****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「復活のからだ」とは何か


付記(25). 「復活のからだ」とは何か

ベレーシート

●今回の説教は、十字架の死と埋葬の後、安息日を挟んで後に起こったイェシュアの復活の出来事を取り上げます。ただし、今回は復活の出来事よりも、これまで取り扱ったことのなかった「復活のからだ」とはどのようなからだなのか、ということに焦点を当ててみたいと思います。というのは、これこそ私たちがやがて与えられるものだからです。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙3章20~21節
20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます

●主を信じる私たちが、キリストご自身の「栄光に輝くからだ」と同じ姿に変えてくださるということ、それこそが、イェシュアがこの地上で十字架にかかり、死んで復活してくださったという「福音」(良いおとずれ)を意味する出来事だからです。ギリシア語で「福音」のことを「ユーアンゲリオン」(εὐαγγέλιον)と言います。それは文字通り、「ユー(εὐ)」は「良い」という意味、「アンゲリオン」(αγγέλιον)は「知らせ」という意味です。ところが、良き知らせの内実はこの言葉からは分かりません。しかし、それに相当するヘブル語は女性名詞の「べソーラー」(בְּשׂוֹרָה)で、その語幹は「バーサル」(בָּשַׂר)で「良き知らせを伝える」という意味を持っているのです。しかもこのバーサルを男性名詞にすると「バーサール」(בָּשָׂר)となり、それは「からだ」を意味するのです。従って、ヘブル語の概念における神の「良き知らせ」とは、「からだ」に関することだと分かるのです。ですから、死者の復活があるのかないのかという問題はさておいて、あくまでも、キリストが復活されたという前提で、「復活のからだ」とはどのような意味で「福音」となるのか、そのことを考えてみたいと思います。

【新改訳2017】ヨハネの福音書11章25~26節
わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。

●イェシュアの問いかけである上記のみことばを信じることがなければ、復活のからだのすばらしさを話したところで意味がありません。あなたが、たとい死んでいても、あるいは生きていても、永遠に決して死ぬことがないのは、「復活のからだ」にあずかるからです。

●イェシュアは、「復活のからだ」の初穂として、死者の中からよみがえられました。このことはすでに旧約聖書の書の例祭(レビ記23章)の中の「初穂の祭り」の中に預言されていたことなのです。ちなみに、新約聖書の四つの福音書の復活の出来事を記している箇所には、一様に「週の初めの日に」とあります。つまり「初穂の祭り」は、安息日の次の日でなければならなかったのす。

【新改訳2017】Ⅰコリント書15章20~22節
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

●いまだかつて、だれ一人として、栄光に輝くキリストの「復活のからだ」を与えられた者はおりません。イェシュアによって死からよみがえった人はいます。例えば、ヤイロの娘とか、ナインに住む女のひとり息子とか、ラザロといった人たちです。しかし彼らはかつての生まれながらの血肉のからだで蘇生し、そして死んでいます。イェシュアのような「復活のからだ」ではありません。イェシュアの「復活のからだ」は御国の福音における初穂であり、やがて御国が完成し、そこに入る者たちの先がけとしての「初穂」なのです。ですから、御国に入るためには、「復活のからだ」に変えられなければならないのです。

●私たちはみな血と肉をもっているので、イェシュアもまた同じように、それらをお持ちになりました。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブル9:22)とあるように、それはひとえに私たちの罪を贖うためだったのです。十字架上で一滴残らず注いでくださった主の血潮によってのみ、私たちのすべての罪は贖われ、赦され、神の子として受け入れてくださいました。しかし罪が赦されただけでは、それは御国の祝福を享受するための消極的な面でしかありません。より積極的な面としては、「血肉のからだ」が、「御霊のからだ」に変えられなくてはならないのです。キリストが復活されたのは、「御霊のからだ」に変えられたことを意味します。イェシュアはこの「御霊のからだ」の初穂なのです。そしてそれと同じからだに私たちを変えてくださるために、主は再び来られるのです。

1. キリストの復活のからだの特徴 

●ところで、「復活のからだ」とはどのようなからだなのか、復活したイェシュアを記す福音書、および使徒の働きから、「復活のからだ」の特徴を見てみましょう。

① 復活したイェシュアは霊(幽霊)ではありません。なぜなら、女たちが近寄ってイェシュアの御足を抱いて拝んだとあるから(マタイ28:9)。またパンを裂かれたこと(ルカ24:35)。焼いた魚を食べたこと(ルカ24:43)。すなわち、骨肉を持ったからだである (ルカ24:39)ことを示しています。

② エマオの途上で二人の弟子たちにイェシュアは現われましたが、別の姿であったため、気づかれませんでした(マルコ16:12、ルカ24:16)。つまり、以前の姿とは異なっていたことを示している。

