「主は聖なる御腕を現された」
22. 「主は聖なる御腕を現された」
【聖書箇所】イザヤ書52章1~12節
ベレーシート
●52章は三度目の「目覚めのテーマ」で始まります(一度目の51:9、二度目の51:17)。52章は預言者イザヤが主のことばをシオン(娘シオン=エルサレム=聖なる都エルサレム)に向けて語っています。ここでは、神の都エルサレムの終末的な啓示が擬人的に預言されています。神の民イスラエルとエルサレム(シオン)、および、それらを支配する王は一体です。なぜなら、「御国」(マルフート)とは「王とその民と領土」によって成立するものだからです。イェシュアが公生涯を開始された時の最初のことばは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)でした。ところが、この「悔い改めなさい」という命令、およびイザヤ書52章1節の「目覚めよ」「力をまとえ」「美しい衣をまとえ」という命令も、自分の力によって果たすことはできません。神はそのことを隠しながら語っているのです。その隠されたこととは「いのちを与える御霊」です。それはイェシュアの死と復活によってもたらされた、蜜のように甘い事柄です。詩篇81篇16節の「主は最良の小麦を御民に食べさせる。わたしは岩から滴る蜜であなたを満ち足らせる」は、そのことを預言しています。「最良の小麦」とはイェシュアの受難と死を意味し、「岩から滴る蜜」とはイェシュアの復活による「いのちを与える御霊(いのちを創り出す御霊)」を意味しています。この甘い事柄によって、主のすべての命令が実現・成就するのです。
●今回の「目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ」(1節)、「美しい衣をまとえ」(1節)、「ちりを払い落として立ち上がれ」(2節)、「元の座に着け」(2節)、「首からかせを振りほどけ」(2節)といったすべての命令も、神の甘い事柄によって実現されるのです。つまり神のすべての命令が、「神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)のです。すべての神の命令とは「神がなされることを、自発的、主体的に受け入れること」が要求されますが、これをヘブル語では「ヒットパエル態」で表し、ギリシア語では「アオリスト命令形」で表します。例えば、「わたしの前に歩み」(創世記17:1)、「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)、「(主イェシュアを)信じなさい」(使徒16:31)がそうです。それらを肉ではなく、霊によってなすことが命じられています。つまり、イェシュアの「いのちを与える御霊」なしには、神のどんな命令をも実現することができないのです。
●とりわけ、今回の「目覚めよ」と訳された動詞「ウール」(עוּר)の命令もそのことが隠されています。神の霊によって、盲目とされた目が開かれるという意味が含められた預言的・奥義的命令形なのです。それは神にしかできない事柄です。「ウール」(עוּר)と同じ子音をもつ動詞「アーヴェール」(עָוֵר)があります。「アーヴェール」(עָוֵר)は神によって「盲目とされる」という意味、「ウール」(עוּר)は神によって「目が開かれる」という意味であり、「(ער)」は両者を合わせ持つ両義的なペアレント・ルーツと言えます。これは、神を表す言語であるヘブル語特有の特徴と言えます。
1.「目覚めよ、目覚めよ」という二重命令
【新改訳2017】イザヤ書52章1~2節
1 目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。無割礼の汚れた者(単数)は、もう二度とあなたの中に入っては来ない。
2 ちりを払い落として立ち上がり、元の座に着け、エルサレムよ。
あなたの首からかせを振りほどけ、捕らわれの女、娘シオンよ。
●1節の「目覚めよ、目覚めよ」(ウーリー・ウーリー:עוּרִי עוּרִי)の二重命令は強調表現ですが、単なる強調だけではなく、神の甘い呼びかけなのです。「目覚めよ」という一回だけの表現であるなら、それはゼカリヤ書13章7節にのみ使われています。
【新改訳2017】ゼカリヤ書13章7節
剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。
●「剣よ、目覚めよ」の「剣」(へレヴ:חֶרֶב)は、神の民を正しく導かなかった指導者たちの象徴です。「わたしの羊飼い」とはメシア・イェシュアのことで、「わたしの仲間」も同義です。原文では「向かい」という動詞はありません。「わたしの仲間」は「ゲヴェル・アミーティ: גֶּבֶר עֲמִיתִי」で「わたしの同僚」(単数)を意味します。口語訳では「わたしの次に立つ人」、新共同訳では「わたしの同僚であった男」と訳していますが、主の最も身近な人、主と一体となっている人、主の分身ともいえる存在はメシア・イェシュアしかいません。イェシュアは「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と宣言されましたが、ここでは、主がユダヤの指導者たちである「剣」に「目覚めよ」と言って、その彼を打ち殺すように命じています。つまり「死」をもたらす意味において、「目覚めよ」と考えることができます。ここではその彼が死から復活することは隠されているのです。しかし、もし父から遣わされた御子イェシュアが殺されて死ぬことがなければ、彼はメシアではなかったことになります。御子がユダヤ人の指導者たちによって殺され、そこから復活することで贖いのわざを成し遂げる、というのが神のご計画であるからです。羊の群れ(ユダヤ人たち)は散らされて行き(=世界離散)、「わたしは、この手を小さい者たちに向ける(シューヴ: שׁוּב)」の「小さい者たち」とは「イスラエルの残りの者」のことです。やがて彼らに主の御手が向けられることで、彼らが主に立ち返ってくるという預言が啓示されています。
