「ダビデ契約の成就に向けた呼びかけ」
27.「ダビデ契約の成就に向けた呼びかけ」
【聖書箇所】イザヤ書55章1~13節
ベレーシート
●イザヤ書55章のタイトルを「ダビデ契約の成就に向けた呼びかけ」としました。「ダビデ契約」が完全に成就するのはメシア王国ですから、55章はメシア王国に向けた主の招きのメッセージということになります。1節の「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい」という呼びかけ(命令)は、ヨハネの黙示録21章6節「事は成就した。・・・わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」と呼応しています。イザヤ書55章では、神が終わりの日に備えておられる祝福を、代価を払わずに求めよと呼びかけています。この章に出て来る「水」「穀物」「ぶどう酒」「乳」「パン」「脂肪」は、字義通りのものではなく、霊的なものと解すべきです。これらは神ご自身から派生する霊的祝福であり、「良いもの」で、人の魂(ネフェシュ:נֶפֶשׁ)を喜ばせる祝福です。イザヤ書55章を五つの区分に分けて、メシアにある祝福を学びたいと思います。
1.いのちの喜びを見出させる
【新改訳2017】イザヤ書55章1~3節
1 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。
2 なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。
3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。
●前章(54章)の「あなた」は「子を産まなかった不妊の女」である「イスラエルの残りの者」でした。続く55章では「渇いている者はみな」(コルツァーメー:כָּל־צָמֵא)とあり、かつ「水を求めて出て来るがよい」と呼びかけられている対象は「あなたがた」です。すなわち「イスラエルの残りの者」だけでなく、「異邦人たち」に対しても呼びかけられているのです。主は「渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい(出て来い/第三版)」(レフー:לְכוּ)と命じています。訳文では分かりませんが、1節の原文には、「レフー」がなんと3回も使われています。また3節にも1回、「(あなたがたは)耳を傾け、わたしのところに(あなたがたは)出て来い」で使われています。「レフー」(לְכוּ)は「ハーラフ」(הָלַךְ)の2人称男性複数命令形です。ですから、ここでは、基軸としての「イスラエルの残りの者」のみならず、同時に異邦人に対しても呼びかけられているのです。イェシュアが語られた「すべて疲れた人(複)、重荷を負っている人(複)はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)も同様です。イザヤ書55章では、「疲れた人」ではなく、「渇いている者」を招いています。冒頭の「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい」にある「ああ」(ホーイ:הוֹי)は、人が陥っている事態の深刻さを強調しています。
●「渇きをいやす生ける水」について、ヨハネの福音書から二つの記事を取り上げたいと思います。一つは「サマリアの女」(個人)に対して、もう一つは「仮庵の祭り(水の祭り)に来ていた群衆」に対してです。サマリアの女は、ユダヤ人から見るなら犬猿の中で、異邦人扱いでした。そんなサマリアの女にイェシュアが近づいたのは「たまたま」ではなく、計画通りでした。それを表すフレーズが、4章4節にある「サマリアを通って行かなければならなかった」ということばです。ここには動詞「エデイ」(ἔδει)があり、「必ず・・・しなければならなかった」という意味です。
(1) サマリアの女に対して
●イェシュアは「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、(原文=かえって)その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13~14)と言われました。原文にある「かえって」の「アッラ」(ἀλλὰ)ということばは、強烈な対照を示唆することばです。つまり「この水」と「わたしが与える水」との対比です。前者の「この水(井戸の水)」を飲む者は例外なくまた渇きます。ところが、後者である「わたしが与える水」を飲む人(原文は現在分詞で「飲み続ける人」)は、例外なく、決して、二度と、いつまでも、渇くことがないとイェシュアは断言されました。前者の「この水」とはこの世が与える水を意味します。