③ 一瞬にして、姿を消されました(ルカ24:31)。瞬間移動ができるからだであることを示しています。

④ 弟子たちに聖書を悟らせ、行動の指示を与えました。たましいの働きは変わらないことを示しています。

⑤ 戸が閉められた弟子たちのところにイェシュアは入って来ました。物質に妨げられないからだであることを示しています。

⑥ 十字架で釘を打たれた手と槍で刺されたわき腹を示されました。そこからは血が流れていない霊のからだになっていることを示しています。

⑦ 弟子たちが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられました(使徒1:9)。空中に浮遊しかつ移動できるからだであることを示しています。

⑧ 「復活のからだ」をもって神の右に座しておられます。また、そのからだで再臨されます。

⑨ 「復活のからだ」とは死ぬことのない、不死のからだであることを示しています。


2. 「復活のからだ」が与えられる順序 

●「復活のからだ」が与えられるのにも、順番があると使徒パウロは述べています。

【新改訳2017】Ⅰコリント書15章23~24節
23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
24 それから終わりが来ます。

画像の説明

●すでにキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえりました。次に続くからだの復活における各段階の説明をすると以下のようになります。

〔第一の段階〕・・キリストの空中再臨の時に、まずキリストにある死者が朽ちないものによみがえり、次に生き残っている人たちが空中に引き上げられます。この時に生きている人々も朽ちないからだに変えられます(Ⅰテサロニケ4:16~17、Ⅰコリント15:52)。これら教会に属する者たちは御国において、王である祭司としての働きが委ねられます。

〔第二の段階〕・・旧約の聖徒たちは、「教会時代」の後に続く七年間の大患難時代(ヤコブの苦難の時)の終わりに復活します。さらに、患難時代に主を信じた聖徒たちです。ユダヤ人もいれば異邦人もいます。この時に殉教した者はキリストの地上再臨直前に復活します(黙示録20:4)。彼らは地上でのメシア王国において、キリストとともに王として諸国の民を治めることになるのです。

〔第三の段階〕・・千年に及ぶメシア王国の最後に、イェシュアをメシアと信じなかった人々が復活しますが、それは第二の死に定められるためです(黙示録20:5)。


2.「血肉のからだ」から「御霊のからだ」へ

●イェシュアをメシアと信じる私たちのからだには、御霊の種が与えられています。しかし、まだその種を全開させることができません。今はただそれを待ち望んでいる状態です。メシアの再臨の時(千年王国)においては、サタンが「底知れぬ所に投げ込まれ、そこが閉じられ、封印される」ために、一切の惑わしがなくなるため、御霊の種は実を結びます。もし御霊の種が実を結ぶならばどうなるでしょうか。神のトーラー(律法)の要求が完全に満たされることになります。なぜなら、完全な御霊のからだになることで、神のみこころを完全に行うことができる者となるからです。だれからも教えられなくても、主を知ることができるようになります。御霊がそれを可能にしてくれるからです。

 【新改訳2017】ローマ書8章9~11節
9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
10 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。

●「死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」-これが復活の希望であり、初代教会が伝えた福音なのです。

(1)「御霊のからだ」の必然性

●教会に属する者たちは空中再臨の時に、獣と呼ばれる反キリストの支配による大患難時代に主に立ち返ったイスラエルの民、および旧約の聖徒たちは、キリストの地上再臨の時に御霊のからだに復活し、また変えられるのです。使徒パウロはこう言っています。

【新改訳2017】Ⅰコリント書15章50~53節
50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

●ここでは、神の国のすばらしい栄光を味わい楽しむためには、朽ちることのない新しいからだ、すなわち「御霊のからだ」を持たなければならないことが語られています。

(2) 「御霊のからだ」は、生まれながらの人間には理解できない事柄である 

●「血肉のからだ」(「生まれながらのからだ」-「ソーマ・プシュキノン」σῶμα ψυχικόν)のいのちは「血」にあります。しかし「御霊のからだ」(「ソーマ・プニューマキコン」σῶμα πνευματικόν)のいのちは「血」ではなく、「霊」にあるのです。パウロは同義的パラレリズムを用いて、「血肉のからだ」と「御霊のからだ」の特徴を表現しています。

①「血肉のからだ」で蒔かれ、「御霊のからだ」によみがえらされる。
②「朽ちるもの」で蒔かれ、「朽ちないもの」によみがえらされる。
③「卑しいもの」で蒔かれ、「栄光あるもの」によみがえらされる。
④「弱いもの」で蒔かれ、「強いもの」によみがえらされる。

●「蒔く」とは、種を蒔くことを意味します。いろいろな地上の種を見てもそれが天上にあるどんな実によみがえるのか、想像もつきません。この世のものであれば分かりますが、御国においてどのような実となるのかは分かりません。神のみがご存じなのですが。しかし、一つ分かることは、「御霊による、朽ちないもの、栄光あるもの、強いもの」によみがえらされるということです。

