くの者(エックレーシア)が先に」となるのです。

【新改訳2017】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ(ヒンネー:הִנֵּה)、その時代が来る(第三版「見よ。その日が来る」)──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約(=シナイ契約)のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

●各節に「ー主のことばー」(ネウム・アドナイ:נֶאֻם־יהוה)が繰り返されています。このフレーズは、主のことばは必ず実現・成就するという神の確約を強調するものです。旧約聖書の中で「新しい契約」ということばが出てくるのは、このエレミヤ書31章31節の一回のみです。新約では7回(ルカ22:20/Ⅰコリント11:25/Ⅱコリント3:6/ヘブル8:8, 13, 9:15, 12:24)言及されています。エレミヤが預言した「新しい契約」の「新しさ」とは、契約の内容の新しさではなく、結ばれ方の新しさです。モーセを通して結ばれた「旧い契約」(シナイ契約)は二枚の石の板に神の律法が書き記されました。つまり石に書かれた文字を通して結ばれた契約でした。しかしエレミヤが預言した「新しい契約」は石の板ではなく、人の心のただ中に記される契約です。旧い契約では神の意志が人の心の外に置かれていました。しかし新しい契約では神の意志が人の心のただ中に書き記されます。神の意志である律法そのものは変わりませんが、律法を人の心の中に書き込むことによって、律法の本来の機能を回復させるのです。したがって「新しい契約」の「新しさ」とは、旧いものを破棄するのではなく、むしろそれを完成させるためなのです。ですからイェシュアは「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。・・・すべてが実現します。」(マタイ5:17~18 )と言われたのです。しかしながら、霊を与えることによって成就するということが、ここではまだ隠されています。

●使徒パウロがローマ書7章12節で記しているように、「律法は聖なるもの」であり、「戒めも聖なるものであり、正しく、また良いもの」なのです。本来、律法は人を生かし、神とのかかわりのいのちを豊かにして人を自由にするために神が与えられたものです。しかし「人の霊」が機能不全を起こしているため、人の努力で行うことができませんでした。そのために、イェシュアが人となって一連のすべての贖いの出来事がなされる必要があったのです。とりわけ、イェシュアの死によって最初のアダムを終わらせて、復活の日に秘密の昇天によって与えられた「いのちを与える霊」(=もう一人の助け主/真理の御霊/聖霊)が与えられることで人の霊が回復し、その中に神の霊が内住されることで人は律法に従うことができるようになるのです。復活の日の夕べ、イェシュアが弟子たちのところにやって来て息を吹きかけ、聖霊を受けたことで、キリストにある新創造がすでに包括的に「エックレーシア」において実現しています。しかし、いまだ「イスラエルの残りの者」には実現していません、しかし必ず実現するのです。それを示しているのが、「ー主のことばー」「ネウム・アドナイ:נֶאֻם־יהוה」です (新改訳第三版までは「主の御告げ」と訳されていました)。それは彼らに「恵みと嘆願の霊」(ゼカリヤ12:10)が注がれることによって実現されるのです。

●「新しい契約」はイェシュア・メシアの復活によって、すでに包括的に「エックレーシア」において実現しています。しかし、いまだ「イスラエルの残りの者」には実現していませんが、必ず実現するのです。それを示しているのが、「ー主のことばー」(第三版までは「主の御告げ」)と訳されている「ネウム・アドナイ:נֶאֻם־יהוה」なのです。そしてそれは、彼らに「恵みと嘆願の霊」(ゼカリヤ12:10)が注がれることによって実現されるのです。

●神の意志が人の心に書き記されて律法全体を生かし完成させるためには、サタンの覆いが取り除かれる必要があります。なぜなら、人々の心には覆いがかけられているからです。この覆いは、人がキリストに向くことによってはじめて取り除かれます(Ⅱコリント3:12~18)。それは全く新しい神のアプローチでした。キリストの福音は、律法違反によるのろいという負債を一切免除してくださるという恵みを意味しています。それゆえ私たちはなんら責められることなく、なんら咎められることなく、ありのままに、臆することなく、ためらうことなく、恥じらうことなく、大胆に、神の前に近づくことができるのです。さらにはこのキリストによる恵みの福音を正しく理解するための新しい霊(=聖霊)が与えられることによって、はじめて神の律法が私たちのうちに書き記され、主を知る者とさせられるのです

2.「目覚めよ。目覚めよ。力をまとえ。主の御腕よ」(目覚めのテーマ)

【新改訳2017】イザヤ書51章9~11節
9 目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、主の御腕よ。目覚めよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか
10 海を、大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々が通るようにしたのは、あなたではないか
11 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭には、とこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

