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「恵みから恵みへ」

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15. 「恵みから恵みへ」

聖書箇所 25:1~26:19

はじめに

  • 約束の地において、イスラエルの民が「聖なる民」であることを揺るがす危機として、土地取得が挙げられます。荒野においては40年間、神がイスラエルの民に与えられたマナによって養われました。しかし、約束の地では定住生活となり、農耕をし、そこから生み出される農産物によって生活が支えられていきます。この新しい生活が神の民にとってひとつの危機となるということはどういう意味においてか。その危機とは、豊かさのゆえに、豊かな土地と自分たちの労働によって生きているという錯覚をもたらすことです。
  • すでに申命記8章でも、その危機に対する警告が語られていました。「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」(8:17~18)
  • 26章には、土地取得による危機を免れるためのいくつかの神の恵みの手段が語られています。一つは、「初穂のささげものをささげて、信仰告白をなすこと」です。二つ目は、「第三年目に十分の一を納めることによって愛の配慮を示すこと」です。これらは切り離すことのできない事柄として神から命じられています。

1. 神の恵みを覚える手段としての「初穂のささげもの」と信仰告白

  • 約束の地では、農産物として最初に収穫する初穂をもって、「神の御名を住まわせるために選ぶ場所へ行き」、それを神にささげることが命じられています。これは、神の民が土地取得による危機から守られるための神の恵みの手段なのです。「初穂をささげる」ことを通して、すべての農作物が神からの恵みの賜物であるということ、そればかりか、生活のすべてが神の恵みの中にあることを心に留めさせることだからです。
  • しかも、「初穂のささげもの」を、祭司を通して主の祭壇に供えるときに、次の信仰告白をするようにと指定されています。その信仰告白とは、
  • 「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、【主】に叫びますと、【主】は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、【主】は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、【主】、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」(26:5~10)
  • この信仰告白の大切な点は、「主が、この所に導き入れ、乳と密の流れる地を私たちに下さいました」ということです。要点をより短く言うなら、「主から与えられた地」「約束された相続地」であるという告白です。
  • 私たちが毎週、週の初めに神を礼拝し、その中で献金をささげるのはなぜでしょう。教会の運営のために必要だからでしょうか。確かにそうした面はありますが本質的なことではありません。より大切なことは、過ぎた一週間のひとつひとつが神の恵みの中にあったこと、自分自身も含めて、日々の健康も、日々の生活も、日々の守りも、決して当たり前のことではなく、神の御手の中にある恵みによるものであることを感謝するためです。「献金」という行為は、神の恵みによって今があることを忘れることなく、主に感謝するための神の恵みの手段なのです。そこが希薄になるとき、「この私が、この私の力が、これは私の○○」と思うようになり、次第に神の恵みから外れて行くのです。そうならないために、週の初めに私たちは神の恵みを覚えるために、主の御前にささげる「献金」を、感謝をもって携えていくのです。このことに神は必ず目を留めてくださるばかりか、私たちの信仰も守られるのです。
  • 約束の地に入った神の民が、その地とその地で収穫されるすべてのものが神の恵みによって与えられていることを忘れた時、彼らはその地の産物ばかりか、地そのものをも失うことになると警告されました。そして、事実、イスラエルの歴史はそうなってしまったのでした。神のことばは決して侮ってはならないのです。

2. 神の恵みを分かち合う愛の配慮

  • 自分たちの土地は神から与えられたもの(ゆずりの地、嗣業の地)、それを正しく管理して、その恵みを分かち合う。このことを通して、イスラエルの民が「聖なる民」であることを示すことを神は求めておられるのです。
  • 神の恵みは「分かち与えられる」ことを通して、恵みから恵みへと広がって行きます。具体的には「聖なるささげもの」として、第三年目に収穫の十分の一を納め、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、みんなが満ち足りることを経験することで、その地が神から与えられた「乳と蜜の流れる地」であることを確認することもまた恵みの手段でした。
  • これらのおきてと定めとを、心を尽くし、精神を尽くして守ることにより、イスラエルの民は他の国とは異なる生き方を通して、主の「宝の民」となり、「聖なる民」となるという課題を担っていたのです。「あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高く上げる。」(26:18, 19)と約束しています。
  • 主が命じられることに従うかどうか、他の国とは全く異なる生き方に従うかどうか、これは今日においてもなんら変わることのない、神が要求する生き方なのです。

3. 詩篇119篇とのかかわり

  • 詩篇119篇の作者は、神の民が神の恵みを忘れ、自分の力で繁栄を求めた結果、神から与えられた地を失い、神を礼拝する神殿さえも失ってしまった時代に生きていました。この痛み、この苦しみを通して、神のみおしえ(トーラー)のすばらしさをあらためて知ったのでした。

「苦しみに会う前には、私(集合人格としての個人)は過ちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。・・苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(119:67, 71, 72)

と告白しています。そして再び、この神のトーラーに立つべく心を尽くしたのです。そして主にある幸いを見つけたのでした。ゆえに、「幸いなことよ。全き道を行く人々。主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」(119:1, 2)と告白しているのです。


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