「目覚めよ、目覚めよ」という二重命令は、士師記に1回、それとイザヤ書に3回の計4回です。それらはみな「死と復活」を含む甘い事柄が、より強調された命令なのです。一つ一つを確認してみましょう。
①【新改訳2017】士師記 5章12節
目覚めよ、目覚めよ、デボラ。目覚めよ、目覚めよ、歌声をあげよ。起きよ、バラク。・・・
●この箇所のデボラとバラクの歌には、戦いの詳しい情報が伝えられています。特に注目したい所は、5章最後の節です。
【新改訳2017】士師記5章31節
このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。・・・」
●ここで、単に神に背いた結果としての苦しみから解放された喜びだけでなく、新しい世代が「主を愛する者」として「力強く昇る太陽のようになりますように」と祈っている点に注目です。これは終末的・預言的な祈りです。「力強く」と訳されたヘブル語「ゲヴラー」(גְבֻרָה)は、英語でmighty, strength, force, power と訳されます。ここでは新しい世代(=最後の世代)の「主を愛する者(複)」が、主の霊的な力を賦与されることによって「力強く昇る太陽のようになる」ことを祈っているのです。しかしそれはいまだ実現されてはいません。ここでの「あなたの敵がみな滅び、主を愛する者(複)」の出現は、神の計画によれば、「イスラエルの残りの者」にしか該当しません。
②【新改訳2017】イザヤ書 51章9 節
目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、主の御腕よ。
目覚めよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。
●ここでの「ラハブ」とはエジプトを意味し、「竜」とはファラオを支配するサタンです。このサタンに勝利するのは、神の全能を象徴する「主の御腕」であるメシア・イェシュアです。この方がやがて「竜」にとどめを刺すのです。
③【新改訳2017】イザヤ書 51章17節
目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯(=主のさばき)を飲み干した。
④【新改訳2017】イザヤ書 52章1節
目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣(この表現はこの箇所だけです)をまとえ、聖なる都エルサレムよ。無割礼の汚れた者(単数:異邦人)は、もう二度とあなたの中に入っては来ない。
●③と④はエルサレム(シオン)に語られた命令であり、「二つで一つ」です。③は「憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」ことでさばきの「死」(18~20節)を意味し、④は「力をまとい(ラーヴァシュ:לָבַשׁ)、美しい衣をまとう(לָבַשׁ)」ことで聖なる都としての「復活」を表しています。このように、二重命令を用いることで、「死と復活」による甘い事柄がより強調されているのです。
(1) 「聖なる都エルサレム」
●「エルサレム」(シオン)が「聖なる都」とされたのは、ダビデが先見の明をもって、そこをイスラエルの都として選んだからではありません。世界の基が据えられる前から、神がそこをご自身の安息の場所として選んでおられたゆえに、ダビデにそこを選び取らせたのです。つまり、ダビデはそこを全イスラエルの中心地としてだけでなく、全地の中心地として選ばされたのです。その全地の中心こそ「エルサレム」(シオン)であり、そこに主が王となって戻られるのを、「イスラエルの残りの者」は目の当たりにするのです(52:8)。
●イスラエルの父祖アブラムも、サレム(=エルサレム)の王メルキゼデクから「パンとぶどう酒」で祝福されています(創世14:18)。ここで、サレム(=エルサレム)の王メルキゼデクから「パンとぶどう酒」で祝福されたことが重要です。メルキゼデクは「義の王」という意味で、メシア・イェシュアを啓示しています。また、この「パンとぶどう酒」は初臨のイェシュアの「からだと血」という贖罪的象徴です。イェシュアによってアブラハムは祝福されたのです。このような言い方が成り立つのは、ダビデ、アブラハムよりも、イェシュアの方が先在的存在であるからなのです。エルサレムはまさに、神のすべての歴史を紡いでいるセンターなのです。