●このことを聞いたサマリアの女は「その水を私に下さい」とすかさず言いました。「そんな便利な水があれば、毎日、わざわざ井戸まで水を汲みに来なくてもいいのになあ」と考えたからです。しかしイェシュアは「わかりました。わたしの与える水をあなたに差し上げましょう」とは言われませんでした。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われたのです。水と彼女の夫に何の関係があるのでしょうか。それは、彼女に「渇き」に対する自覚を呼び覚ますためです。かつて、サマリア人はモーセ五書だけを信じていました。彼女が言った「私には夫がいません」ということばは「しるし」になっています。モーセ五書の中の申命記の18章18節に「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる」とあります。サマリア人はこの預言者を待っていました。つまり、モーセのような預言者です。それゆえ、彼女はイェシュアに対し「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」と言いました。そして彼女は「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」と言います。イェシュアは言われました。「あなたと話しているこのわたしがそれです」。果たして、彼女はイェシュアが与える水を飲んだのでしょうか。実は、このサマリアの女の話は「しるし」であり、ヨハネ20章22節の「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」という出来事を前提としています。人の霊が再生され、その上で聖霊を受け取って初めて実現する話なのです。
(2) 祭りに来ていた群衆に対して
●もう一つは、ヨハネの福音書7章37~39a節です。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」とあります。「わたしのもとに来て飲みなさい」の「飲みなさい」は現在命令形です。つまり「飲み続けなさい」という意味になります。「わたしを信じる者は」の「信じる」は現在時制で「信じている者は」という意味です。そうすれば「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」とあります。「心の奥底」というのは「人の霊」という意味です。そしてそこから「流れ出る」という動詞は未来形です。未来形は将来においての確実な実現を意味します。したがって、ここでの意味としては、「イェシュアを信じている者は、イェシュアのもとに来て飲み続けなさい。そうすれば、あなたの心の奥底から、必ず、生ける水の川が流れ出続けるようになります」という意味になります。しかし、その御霊は「まだなかった」(39節原文)のです。
●冒頭に「祭りの終わりの大いなる日に」とあります。別の聖書の訳では、「祭りの一番大切な最後の日に」、あるいは「祭りの終わりの最も盛大な日に」と訳されます。祭りの最終日、祭りのフィナーレ、最高潮の場面のときに、イェシュアが立って、大声で、声を張り上げて語ったことばが、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」でした。イェシュアがここで、大声で言われたのは、人々の心の中にある「渇き」に気づかせるためでした。ちなみに、ここでいう「祭り」は「仮庵の祭り」のことです。その祭りの最後には「水汲みの儀式」というものがあったようです。「仮庵の祭り」とは、イスラエルの民が荒野で40年間放浪の旅をしたとき、神が苦い水を甘い水に変えてくださったことや、モーセを通して岩から水を出してくださった出来事など、神が神の民の渇きを癒やしてくださったことを思い起こして、そのことを感謝しながら、神の救いの完成を待ち望む時として定められた祭りだったのです。今日でもこの「仮庵の祭り」はユダヤの新年の祭りとも結びついて、ユダヤ人たちにとって最も盛大な祭りとされています。このとき、イェシュアが「聖書が言っているとおり」と語ったのはイザヤ12章の歌のことで、「見よ、神は私の救い。私は信頼して恐れない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた」―(交唱)―「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。その日、あなたがたは言う。主に感謝せよ。・・」。こうした歌を歌いながら、仮庵の祭りが最高潮に向かって行きました。しかし、イェシュアは多くの人々がただ形式的な祭りを守っているだけで、彼らが「渇いている」のを知って心を痛められたのです。
●「救いの泉」(救いの井戸)=源泉から流れる水の川(あるいは汲み出される水)は、どこかに行かないと得られない水ではなく、イェシュアを信じる者に与えられる「神の賜物」であり、汲めども汲めども尽きることのない、救いの恩寵の泉なのです。この「救いの泉」に象徴される神の御霊(聖霊)こそ、イェシュアが言われた「生ける水」(マイム・ハッイーム:מַיִם הַיִּים)であり、「真理の御霊」なのです。そして今、それは私たちに包括的に提供されているのですが、それを得るためには「渇き」という自覚が必要です。なぜなら、神のすべてのすばらしい賜物は「渇く」者に与えられるからです。イェシュアが人々に語りかけたとき、よく注意してみると、「だれでも渇いているなら」=「渇いている者はみな」(イザヤ55:1)と言っています。「渇いている者」とは、渇きを強烈に意識している人、自覚している人です。イェシュアはそのような者に対して呼びかけているのです。「渇きなさい」と言われて渇けるものではありせん。私たちのすべての生の営みは、たましいの「渇き」である強い欲望から始まっているからです。
