****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「弱さ」を誇るパウロ


12. 「弱さ」を誇るパウロ

【聖書箇所】Ⅱコリント書12章1節~10節

べレーシート

●コリントの教会における最大の問題は使徒職の問題です。パウロが戦かっていたのはユダヤ人の偽教師たちに対してです。彼らは自分たちが「推薦状」をもっていることを誇っていました(3:1以下)。しかしパウロは人々からの推薦状や栄誉を求めることをせず、神にまかせていました。神が授けてくださる栄誉だけが、真の栄誉として認められるものだからです。これはイェシュアも同じでした。「わたしは人からの栄誉は受けません。・・わたしはわたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができるでしょう。」(ヨハネの福音書5:41~44)と言っています。使徒パウロは、神からの幻と啓示を与えられたことによって、栄誉を授けられていました。たとえば、

(1) 劇的な回心(天からの光)において、キリストが啓示されました(使徒9:3)。
(2) アナニヤが来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるという幻を見ました(使徒9:12)。
(3) パウロがマケドニアに渡る前に、幻によって指示されました(使徒16:9~10)。
(4) コリントでの伝道で困難に直面したときにも、幻によって主の励ましを受けました(使徒18:9~10)。
(5) エルサレムで捕えられた時も、主から幻によって勇気づけられました(使徒23:11)。
(6) ローマ行きの嵐の中で、主の御使いによって、必ずカイザルの前に立つことと、同船している者がみな助け出されることを確信しました(使徒27:23~24)。
(7) 宣教の働きの面だけでなく、霊的な事柄における特別な啓示も与えられています(エペソ3:1~6節)。これによって、パウロは神のご計画における奥義を理解したのです。

●こうした主からの啓示と幻によって神からの栄誉を授けられたパウロが、Ⅱコリント12章1節で「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう」と言って、さらなる驚くべき経験を述べています。

1. パウロの誇り

【新改訳2017】Ⅱコリント書12章1~6節
1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。

(1) 「第三の天にまで引き上げられた」パウロ

●パウロが「第三の天にまで引き上げられた」という話は、パウロがこの手紙を書いている14年前の出来事です。14年前に起こった主の幻と啓示をパウロは三人称を用いて話しています。これはユダヤ教のラビが自分のことを語るときに用いた方法だったようです。三人称で語っても、6節でそれがパウロのことだと分かるように書かれてあります。ところで、14年前とは、パウロの年譜によれば、パウロがタルソにいた時のころであったことが分かります。つまり、バルナバの訪問を受けてアンティオキアの教会に導かれる前の時期です。

●2節「第三の天にまで引き上げられた」と4節「パラダイス引き上げられて」は同義的パラレリズムです。つまり、「第三の天」と「パラダイス」とは同義なのです。「第一の天」は地上から見える天です。第二の天とは宇宙的な天です。しかし「第三の天」(「ラーキーア・ハッシュリーシー」רָקִיעַ הַשְּׁלִישִׁי)とは、神の助けなしには行くことのできない天の領域で、神のおられる天という意味です。パウロは14年前にそこに行った経験を初めて口にしています。

●「引き上げられた」は、いずれも「ハルパゾー」(ἁρπάζω)のアオリスト受動態ですが、2節はその分詞形で「引き上げられた人」を意味します。ただしヘブル語訳は前者が「アーラー」(עָלָה)であるのに対し、後者は「ラーカハ」(לָקַח)が当てられています。ギリシア語の「ハルパゾー」(ἁρπάζω)は新約で14回。①ひったくる( 強奪(略奪)する、(奪い取る;マタ11:12, ( 奪い取るくらいの熱意と勢いで「天の支配」を頂こうとしている) ②さらって行く,つかまえて連れて行く((無理やりに)連れて行く;ヨハ6:15)で使われています。(c) 織田昭 電子版「新約聖書ギリシア語小辞典」改訂第4版。

●「ハルパゾー」(ἁρπάζω)は、キリストの空中再臨の時に主にある者たちが携挙される時に使われている語彙と同じです。これはパウロだけが記している奥義ですが、すでにパウロが天に引き上げられた経験から知り得ることができたのかもしれません。