●アブラムはその祝福に対して、十分の一をメルキゼデクに献げました。「十分の一」の「十」という数は自分に与えられている神の祝福であり、「一」を献げるということは、全部(すべて)を献げるということを意味します。これをたましいで考えるなら、字義通りの十の中の「一」と考えてしまいますが、霊で見るなら、「自分に与えられたものの全部を献げる」ことを意味します。つまり「十分の一」を神に献げるとは「全焼のささげ物」(オーラー:עֹלָה)を献げるに等しい行為なのです。
そのように「全焼のささげ物」を献げる者こそ、以下に記されている神のご計画における「その貧しい者(原文は複数)」であり、16節の「その祭司たち」「その敬虔な者たち」なのです。シオン(メシア王国)にはそのような者たちがいるのです。
【新改訳2017】詩篇132篇13~18節
13 主はシオンを選び それをご自分の住まいとして望まれた。
14 「これはとこしえに わたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。
15 わたしは豊かにシオンの食物を祝福し その貧しい者をパンで満ち足らせる。
16 その祭司たちに救いをまとわせる。その敬虔な者たちは高らかに喜び歌う。
17 そこにわたしはダビデのために 一つの角を生えさせる。わたしに油注がれた者のために ともしびを整える。
18 わたしは彼の敵に恥をまとわせる。しかし彼の上には王冠が光り輝く。」
●15節の「その貧しい者(原文は複数)」、16節の「その祭司たち」「その敬虔な者たち」とは、すべて「イスラエルの残りの者」を指しています。しかも彼らの「君主」としてダビデが、そして「王」としてイェシュアが君臨するのです。その彼らが起こされるまでの「イスラエルの民」に対し、イザヤ書52章3~6節では「わたしの民」と呼びかけています。
(2)「わたしの民」(アンミー:עַמִּי)
【新改訳2017】イザヤ書52章3~6節
3 まことに、主はこう言われる。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される」と。
4 まことに、神である主はこう言われる。「わたしの民は初め、エジプトに下って行って、そこに寄留した。また、アッシリア人がゆえなく彼らを苦しめた。
5 さあ今、ここでわたしは何をしよう──主のことば──。わたしの民はただで奪い取られ、彼らの支配者たちは悲しみ嘆いている──主のことば──。また、わたしの名は一日中、絶えず侮られている。
6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。それゆえ、その日彼らは、わたしが『ここにわたしがいる』と告げる者であることを知るようになる。」
●3節の「あなたがた」が、4~6節では「わたしの民」となっています。これはイスラエルの民を表しています。彼らは「初め、エジプトに下って行って、そこに寄留した。また、アッシリア人がゆえなく彼らを苦しめた」とあります。イスラエルの民はなぜエジプトに下って行って、そこに寄留することになったのでしょうか。そのきっかけは飢饉でしたが、それは表面的な理由でしかありません。そこに寄留することになった本当の理由は、ヤコブの息子たちが弟のヨセフを殺そうとし、エジプトに奴隷として売ったからです。そのためにヤコブは子たちを連れて結果的にエジプトへ行かなければならなくなってしまったのです。また「アッシリア人が彼らを苦しめた」のは、ユダの王アハズがアッシリアを頼りにし、彼もユダの民も神を捨てて偶像の神を拝むようになったからです。その結果、神はご自分の聖さのゆえに、ご自分の民の罪をさばくこととなったのです。アッシリアが悪いのではなく、民の罪ゆえに、神が彼らを用いて民を苦しめたがゆえに、「アッシリア人がゆえなく」という言い方をしているのです。イスラエルの民の数々の偶像礼拝の罪のゆえに「ただで売られた」(3節)、「ただで奪い取られた」(5節)のです。神がご自分の民を精錬するために、主権的にそうすることが可能だということを表しているのです。その結果として、「わたしの名は一日中、絶えず侮られている」のですが、誰によって「絶えず侮られている」のかといえば、それは「異邦人」です。「だから、金を払わずに買い戻される」のです。このことを、神はイスラエルの歴史で何度も繰り返されているのです。
●イスラエルの歴史の中で、エルサレムが異邦人によって蹂躙される時が三回あります。上に述べた他にバビロン捕囚の時、二度目はA.D.70年のローマ軍による破壊の時、そして三度目は、終わりの日の反キリストによるハルマゲドンの戦いの時です。すでに二回は成就していますが、三度目は、主が王となってシオンに帰られる直前の出来事、つまりメシアの地上再臨の直前です。ゼカリヤ書12章と14章はハルマゲドンの大いなる戦いについて記していますが、この大いなる戦いは未曾有の大患難(三年半)の終わりに、反キリスト率いる大軍勢がエルサレムを蹂躙することでもたらされます。つまり反キリストがイスラエルを滅ぼすために引き起こす戦いです。そのことが以下に預言されています。
①【新改訳2017】ヨハネの黙示録16章13~16節
13 また、私は竜の口と獣の口、また偽預言者の口から、蛙のような三つの汚れた霊が出て来るのを見た。
14 これらは、しるしを行う悪霊どもの霊であり、全世界の王たちのところに出て行く。全能者なる神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを召集するためである。