●ここからイザヤ書に戻ります。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」(1節)とあります。ここにある「買って」「買え」は「シャーヴァル」(שָׁבַר)ですが、この語彙には「壊す・粉砕する・打ち破る」という意味と、食物(穀物)を「買う」という二つの意味があります。ここでは後者の意味で使われていますが、この二つの意味がどうつながるのでしょうか。食物を買うためには金(かね)(ケセフ:כֶּסֶף)が必要です。金なしで買えるわけがありません。ですから、「金のない者が金を払わずに穀物を買え」というのは不思議な表現です。しかしその真意は「代価がすでに支払われているので、無償で受け取ることができる」という意味での「買う」なのです。これが、「主のしもべ」がなしてくださった代償的贖いであり、一方的な神からの贈り物なのです。それゆえ人が無償で「穀物」を受け取ることができるのです。このことはこの世の常識を打ち破る事柄という意味で、「シャーヴァル」(שָׁבַר)に込められた二つの意味がつながると言えます。
●「穀物」のみならず、「水」も「ぶどう酒と乳」もです。「水」(マイム:מַיִם)は「いのち」の象徴であり、「ぶどう酒」(ヤイン:יַיִן)は「いのちの喜び」、「乳」(ハーレーヴ:חָלֵב)は「いのちの養い」の象徴です。それらも、人は無償で受け取ることができるのです。何という神の恵みなのでしょうか。黙示録22章17節にも「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」とある通りです。
●2節の「わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく」にある「よく聞き従い」は、「シムウー シャーモーン:שִׁמְעוּ שָׁמוֹעַ」で、「聞く」(シャーマ:שָׁמַע)の命令形+不定詞で強調されています。そうするなら、「良いものを食べる」ことが出来、「脂肪で元気づく」ことが出来るのです。ここでの「良いもの」とは「脂肪」のことです。神にささげ物を献げる場合、一番おいしい部分である「脂肪」はすべて神に献げられます。しかしなんと、その最も良い部分が人に無償で提供されるのです。ただし「わたしによく聞き従う」ことが条件であり、そのためにイェシュアがしてくださったことが実は隠されているのです。イェシュアが人となって来られ、「受難と死、そして復活と秘密の昇天」を通った後で「息を吹きかけ」ることで人の霊が再生されました。その上で「聖霊を受けなさい(受け取りなさい)」(アオリスト命令形)と言われ、弟子たちはそれを受け取ったのです。このことなしに「よく聞き従う」ということは不可能です。これが神の長い間の悲願でした。イェシュアはそのことをしてくださったのです。それゆえ「脂肪で元気づく」ことが可能なのです。
●「脂肪」は「デシェン」(דֶּשֶׁן)と言いますが、詩篇23篇6節にその語源があります。「頭に油・香油を注ぐ」の「注ぐ」(ダーシェーン:דָּשֵׁן)がそうです。「肥える、豊かになる」という意味合いもあります。それゆえ「私の杯はあふれています」と告白できるのです。御国において、神と人が親しい交わりをすることを「杯はあふれている」と表現します。これは「脂肪で元気づく」ことと同義です。イェシュアご自身は敵の前でもそうでしたが、イェシュアの中へと信じる者も同じ祝福に与ることができます。
●2節の「わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく」と、3節にある「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」は、同義的パラレリズムです。
「良いものを食べる」ことは「脂肪で元気づく(アーナグ:עָנַג=楽しむ)」ことであり、それはまた「たましいが生きる(₌いのちを得る)」ことと同義なのです。そのような契約を「永遠の契約」(ベリート・オーラーム:בְּרִית עוֹלָם)として結ぶことを神は約束しています。この「永遠の契約」を新改訳では「ダビデへの確かで真実な約束」としています。新共同訳は「ダビデに約束した真実の慈しみ」としています。この約束(=契約)は、ダビデ契約(Ⅱサムエル7章)がそうであるように、神の一方的な(無条件的な)約束です。しかしこれは、聖霊を与えられなければ実現不可能な契約です。イェシュアをメシアと信じないユダヤ人はまだ与っていないため、今もずっと渇き続けています。
2. 主が「イスラエルの残りの者」を輝かせる
【新改訳2017】イザヤ書55章4~5節
4 見よ(ヘーン:הֵן)。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。
5 見よ(ヘーン:הֵן)。あなたが、あなたの知らない国民(גּוֹי)を呼び寄せると、あなたを知らない国民(גּוֹי)が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者のゆえである。主があなたを輝かせたからだ(=岩波訳)。」
●以前、「見よ」と訳される「ヒンネー」(הִנֵּה)と「ヘーン」(הֵן)との違いについて、前者の「ヒンネー」は「メシア王国」について語るときに用いられ、後者はその文節で語られて(説明されて)いることに注目するときに用いられると説明していました。ところが4節と5節は、いずれも「終わりの日」について語られています。ですから、決めつけることなく、文脈で理解することが必要です。