【新改訳2017】Ⅰテサロニケ書 4書17 節
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

●余談ですが、パウロは天に「引き上げられる」(ἁρπάζω(ハルパゾー))(「アーラー」עָלָה)の経験もあれば、高い所から「つり下ろされる」(χαλάω(カラオー))(「ヤーラド」יָרַד)の経験もしています(Ⅱコリント11:33)。イェシュアの高挙と謙遜をイメージさせます。

(2) 「三度」の意味について

【新改訳2017】Ⅱコリント書12章7~8節
7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。

●8節の「三度、主に願った」の「三度」は、へブル的用法では「三回」という意味ではなく、民数記22章にあるように、「絶え間なく、連続的に、繰り返し」という意味です(民22:28, 32, 33)。

【新改訳2017】民数記22章28~33節
28 すると、【主】がろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」
29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」
30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたが今日この日までずっと乗ってこられた、あなたのろばではありませんか。私がかつて、あなたにこのようなことをしたことがあったでしょうか。」バラムは答えた。「いや、なかった。」
31 そのとき、【主】はバラムの目の覆いを除かれた。すると彼は、【主】の使いが道に立ちはだかり、抜き身の剣を手に持っているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
32 【主】の使いは彼に言った。「何のために、あなたは自分のろばを三度も打ったのか。わたしが敵対者として出て来ていたのだ。あなたがわたしの道を踏み外していたからだ。
33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を避けた。もし、ろばがわたしから身を避けていなかったなら、わたしは今すでに、あなたを殺して、ろばを生かしていたことだろう。」

【新改訳2017】民数記24章10節
バラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵に呪いをかけてもらうためにおまえを招いたのに、かえっておまえは三度までも彼らを祝福した。

【新改訳2017】Ⅰ列王記17章21節
そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、【主】に叫んで祈った。「私の神、【主】よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」

●「三度」ということばは「絶え間なく、連続的に、繰り返し」という意味の他に、「決定的な」という意味もあります。主がペテロに対して「三度、わたしを知らない」と言うとか、主がペテロに三度、「わたしを愛するか」と尋ねられたことがそうです。イェシュアがゲッセマネで祈ったときも「三度」(マタイ26:44、マルコ14:41)、ピラトもイェシュアを尋問して無罪を主張したのも「三度」でした(ルカ23:22)。Ⅱコリント書12章8節のパウロが「三度、主に願った」という場合、「絶え間なく、連続的に、繰り返し」という意味と、「決定的な神のみこころ」という意味があるように思います。つまり、パウロの願いにもかかわらず、とげは14年間も刺さったままであり、サタンの使いは去らず、それがパウロの祈りに対する主の決定的な答えだったということ、それが「三度」が示す意味なのです。

(3) 「主が言われた」という現在完了形のニュアンス

【新改訳2017】Ⅱコリント書 12章9~10 節
9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

●9節の「主は・・・と言われました」の「言われました」は現在完了形です。現在完了形とは、過去になされた出来事、その状態が現在も続いていることを表わします。つまり、パウロは14年前から継続的に、変わることなく、苦痛の目的を「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」という主の恵みのメッセージとして受け取っていたことになります。ギリシア語は時制がきわめて重要です。これはヘブル語にはないギリシア語特有のものです。

2. 「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」とは  

●「わたしの恵みはあなたに十分である。(というのは、)わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」は、本来二つの分節からなっており、後文は理由を示す「というのは」の接続詞「ガル」(γάρ)が原文にはあります。そして結果を示す「ですから」の接続詞「ウーン」(οὖν)の後に「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」となっています。

●パウロは肉体のとげが自分に与えられた意味を悟ったのです。その目的とは「私が高ぶることのないように」(7節)と、「キリストの力が私をおおうために」(9節)です。それゆえに、パウロは「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と述べています。「弱さ(複数)を誇る」とは、「キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難(すべて複数)を喜ぶ」ことと同義であり、結論として「私が弱いときにこそ、私は強い」という逆説的な確信へと至っています。