15 ──見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者(=イスラエルの残りの者)は幸いである──
16 こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。②【新改訳2017】ゼカリヤ書14章2節
「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民(イェテル・ハーアーム:יֶתֶר הָעָם)は都から絶ち滅ぼされない。」
●このように、大いなる戦いの中でも「イスラエルの残りの者」は守られるのです。「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。それゆえ、その日彼らは、わたしが『ここにわたしがいる』と告げる者であることを知るようになる」(イザヤ52:6)と預言されている通りです。なにゆえにシオン(エルサレム)は「力をまとえ。美しい衣をまとえ。・・ちりを払い落として立ち上がり、元の座に着け」と命じられているのでしょうか。それは、主がシオンに戻られるのを、彼らが目の当たりにするからなのです(8節)。この知らせこそが「良い知らせ」(7節)です。主が王となってシオンに帰られるなら、「無割礼」の汚れた者(=異邦人)がシオン(=エルサレム)の神殿(第四神殿)に入って来ることはないからだとしています。今現在はエルサレムには神殿がありません。これはイスラエルの歴史が世界離散から完全に止まっていることを意味しています。その期間に教会時代が挿入されているのです。しかしその挿入時代も、イェシュアの空中再臨による携挙とともに終わりを告げます。そのあとに「不法の者」が立ち上がって来て、エルサレムに神殿が建ち、その時を契機に最後の七年間の患難時代が始まるのです。その患難時代もイェシュアの地上再臨によって終わり、メシア王国が訪れます。その時に、再度、エルサレムに神殿が建てられるのです。
2. 良い知らせを伝える人の足
●最後に、「良い知らせを伝える人の足は・・・なんと美しいことか」ということばを味わいたいと思います。
【新改訳2017】イザヤ書52章7~10節
7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。
8 あなたの見張りの声がする。彼らは声を張り上げ、ともに喜び歌っている。彼らは、主がシオンに戻られるのを目の当たりにするからだ。
9 エルサレムの廃墟よ、ともに大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。
10 主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。
●7節は「なんと美しいことか」(マーナーヴー:מַה־נָּאווּ)で始まっています。「美しい」と訳されたヘブル語は動詞「ナーアー」(נָאָה)です。当時、良い知らせを伝えるためには「足」(原文では「両足」)が必要でした。良い知らせを伝える人の足(複数)とは誰の足でしょうか。これは言わずもがな「イスラエルの残りの者」以外には考えられません。彼らこそが「良い知らせを伝える人の足」となるべき存在です。シオンは彼らによって解放が知らされるのです。その「良い知らせ」の内容とは何でしょうか。それはシオンに対して、三つの分詞(①②③)で語られています。④⑤は預言的完了形によって語られます。
①「平和を告げ知らせる」こと。これは神の計画が実現・成就することの知らせ。
②「幸いな良い知らせを伝える」こと。それは神のトーヴがなされることの知らせ。
③「救いを告げ知らせる」こと。
④「あなたの神は王であられる」こと(原文は「あなたの神が王となった」。「王となった」は「マーラフ:מָלַךְ」で預言的完了形。「あなた」はシオン)。
⑤「主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された」ことです。動詞「現された」(ハーサフ:חָשַׂף)は「(腕を)まくる」の意味で預言的完了形で記されています。これはイェシュアが語った「悔い改めなさい。
(なぜなら)天の御国が近づいた(完了形)から」に相当します。このメッセージを伝えるために、彼ら(イスラエルの残りの者)は「恵みと嘆願の霊」を注がれるのです(ゼカリヤ12:10)。それは「主がその民を慰める」だけでなく、「主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現され(完了形)、地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る(未完了形)」(10節)ようになるためなのです。10節の「私たち」も「イスラエルの残りの者」のことであり、彼らにとって救いの喜びの時となるのですが、「イスラエルの残りの者によって、すべての国々(コルハッゴーイム:
כָּל־הַגּוֹיִם)に救いがもたらされる」ことをも指し示していると考えることができるのです。
3. 再度の「二重命令」(去れ、去れ。)
【新改訳2017】イザヤ書52章11~12節