●4節の「わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした」にある「彼」とは誰のことでしょうか。彼とは「諸国の民の君主」とあることから「ダビデ」のように見えます。また、以下の箇所を知っている人なら、なおさらに「彼」を「ダビデ」と同定するかもしれません。
①【新改訳2017】エゼキエル書 34章24節
主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る。②【新改訳2017】エゼキエル書 37章25節
彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与え、あなたがたの先祖が住んだ地に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちが、とこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
●しかし、4節の「君主」とは「ダビデの子孫」のことです。「ダビデ契約」は「ダビデの子孫」に対する約束であり、ここでの「彼」とはメシアであるイェシュアのことなのです。イェシュアは「君主」(ナーギード:נָגִיד)となられます(使徒3:15, 5:31)。それに該当するギリシア語は「アルケーゴス」(ἀρχηγός)で、「アルケーゴス」はメシアなるイェシュアを指しています。「アルケーゴス」をヘブル語に訳し戻すと「サル:שַׂר」となります。そして「あなた」とは「彼」を君主(ナーギード:נָגִיד)、および司令官(メツァッヴェー:מְצַוֵּה)とする「イスラエルの残りの者」のことです。司令官は「命令する」を意味する「ツァーヴァー」(צָוָה)の分詞です。
●やがて「イスラエルの残りの者」が、「イスラエルの聖なる者」であるイェシュアという君主、あるいは司令官によって「輝かせられ」ます。「輝かす」と訳された「パーアル」(פָּאַר)はイザヤ書の特愛用語です。14回中9回がイザヤ書で使われています(10:15, 44:23, 49:3, 55:5, 60:7,9,13,21, 61:3)。しかもここでは預言的完了形で記されています。つまり「イスラエルの聖なる者」であるイェシュアは必ず「イスラエルの残りの者」の「栄光を現し、輝かす」のだということです。岩波訳は「まことに、この方はあなたに栄誉を与えた」と訳しています。それは「異邦人」(גּוֹי)が彼らのところに「走って来る」からです。「走って来る」とは、神の民ではなかった異邦人が「王なる祭司」として招かれることを意味しています。このようにして、神はダビデの子孫であるイェシュアを、ユダヤ人と異邦人とからなる永遠の王国の「王」とされるのです。
3. 悔い改めて、神に立ち返る者に対する神の恩寵
【新改訳2017】イザヤ書55章6~9節
6 主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。
7 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──
9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
●ここからの呼びかけの対象は「あなたがた」です。6節の「主を求めよ(ダーラシュ:דָּרַשׁ)、お会いできる間に」と「呼び求めよ(カーラー:קָרָא)、近くにおられるうちに」も同義的パラレリズムで、「求める」「呼び求める」とは、悔い改めて神に立ち返ることです。「お会いできる間に」とは「神を見出し得るうちに」という意味ですが、神はいつでも好きな時に見出せるものではありません。イェシュアは「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)と言い、パウロも「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)と言っています。これは神を見出せる時が決まっている、定まっているということです。
●7節の「悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ」も同義的パラレリズムです。「捨て去れ」は二つにかかっています。ここでの「はかりごと」とは「マハシャーヴァー:מַחֲשָׁבָה」の複数形で、自分の思いや計画を意味します。それを「捨て(投げ捨て)」て(アーザヴ:עָזַב)、主に立ち返るなら、「主はあわれんでくださる」「豊かに赦してくださる」のです。しかし、「捨て去り」「主に帰る」のにも時があるのです。それは、復活され、秘密の昇天をして「もう一人の助け主」「真理の御霊」「聖霊」(パウロはこれを「いのちを与える御霊」と表現します)を与えられたイェシュアが、弟子たちに「息を吹きかけ」て「聖霊を受けよ(受け取れ)」と言った時からです。旧約ではこのことが隠されているのです。ですから、8節で「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なる」と言っているのです。
