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「乳と密の流れる地」

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8. 「乳と蜜の流れる地(国)」

聖書箇所 11:1~12:32

はじめに

  • イスラエルの民に与えようとしておられる地は「乳と蜜の流れる地」と表現されています。日本の旧約学者の池田裕氏は、「乳と蜜の流れる地」を次のように説明しています。

「荒野とカナンの違いは、水源や緑の量だけでなく、家畜の羊や山羊たちの育ち具合にも出でくる。・・・荒野の羊や山羊は、沃地の羊や山羊に比べて、乳の出が悪い。・・カナンに来ると、一年を通して羊や山羊が食べる「緑」の量が違う。乳の出方もいい。家畜だけではない。イスラエル人の母親たちも、カナンに住んでから自分たちの乳の出でよくなったのに驚いたに違いない。赤子がいくら吸ってもまだあふれるように出る。乳の蜜の流れる地」という言葉が生まれた背景には、こうしたイスラエル人自身が体験した大きな驚きと感動があったのだと思う。つまり、「乳と蜜の流れる地」は、全てがからからの荒野の生活を体験した人々たちの中からこそ生まれたのだ。苛酷な荒野の生活をたっぷりと味わったきた人間だけが、それを少しも大げさとは思わないで使えた、カナンの美称なのだ。」

(「わが名はベン・オニ」1986年、エルサレム文庫出版43~45頁)

  • この「乳の蜜の流れる地」という表現は旧約で18回の言及があり、申命記では6回(6:3/11:9/26:9, 15/27:3/31:20)使われています。
  • 「乳と蜜の流れる地」という表現が他のことばでも言い換えられています。「良い地」(申命記8:7)、「主の与えようとしておられる相続の安住地」(申命記12:9)、「先祖に与えると誓われた地」(エレミヤ32:22)、「どの地よりも麗しい地」(エゼキエル20:15)、「主が絶えず目を留めておられる地」(申命記11:12)、などがそうです。
  • 「乳と密の流れる地」とはどういう地なのかを思い巡らしてみたいと思います。そしてそれは今日的な私たちにおいていなかる意味を持つかを瞑想してみたいと思います。テキストは、①8:7~10、②11:8~12、③12:10の三箇所です。それぞれ以下の三つの特色ある地(国)であること語られています。〔脚注〕

1. 豊穣の地(8:7~10)

8:7 あなたの神、【主】が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、
8:8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。
8:9 そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。
8:10 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、あなたの神、【主】をほめたたえなければならない。

  • その地は「良い地」であって、エジプトと違ってこんこんとわき出る泉があります。そしてそこから流れ出る水によって地は潤され、多くの実を結ぶ収穫豊かな地であることです。何ひとつ不足のない豊かなものが保障されている地です。またその地は、「鉄」や「青銅」など多くの隠れた宝を掘り出すことのできる豊かな地でもあります。
  • これはまさに、詩篇23篇の作者が「私は乏しいことがない」と告白した世界、「満ち足りる」ことのできる地です。使徒パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(Ⅰテモテ6:6)と述べていますが、そうした経験が与えられることを意味します。また、使徒パウロはこうも言っています。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要のすべてを満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
  • 豊かさは、私たちが自分の人生をコントロールするのをやめて、神に信頼して、自らを投げ出すときもたらされます。つまり、果実は神との親しい愛の土壌からのみ育つことができるということです。それはまさに作り出すものではなく、次に述べるように、受け取るべき贈り物でした。

2. 恩寵の地(11:8~12)

11:9  また、【主】があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。
11:10 なぜなら、あなたが、入って行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。
11:11 しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。
11:12 そこはあなたの神、【主】が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、【主】が、絶えずその上に目を留めておられる地である。

  • エジプトでは自分の力で野菜の種を蒔き、自分の力で水をやらなければなりませんでした。すべて「自分の力」が求められる地でした。しかし、「乳と密の流れる地」では、自分の力でなく、神の恵みによってすべて与えられる地です。しかも、「主が絶えずその上に目を留めておられる地」とあり、神が大いなる関心をもっておられる地なのです。それゆえに、「長寿」という祝福が伴います。
  • すべてが神からもたらされるという世界です、自分の力でしなければならない世界では必ず行き詰まりを経験します。すべての働き(ミニストリー)には落とし穴があります。それは失意と行き詰まりという宿命です。すべてを自分の力で生きて来た人にはこの恵みの世界がすぐに理解できず、それによって生きることができません。さまざまな失敗のプロセスを通りながら、神の恵みによって生きるということを学ぶのが常です。
  • 恵みによって生きるならば、なんら疲れることがありません。失望もありません。むしろ、鷲のようにさまざまな試練の風さえもそれを利用して翼をかって昇るチャンスとします。

3. 安住の地

12:10 あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、【主】があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになる

  • 神が与えようとしている地は、「安息の地」です。自分の力で生きる世界ではなく、神の恵みによって生きる世界ですから、ストレスがありません。神が私たちの最も基本的なニーズである「生存の保障」と「防衛の保障」を与えてくださるので平安なのです。この平安、安息の祝福は生きる上で大きな力を湧き出させます。
  • イエスは言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)と招いておられます。「あなたがたも」ということばに注意しければなりません。というのは、御子イエスも御父のくびきを負われたからです。それゆえ、イエスの心には常に安らぎがありました。嵐に翻弄される舟の中でもゆうゆうと寝ておられたほどです。
  • こうした「安らぎ」は、御子イエスがいつも御父のうちにとどまっていたように、わたしたちも主イエスのうちにとどまる生き方が求められます。主のことばの中に、主の愛の中にとどまることが必要です。そうするなら、私たちはさまざまな「恐れ」から解放され、安らぎを経験できることが約束されています。

  • 以上のように、「乳と蜜の流れる地」を与えられるという神の約束は、イエス・キリストにおいて、「天にあるすべての霊的祝福をもって祝福してくださる」という実体の影です。それゆえ、私たちが、常に、キリストのうちにあることがその一切の秘訣と言えます。このことをしっかり身につけさせていただけるように、そして自立した信仰が養われるようにと祈ります。

〔脚注〕

スティーブ・マクベス著、尾山謙仁訳「恵みの歩み」、「恵みの支配」、「恵みの地」という三部作が、ファミリーネットワーク社から出版されています。この本は、神の福音についての鋭い洞察に満ち溢れたすぐれた本です。ぜひ一読されることを推奨します。



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