11 去れ、去れ。そこから出て行け。汚れたものに触れてはならない。その中から出て行き、身を清めよ。主の器を運ぶ者たちよ。
12 あなたがたは慌てて出なくてもよい。逃げるように去らなくてもよい。主があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられるからだ。
●52章の「目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ」でも扱ったように、11節にも「去れ、去れ。そこから出て行け」(スールー・スールー・ツェウー・ミッシャーム)という二重命令が再び登場しています。前にも述べたように、その内容は「死と復活」を含んだ甘い事柄です。それは、キリストにある「霊による新しい歩み」への呼びかけなのです。「去れ」の動詞「スール」(סוּר)の初出箇所は創世記8章13節です。
【新改訳2017】創世記 8章13節
六百一年目の第一の月の一日に、水は地の上から干上がった。ノアが箱舟の覆いを取り払って眺めると、見よ(הִנֵּה)、地の面は乾いていた。
●ここでは「取り払って」というところに「スール」(סוּר)が使われています。ノアが箱舟の覆いを取り払って、外を眺めることで、地の面が乾いていることを知り、地における新しい始まりを見せられたのです。イザヤ書52章11節の「去れ、去れ。そこから出て行け」の「出て行け」の「ヤーツァー」(יָצָא)の命令形も「霊による新しい出発」を促すことばです。死んだラザロに対してイェシュアが叫ばれた「ラザロよ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)の「出て来なさい」にも「ヤーツァー」(יָצָא)が使われています。より正確に言えば、「ヤーツァー」のヒットパエル態(הַתוּצָה)で訳されており、それは自発的・主体的行動が命じられています。つまり「そこから」、つまり「死に閉じ込められた状態から出て来る」という、神の甘い事柄である「死と復活」が促されているのです。
●「汚れたものに触れてはならない。その中から出て行き、身を清めよ」の形容詞の「汚れたもの」(ターメー:טָמֵא)も「死」と関係しています(レビ5:2)。「身を清める」ためには、最初の人アダムに死んで、最後の人であるイェシュアの中へと信じる信仰が必要です。その信仰は、彼らのイスラエルの残りの者には「恵みと嘆願の霊」によって与えられるのです。さらに「主の器(ケレー・アドナイ:כְּלֵי יהוה)を運ぶ(ナーサー:נָשָׂה)者たち」とは、「主から与えられた『いのちを与える御霊』と人の霊から成る受信装置を、霊の中で持ち運ぶことによって、神とともに生きる者たち」を意味します。それは真の「王なる祭司たち」を意味します。このような者たちに約束されているのは、「主があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられる」ということです。そのような歩みは、完全に主によって守られていることを意味します。ですから、「あなたがたは慌てて出なくてもよい。逃げるように去らなくてもよい」のです。この落ち着きは「静謐」と「信頼」をもたらします。これらのことは、イスラエルの残りの者に接ぎ木される私たちエックレーシアも同様です。
ベアハリート
●そこでイザヤ書30章のみことばを、再度思い起こしてみたいと思います。
【新改訳2017】イザヤ書30章15節
イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、
あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
●この呼びかけの中にあることばを挙げると、「立ち返り」(シューヴァー:שׁוּבָה)と「静まり」(ナハット:נַחַת)は名詞。「落ち着き」(ハシュケート:הַשְׁקֵט)は動詞の名詞的用法。そして「信頼」(ビトゥハー:בִּטְחָה)は名詞。動詞は「救われる」と「(力と)なる」です。「力」は名詞ですが、その動詞を調べるならば、それがみなぎる力、増し加わる力、勢いとしての「力」(strength)であることが分かるのです。二語の漢字で表すなら、それは「悔改」「静謐」「平穏」「信頼」となります。これは「王なる祭司」の歩みの基本なのですが、「いのちを与える御霊」の助けがないと得ることはできないのです。
【新改訳2017】ゼカリヤ書13章8~9節
8 全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」
●多くの人々は神の呼びかけに対して「これを望まなかった」とあるように、肉では喜んで受け入れることができないのです。神の呼びかけは目に見えない保障であり、目に見える助けの方が安全だと思ってしまうからです。そのため、神の民イスラエルはやがて「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」ことが起こるのです。肉を捨てて霊の中に生きることを、私たちも主体的に選び取りたいと思います。シェーム・イェシュア‼
三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。
2026.3.1
a:148 t:2 y:0