●主の言葉である「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」(10節)とは、パウロが強がりで言っているのではありません。その根拠は何かと言えば、キリストの復活の事実にあります。「弱さ」と訳されたギリシア語は「アスセネイア」(ἀσθένεια)ですが、ヘブル語の動詞「ハーラシュ」(חָלַשׁ)の初出箇所を見ると、「敵に打ち破られること」を意味します。まさに、パウロがサタンの使いに打ち破られることを、神はお許しになったのです。Ⅱコリント書の中にもそのことを裏付ける記述があります。それはパウロが死者をよみがえらせてくださる神に頼る者とならせるためだったのです。

【新改訳2017】Ⅱコリント書 1章9 節
実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(死刑の宣告を受けた思い=耐えられないほどの圧迫と死の危険)

【新改訳2017】Ⅱコリント書 4章14 節
主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

【新改訳2017】Ⅱコリント書 5章15節
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

【新改訳2017】Ⅱコリント書 5章17 節
・・・だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
【新改訳2017】Ⅱコリント書 3章6 節
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

【新改訳2017】Ⅱコリント書 13章4 節
キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。

●たとえこのような記述がなかったとしても、パウロが立っている拠り所は、常に、キリストの復活にあり、自分もそれにあずかっているという信仰の確信にありました。パウロだけでなく、初代教会の使徒たちはみな同じ信仰に支えられていたのです。彼らもまた弱い者でありながら、キリストにあって強くされた者たちであったのです。

●復活のキリストのうちにあるなら、だれでも「新しく造られた者」であり、それは同時に「御霊に仕える者」となることです。それゆえに、パウロはどんな苦難に見舞われても、キリストにあって立ち上がることができました。「弱さ」(複数)とは「病、困難、苦しみ、無力さ」を意味します。パウロの肉体に与えられた「とげ」(「スコロプス」σκόλοψ)が何であったのか分かりません。「眼病」だったという人もいますが、確かなことは分かりません。いずれにしても、パウロに痛みと苦しみをもたらした身体的苦痛であることは言うまでもありませんが、それが与えられた目的はパウロが高慢になることなく、キリストの復活の力が完全に現れるためだということです。神は私たちが弱くなることをお許しになりますが、それは私たちが神の復活の力を受けるためにほかならないのです。

●「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」にある「十分である」も、「完全に現れる」も現在形です。「十分であった」(過去形)でも「十分であるだろう」(未来形)でもなく、常に「十分であり続ける」という現在形です。また、主の復活の力も「弱さのうちに完全に現われ」続けるのです。コリントの教会の人々は、パウロの弱さのうちに主の力が完全に現わされていることを知らなかったのです。そのように考えるならば、確かに「とげ」はサタンの使いでしたが、神の視点からすると、パウロのとげは神からの贈り物だったと言えるのです。キリストの十字架と復活の恵みが、そのままパウロにも適用されているのを見るのです。

●それゆえ、パウロは「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と言っています。「キリストの力が私をおおう」の「おおう」はギリシア語の「エピスケーノオー」(ἐπισκηνοώ)で「宿る、宿営する」とも訳されます。「エピスケーノオー」の「エピ」(ἐπι)は「上に」の意味で、「スケーノオー」(σκηνοώ)は「天幕を張る」という意味です。ここにしか使われていない語彙です。Ⅱコリント5章では、パウロは自分のからだのことを「地上の住まいである幕屋」にたとえていました。この幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいていると言っていますが、それは天からの住まいを上に着たいからです。そしてそうなるようにふわしく私たちを整えてくださったのは、神であり、神はその保証として御霊をくださいました。ですから、私たちはいつも心強いのですと述べています(Ⅱコリント5:4~6)。「キリストの力が私をおおう」とは、終末論的なからだであり、復活したからだ、すなわち、「血肉のからだ」のことではなく、「御霊のからだ」(Ⅰコリント15:44)のことです。

●それゆえパウロは、「私たちは自分の弱さを誇りましょう」と語っています。「誇りましょう」の時制は未来形中態です。中態は、主体的、自発的な意志を表します。パウロは「キリストの力が私をおおう」ことを常に求めていた人です。つまり、パウロはいつも復活のことを考えていた人です。それは単なる神学的な教義としてではなく、御国における至上の経験としてです。キリストにある者として、私たちもキリストの復活にあずかることを常に信じて、自らそれを求めていきたいと思います。

2019.6.13


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