●イェシュアは、ヨハネの福音書3章で、パリサイ人の一人でニコデモという人にこう言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:5~8)

●「御霊によって生まれた者は霊です」とありますが、そのことは「肉によって生まれた者」には理解できないのです。したがって「霊のからだ」も、「御国」と同様に、生まれながらの人間にはとても理解できない事柄なのです。

(3) 御霊のからだは、私たちの想像をはるかに超えている 

●イェシュアはこう言われました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:38)。ここにある「祭りの日」とは仮庵の祭りで、キリストの再臨を意味する祭りなのです。それはメシア王国の完成する時を表しています。その時になると、イェシュアをキリストと信じる「人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るように」なるのです。「生ける水」とは御霊のことです。それが「一人の心の奥底から、流れ出るようになる」とは、人が御霊に完全に支配された新しいからだになるという意味です。つまり、限界のある血肉のからだではなく、決して渇くことのない、完全な「御霊のからだ」になるという預言です。このような「御霊のからだ」を持った人はこれまでだれもいません。もしこのような人が存在するとすれば、「走っても力衰えず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)からだとなるはずです。

●私たちが走っても疲れないためには、からだのあらゆる器官に血を送り続けなければなりません。しかしたとえ優れたマラソン選手であったとしても、やがて心臓は持ちこたえることができなくなります。マラソン選手でなくても、ちょっと歩くだけでも、立つだけでも呼吸が乱れる人はいます。いずれにしても、老いとともに血肉のからだはますますその限界を知らされます。しかし「御霊のからだ」に変えられると、血によって生きるからだではなくなるので、限界というものがありません。

●また、肉と骨のからだの面だけでなく、たましい(知情意)の部分も御霊の影響を受けます。ガラテヤ書にある御霊の実―愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制―が完全に、しかも豊かに結実するために、争いのない完全な平和(シャーローム)を楽しむことができます。そしてそこには尽きることのない喜びに満たされることが預言されています。このように、御霊によって生きるからだは、私たちの想像をはるかに超えたものとなるのです。このことを信じているでしょうか。

3. 「御霊のからだ」を待ち望む者の歩み 

●この復活の信仰と希望のゆえに、次のパウロの奨励がひときわ意味を持ってくるのです。

【新改訳2017】Ⅰコリント書15章58節
58ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

●使徒パウロは、コリントの教会の人々について、「いつも主のわざに励みなさい」と命じています。なぜなら、「あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているからだ」と述べています。パウロは「自分たちの労苦が主にあって無駄でない」をどのような意味で言っているのでしょうか。

●御国におけるイェシュアは主の主、王の王です。私たちの働きも、王としての務めと祭司としての務めです。それは御国における諸国民を、権威を持って治め、神を礼拝する務めです。そうした働きに、各自に与えられた分に応じての報いが約束されているのです。「主のわざ」(この語彙は新約でこの箇所のみ)とは、御国のために働くこと、労することであり、そのために一人一人に御霊の賜物が賦与されているのです。

●イェシュアはタラントのたとえを話されました。御国のために、ある人には5タラント、ある人には3タラント、ある人には1タラントが、みこころのままに与えられているということです。大切なことは、この与えられた賜物をいかにして御国のために用いたかが問われるのです。私たちがそれを忠実に用いることが、御国のための訓練となり、同時に、その人の報いとなるのです。つまり、「御霊のからだ」には、それぞれの栄光(報い)があるということです。ですから、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」なのです。

●ギリシア語原文では「堅く立つ」と「動かされない」は形容詞です。つまり、「堅く立つ者」「動かされない者」と「なりなさい」(「ギノマイ」γίνομαιの現中態)と命令されています。つまり、「主のわざ」、すなわち御国のために、いつも自覚的に「堅く立つ者であり続けよ」「動かされない者であり続けよ」ということです。

●また、主のわざに「励みなさい」と訳されたことばは、「豊かになる、卓越する、抜きん出る」という意味の動詞「ペリッセウオー」(περισσεύω)の分詞形が使われています。それは、御国のために賦与された御霊の賜物を働かせて、それを「豊かに、卓越して用いる」者で「あり続けよ」(「ギノマイ」γίνομαιの現在中態命令形)という意味になります。これが「励みなさい」ということばの意味です。それはまさに使徒パウロの生き方そのものです。

●「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」というこの命令を可能とさせ続けるのは、自分の働きが主にあって決して無駄にはならず、それが主に覚えられて、それに対する報いが約束されているという確信があるからです。「今」(主にある血肉のからだ)と、「やがて」(御霊のからだ)とは、決して無関係ではなく、むしろ密接につながっているのです。

2019.4.21


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