●人が自分の思いや計画を「捨て(投げ捨て)」(アーザヴ:עָזַב)なければ、主に立ち返ることは決してできないのです。「あの罪、この罪、ごめんなさい」という「たましいの悔い改め」と、「霊による悔い改め」とは全く異なります。真の「悔い改め」(シューヴ:שׁוּב)は、ただ神に「向き直る、向きを変える」ことです。神の基準は、9節にあるように、「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」のです。「霊による悔い改め」をした人とは、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『罪人の私をあわれんでください。』と祈った取税人のようです(ルカ18:13)。このような人を神は「あわれむ」(ラーハム:רָחַם)のです。そしてまた「義とされる」のです。これは神のわざであり、「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」の「高い」(ガーヴァハ:גָּבַהּ)ことが強調されています。この「高さ」は、たましいでは越えることの出来ない領域であることを啓示しています。この動詞が人に使われると「高ぶる」となって、神にさばかれることになります。
4. 神のみわざの至高性
●この神のみわざの高さの確実性を、以下のような自然界の営みにたとえています。
【新改訳2017】イザヤ書55章10~11節
10 雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。
●10~11節は、8節で語られた「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なる」ということの例証です。「わたしの思い」とは「神のご計画のこと」であり、「わたしの道」とは「その約束の実現に至るプロセス」であり、人間の贖い、罪の赦し、異邦人の救いについても、それは人間が考えているようなものではないということです。自然の法則を援用しながら、神のご計画は必ず成就することを示しています。やがて神の切り札である御子イェシュアによって語られた「御国の福音」は「わたしの口から出るわたしのことば」であると同時に、「わたしが望むこと」でもあります。それは神の知恵によって隠されていますが、必ず、実現成就するのです。そしてメシア王国の基調は、全世界的な規模の、全領域における「喜び」と「平安」をもたらします。
5. メシア王国の爆発的な喜びの基調
【新改訳2017】イザヤ書55章12~13節
12 まことに(キー:כִּי־)、あなたがたは喜び(シムハー:שִׂמְחָה)をもって出て行き(יָצָא)、平安(シャーローム:שָׁלוֹם)のうちに導かれて行く(יָבַל)。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声(リンナー:רִנָּה)をあげ(パーハー:פָּחָא)、野の木々もみな、手を打ち鳴らす(※詩篇98:8では「もろもろの川よ 手を打ち鳴らせ」)。
13 茨の代わりに、もみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」
●「メシア王国」は地ののろいがなくなるため、驚くようなことが起こります。以下の詩篇98篇も同様です。
【新改訳2017】詩篇98篇1~9節
1 新しい歌を主に歌え。主は 奇しいみわざを行われた。
主の右の御手 聖なる御腕が 主に勝利をもたらしたのだ。
2 主は御救いを知らしめ ご自分の義を国々の前に現された。
3 主は イスラエルの家への 恵みと真実を覚えておられる。
地の果てのすべての者が 私たちの神の救いを見ている。
4 全地よ 主に喜び叫べ。大声で叫び 喜び歌い ほめ歌を歌え。
5 主にほめ歌を歌え。竪琴に合わせて。竪琴に合わせ ほめ歌の調べにのせて。
6 ラッパに合わせ 角笛の調べにのせて 王である主の御前で喜び叫べ。
7 海とそこに満ちているもの 世界とその中に住むものよ 鳴りとどろけ。
8 もろもろの川よ 手を打ち鳴らせ。山々も こぞって喜び歌え。
9 主の御前で。主は 地をさばくために来られる。主は 義をもって世界をさばき 公正をもって諸国の民をさばかれる。
ベアハリート
●詩篇98篇では「主は奇しいみわざを行われた」という一点が強調されています。「奇しいみわざ」(the wonders, marvelous things, wonderful works)は「パーラー」(פָּלָא)です。私たちの目には不思議な驚くべきことであり、神にしかできない奇跡です。神の民であるイスラエルは、その歴史において主の奇しいみわざを何度も経験してきました。イスラエルという存在が、主の「奇しいみわざ」の証しです。しかし、神の「奇しいみわざ」の頂点は、イェシュアの復活と秘密の昇天によってもたらされた「いのちを与える御霊」の賦与の出来事です。まさにこの出来事は神の「奇しいみわざ」のなかでも最高のものと言わなければなりません。これは「すでに」なされていますが、「いまだ」完全にはなされていません。それが実現・成就するのは、まず「イスラエルの残りの者」(全イスラエル)に「恵みと嘆願の霊」が注がれて悔い改めが起こり、「王なる祭司の務め」が回復して「大勢の数えきれない異邦人が救われた」後に、メシア王国の到来によってです。そのときに、「事は成就した。・・わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる」(黙示録21:6)ことが実現するのです。
三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。
2026.6.7
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