●1~8節の主の語りかけに対して、9~11節はイザヤが主に語りかけます。「目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、主の御腕よ」と呼びかけ、「目覚めのテーマ」が始まります。ここでは主の御腕(ゼローア・アドナイ:זְרוֹעַ יהוה)に向かってイザヤが語りかけています。「主の御腕」とはメシア・イェシュアのことです。メシアに対して、「力をまとえ」(リヴシー・オーズ: לִבְשִׁי־עֹז)、「目覚めよ。昔の日、いにしえの代のように」と語っています。出エジプトの際、イスラエルの民の最初の障害は紅海でした。彼らの背後にはファラオの軍勢が追い迫っていましたが、イスラエルはそのような状況に対して何もすることができません。そのとき主の御腕が、強風を吹かせ、水を分けたのです。海は干上がり、贖われたイスラエルの民は海の中の「乾いた地」(ヤッバーシャー:יַבָּשָׁה/創世記1:9)を歩いて行ったのです。これは神がなされた歴史的事実です。「ラハブ」と「竜」はエジプトのメタファーです。

●「海」もイスラエルに敵対する国々を表すメタファーでもあります。イェシュアがいちじくの木を枯らしたことに驚いた弟子たちに対して、「たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言っても、そのとおりになります。」(マタイ21:21第三版)と言われたことがありました。「山」は神殿ユダヤ教のメタファーで、海はそれに対抗する諸国のメタファーです。つまり「山に向かって、『動いて、海に入れ』」とは、ユダヤ人の世界離散を意味する預言です。A.D.70年にそれは実現しました。しかし終わりの日には、それと反対のことが起こるのです。つまり「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭には、とこしえの喜びを戴く」ことが起こるのです。その結果、「楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る」としています。「逃げ去る」(ヌース:נוּס)は預言的完了形で、必ず起こることを意味します。まさにここに主の慰めがあるのです。イザヤ書51章で語られていることは、神の民がバビロン捕囚から解放されて帰還する出来事をはるかに越えた、終末の救いが語られているのです。しかも神の視点からするならば、それが「すみやかに」なされるのです。残念ながら、新改訳はそのことばを訳していません。しかし新共同訳は、「瞬く間に」(レガ: רֶגַע)と訳しています(4節)。

3. エルサレムに対する「慰め」

【新改訳2017】イザヤ書51章12~16節
12 「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。
13 天を延べ広げ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、虐げる者の憤りにおののいている。まるで滅びに定められているかのように。その虐げる者の憤りはどこにあるのか。
14 うずくまる捕らわれ人もすぐに解き放たれ、死んで穴に下ることはなく、パンにも事欠かない。
15 わたしはあなたの神、主。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。
16 わたしのことばをあなたの口に置き、この手の陰にあなたをかばい、天を置き、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う。」

画像の説明

●12節の「わたし」はイェシュア、「あなたがた/あなた」はイスラエルを指しています。イザヤ書40章1節で「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と語った主は、51章12節で「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者」と宣言します。同19節では「どのようにして、あなたを慰めようか(別訳:だれがあなたを慰めるだろうか)」とも語っています。「慰め」とは「回復」と同義です。「慰める」という動詞「ナーハム」(נָחַם)の三つの子音の意味を組み合わせると(=文字遊びすると)、「ヌーン(נ)」は「魚」、「へート(ח)」は「いのち」、「メーム・ソフィート(ם)」は「水」を意味します。総合するなら「水を得た魚」という意味になります。神である主はご自身が選ばれた民をどのようにして「水を得た魚」とするのか、そのための神のご計画が15~16節に記されています。

●12節の「あなたがたを慰める者」、その方こそが「あなたを造った」創造主です。その方が「あなたは、何者なのか」と問いかけ、「死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは」と問いかけています。ここでの「人の子」(ベーン・アーダーム:בֵּן־אָדָם)とは、メシアのことではなく、あなたを「虐げる者」のことです。同じようなことが、59章にも出てきます。そこでは「が激しい流れのように来られ」(19節)とあります。「主」とあるので、神と考えてしまいますが、原語を調べると「ツァル」(צַר)となっています。「ツァル」とは「敵・仇」の意味です。つまり「敵が激しい流れのように来られ」とは、「獣と呼ばれる反キリストが立ち上がって来る」ことを意味します。同様に51章12節の「人の子」もメシアではなく、「イスラエルを虐げる者(敵)」を意味しているのです。そうした者の「憤りにおののき」「まるで滅びに定められているかのように」なっている民に対して、神は叱責しているのです。

