「完了した」「霊を御手に」
23. 十字架上のイェシュア(5)「完了した」、十字架上のイェシュア(6)「わたしの霊を御手に」
【聖書箇所】
ルカの福音書23章46節、ヨハネの福音書19章28~30節
2.「完了した」
●イェシュアがご自身の血を一滴残らず注ぎ流されたことで、次の「完了した」という言葉が意味を持ってきます。つまり、多くの人のための罪の贖いが完了したということです。このことのために、イェシュアは私たちと同じく血肉を持たれたのでした。
●「完了した」(ヨハネ19:30)と訳されたギリシア語は「完成する、成し遂げる、完了するという意味の「テレオー」(τελέω)の3人称単数現在完了受動態です。ですから、正確には「完了された」です。しばしば注解書で「テテレスタイ」(Τετέλεσται)として紹介されます。その意味は「完了された、そして完了されたままの状態にある、完了されてしまっている」という状態を意味します。つまり、贖いのわざは成し遂げられ、その働きは完了し、もう二度とその働きは不要であることを意味しています。これが「完了した」というイェシュアの言葉の意味です。ヘブル語は「シャーレーム」(שָׁלֵם)の受動態の「ニシュラーム」(נִשְׁלָם)が使われています。つまり、「完了された」という意味です。
●「完了した」というイェシュアの言葉には、十字架による苦しみにもかかわらず、「満足する」というニュアンスが含まれていると言えます。イェシュアが自分のいのちを代償のささげ物とする苦しみなしには、だれ一人として罪を赦されることはないからです。イザヤ書53章には次のように預言されています。
【新改訳2017】イザヤ書53章10~11節
10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
3. 「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます」
●今回の最後は、十字架上のイェシュアの最後のことばです。「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)ということばは、復活への望みを御父に託したことばです。人となって来られた御子イェシュアは一時も「霊」(「プニューマ」)から離れたことはありません。誕生そのものが、聖霊によるからだをもった存在だったのです。しかしこれから三日の間は、からだとたましいから霊が離れる経験をするのです。これはイェシュアにとっては初めての経験でした。この経験はメシアとしての苦しみが含まれていることです。この苦しみを受けて、栄光に入ることが預言されていたのです。
●人間は「霊とたましいとからだ」からなっているとパウロは言っています。つまり、霊(「プニューマ」πνεῦμα)、たましい(「プシュケー」ψυχή)、からだ(「ソーマ」σῶμα)の三つからなっています。イェシュアの復活には、霊とたましいとともに、朽ちることのない新しいからだが与えられなければなりません。なぜなら、朽ちるもの(からだ)では「復活のからだ」である「初穂」とはなり得ないからです。イェシュアはたましいだけがよみに下っていたのです。そして、そこで死者の中からの復活を待ったのです。イェシュアの復活のからだは、信じる私たちの確かな希望なのです。
【新改訳2017】ピリピ書3章21節
21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
2019.4.17
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