●ここでの「あなた」とは「うずくまる捕らわれ人(新共同訳「かがみ込んでいる人」)」で「ツァーアー」(צָעָה)の分詞です。そのような者が、神のご計画にあっては、すぐに解き放たれ、死んで穴に下ることはなく、パンにも事欠かない。主がその手の陰に彼らをかばうと約束しています。神の歴史の中で神の民イスラエルが「うずくまる捕らわれ人」になったのは、エジプトやバビロンにおける捕囚の時です。しかし、それらの出来事は神の歴史においては「型」です。「本体」は、これから起こる「終わりの時」に、獣と呼ばれる反キリストが支配する時にもたらされる出来事です。神の民が「一日中、絶えず、虐げる者の憤りにおののいている」状況になるのです。しかし神はそうした者の支配からの解放を約束しています。しかも「すぐに解き放たれ」とありますから、バビロンの捕らわれのような長い期間ではなく、反キリストによる未曾有の大患難から速やかに救われることの預言と考えられます。メシアの再臨によって、反キリストに対する勝利は「すぐに」「すみやかに」なされるのです。

4.「目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ」

【新改訳2017】イザヤ書51章17~23節
17 目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。
18 彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者はなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者はない。
19 これら二つのことがあなたを見舞った。だれがあなたのために嘆くだろうか。暴行と破滅、飢饉と剣。どのようにして、あなたを慰めようか
20 あなたの子たちは気を失い、すべての通りで倒れ伏す。網にかかった大かもしかのように。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめが満ちている。
21 それゆえ、さあ、これを聞け。苦しむ者よ。酔っていても酒のせいでない者よ。
22 あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主はこう言われる。「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。
23 わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らは、かつてあなたに『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう』と言った。それで、あなたは背中を地面のように、また歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのに任せた。」

●「目覚めよ、目覚めよ」という「目覚めのテーマ」がすでに9節にありましたが、17節でも再び登場します。しかし主役の「あなた」は「主の御腕」ではなく、「彼女」である「エルサレム(シオン)」です。17節の「目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ」の「目覚めよ」は「あなたは目を覚ませ」です。ここでは「ウール」(עוּר)の強意形ヒットパエル態が使われています。ヒットパエル態とは自発的、主体的な行動を意味します。それが命令形で使われる時、そのニュアンスをどれだけ表現できるかという難しさがあるようです。多くの聖書が「目覚めよ、起立せよ、起きよ、奮起せよ」というように訳していますが、原文直訳は「自分から目覚めよ」なのです。これは、ギリシア語の「アオリスト命令形」に相当します。

●「主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した(=最後の一滴まで飲ませられた)」ことでエルサレムを見舞う二つの事があります。18節の「彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者はなく」と「彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者はない」は同義的パラレリズムです。「これら二つのこと」とはエルサレムに指導者がいなくなること。もう一つは「暴行と破滅、飢饉と剣」で慰めようもない悲惨な状態になることです。20節「あなたの子たちは気を失い、すべての通りで倒れ伏す。網にかかった大かもしかのように、彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめが満ちている」とある通りです。

●「網にかかった大かもしかのように」とはどういうことでしょうか。「大かもしか」(テオー: תְאוֹ/雄)は美しい動物ですが、それが網にかかって、見るに堪えない無残な姿にたとえられるとしたら、それは「主の憤りと、あなたの神のとがめが満ちている」からです。神の「とがめ」(ゲアーラー:גְּעָרָה)が満ちているとは、強意ののろいがもたらされた状態と言えるのです。とすれば、「目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ」との呼びかけが意味するのはどういうことでしょうか。それは実に、主への「信仰による目覚め」が促されているのです。しかしながら、信仰は自分の心(たましい)の奮起などで起こされるのではありません。51章12節で主が「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者」だと宣言しているように、主のあわれみなしにはあり得ないのです。旧約の預言はこのことが隠されたかたちで語られているのです。そのあわれみとは、主が彼らに霊を与えるというこです。

●22節の「見よ(ヒンネー:הִנֵּה)。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない」とあることから、歴史における最後となる「主の憤り」が前提とされています。「取り上げた」は預言的完了形です。イスラエルの民は反キリストをメシアとして受け入れたこと(=偶像礼拝)で、主の手から「憤りの大杯、よろめかす杯」を飲み干します。この神の最終的なさばきがなされることで、主の憤りは「もう二度と」なくなるのですが、イスラエルの民の三分の二が滅びます。と同時に、その三分の一に救いがもたらされます。それが「イスラエルの残りの者」であり、主の恵みによることなのです。それは「恵みと嘆願の霊が注がれる」ことによって立ち上がるのです。「恵みと嘆願の霊」(ルーアッハ・ヘーン・ヴェ:タハㇴーニーム:רוּחַ חֵן וְתַחֲנוּנִים)には「あわれむ」という動詞「ハーナン:חָנַן」の名詞が、実に三重に使われているのです。メシアが地上再臨することで、王なるメシアによる統治がなされます。そのとき、エルサレム(シオン)は「とこしえの慰め」を得ることになるのです

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2026.2.15
a:185 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional