****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「新しい創造」と「焼き印」


18. 「新しい創造」と「焼き印」

【聖書箇所】6章11~18節

ベレーシート

※6章11~18節の総論

●この部分はガラテヤ人への手紙の結びの部分です。パウロはここで再び手紙の主題に戻って、結論的な事柄を述べています。パウロのそれぞれの手紙には、表現が異なっていても、内容(本質)はいつも同じことを語っています。へブル的修辞法によるパラレリズムの思考法がパウロの思想を支配しているからです。パウロの言う福音とは、イエス・キリストの十字架において共に死んで、復活において共に生きることなのです。この事実を信じることが「信仰による救い」をもたらすのです。私たちは、この信仰によって、キリストにある「新しい創造(被造物)」とされているのです。へブル的世界の「創造」と「救い」は同義なのです。このことを見失わせる一切の「パン種」(=割礼に代表される「目に見える行い(肉)という誇り」という教え)を排除するパウロの姿勢は、イェシュアご自身の教えそのものであり、神のトーラーそのものです。ですから、教会の中のユダヤ主義的キリスト者たちが持ち込もうとした教え(パン種)に対して、パウロは断固として戦っているのです。それはパウロだけでなく、初代教会の使徒たちも同様でした。ペテロもこう言っています。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙1章23節と2章2節
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
2:2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

●神は混ざることを嫌います。パン種の入らない純粋な神のことばによって成長するためには、御霊の助けが必要不可欠です。その御霊が私たちに働くためには、私たちの肉が十字架につけられなければなりません。そのことを通して、私たちのうちに御霊による自由がもたらされるのです。神の教えであるトーラーを「いのちの木」としてではなく、「善悪の知識の木として食べる」ならば、「必ずあなたは死ぬ」のです。このアダムの犯した呪いから解放するために、キリストの十字架と復活が必要だったのです(ガラテヤ書では十字架が強調されているように思われますが、新しい創造ということばで復活を内包しています)。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章13節
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

●回心前のパウロ(サウロ)は、自分が神のみことばであるユダヤ教の聖書(タナフ)に従って、律法に忠実に従って生きてきたことを固く信じていました。パリサイ派の教師ガマリエルのもとで律法を学んだサウロは、当時のユダヤ教の中でも最高の律法理解と知識を身につけていました。ところが、ダマスコ途上での体験(キリストとの出会い)によって、自分の律法理解が大きな間違いであったことを思い知らされました。そして、キリストの十字架の死こそ、「律法ののろい」から自分を贖い出してくださったことを彼は悟ったのです。「天からの光」による十字架の開眼は、パウロにとって正に青天の霹靂でした。神のみことば、神のトーラーに対する啓示(悟り)こそ、パウロの宣教の原点です。この今回のテキストにある「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(15節)とパウロが言い切る「新しい創造」(「カイネー・クティシス」καινὴ κτίσις)という語彙、さらには、「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」(17節)にある「焼き印」(「スティグマ」στίγμα)という語彙の意味を、結びの二つの鍵語として心に留めたいと思います。

■ 6章11節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章11節
ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています。

●11節からは、パウロが直筆で書いています。パウロが目の病気でよく見えなかったという説と、パウロはギリシア語がうまく書けなかったという説があります。そのため代筆してもらっていたようですが、結びの部分はなんと自分の手で書いています。しかも「こんなに大きな字で」とあります。私たちも強調する場合、その部分を太文字にしたり、アンダーラインを引いたりしますが、パウロの場合は、「びっくりするような大きな文字」です。しかし、その内容はきわめて重要なことについて書き記したのです。

■ 6章12節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章12節
肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。

●パウロの目には、ユダヤ教的律法主義者たちが自らキリスト者と称しながら、割礼を説くことで、敵対的な同胞からよく見られたい「肉的なキリスト者」として映りました。依然としてユダヤ教を引きずっている者たちです。そのために、彼らは福音を信じる異邦人たちにも割礼を受けることを強要していました。

●この手紙は、信仰によって義と認められるか、それとも行いによって義と認められるかという戦いです。それは、神とのかかわりが「目に見える外面的なものによってか、それとも目に見えない内面的な(霊的な)ものによってか」という戦いです。福音は、その本質において、目に見えない内面的で霊的なものです。ユダヤ人からの信用を得ようとして、肉において外見を良くしたい(見栄を張る)者たちは、キリスト者として迫害されたくないただそれだけのために、ガラテヤ人に割礼を受けさせようとしているのです。このような途中半端なキリスト者、すなわち、「混ざりもの」を神は嫌うのです。イェシュアも弟子たちにパリサイ人や律法学者たちの「パン種に気をつけよ」と言っていましたが、彼らはいつも外見だけを気にする人々だったからです。もし、キリスト者になっても、いつも人に対して外見を良くしたいと思っているとすれば、キリストの十字架を否定しているに等しいのです。キリストの十字架は人間のあらゆる肉的な誇りを打ち砕くものだからです。

■ 6章13節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章13節
割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。

●前節の理由を示す接続詞「ガル」(γὰρ)があります。目に見える割礼という儀式で満足していること、安息日遵守という目に見える規則を守るだけで、人から批判されることもなく、安心していられるという自己防御的律法主義に対して、パウロは「割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです」と叱責しています。

■ 6章14節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章14節
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。


●「肉を誇る」彼らに対して、それを否定する接続詞「デ」(δὲ)によって、「私にとって(「エゴー」ἐγώの与格「エモイ」ἐμοὶ)、~になることはない(μὴ γένοιτο)」と言い切っています。何になることはないのかと言えば、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外のものを誇りとすること」です。すなわち、「キリストの十字架を誇るパウロの姿勢、このキリストによって、世は私に対して、私も世に対して、「十字架につけられている」(現在完了受動態)、つまり、「世」(「コスモス」κόσμος)とのかかわりに対する明確な断絶の意識です。「死んでいる」ゆえに、肉に対して「誇ることはない」と言っているのです。これはパウロがガラテヤ書2章19~20節で言っていることです。

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙2章19~20節
19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

●神に生きるために、真の律法によって、自分が生きてきた律法主義に対して死んだのです。どのように死んだのかと言えば、「キリストとともに十字架につけられた」ことによってです。それゆえ、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きている。この信仰によって今この時を生きているのだとパウロは言っているのです。信仰はやがて消え失せ、人は完全な「神の似姿」とも、「神のことば」ともなるのです。これこそが、天地創造の時からの神のご計画であり、「神と人とがともに住む」というマスタープランなのです。

●律法主義からの解放、外見を気にし、人から立派に見られようとする肉からの自由、キリストが私のうちに生きて「神の似姿」に変えられるという祝福、これは十字架という死の門を通らなければならないのです。それゆえ、たとえ多くのユダヤ人がつまずきを覚えることがあったとしても、パウロはキリストの十字架を誇りとすると言っているのです。

■ 6章15節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章15節
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

●この信仰が与えられたならば、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません」と言うことができるのです。強意の反意の接続詞「アッラ」(ἀλλὰ)によって、「むしろ、大事なのは新しい創造」だと宣言することができるのです。Ⅱコリント5章17節にも同様の信仰宣言があります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」・・・これはキリストにある私たちの終末論的存在を宣言しています。「闇から光へ」「夕があり、朝があった。○○日(「ヨーム」יוֹם)」という神のみわざです。

●「新しい創造」も「新しく造られた者」も同じく「カイネー・クティシス」(καινὴ κτίσις)で、神による新しい被造物なのです。この新しい創造となるには、十字架という死の門をくぐらなければなりません。まさに「夕があり、朝があった」(創世記1:5, 8, 13, 19, 23, 31)という神の救いのみわざは、暗闇から光へ救い出してくださった神のみわざを言い表しているのです。それは、イスラエルの出エジプトの出来事、バビロンの捕囚からの解放という出来事、そしてキリストによる十字架の死と復活という歴史的出来事によってすでに啓示されました。やがてキリストの再臨によってその救いのみわざは完成されるのです。つまり、神の家は永遠に完成される(=「シャーヴァト」שָׁבַת)のです。

■ 6章16節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章16節 
この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。

●冒頭の「カイ」(καὶ)は「それゆえ」の意味。「この基準にしたがって進む人々」は、原文では「このような基準に従った生き方(歩み)をする人はだれでも」です。「このような基準」とは、「キリストの十字架の死と復活によって新しい創造に与ること」です。動詞の「進む」と訳された「ストイケオー」(στοιχέω)は「歩む、生き方をする」という意味の未来形です。「準」と訳された原語は「カノーン」(κανών)で「定規・尺度・法則・原理」とも訳せます。「正典」を意味する英語の「cannon」の語源です。

●「この基準にしたがって進む人々」のことを、パウロは「神のイスラエル」と言い換えています。このフレーズは聖書でこの箇所にしかありません。「神のイスラエル」ということばが、文脈的には「教会」を指していることは事実です。ある人々はこのフレーズをもって、教会がイスラエルに完全に置き換えられたと主張します。しかしパウロはイスラエルと教会は明確に区別しています。それぞれが神に愛され、その扱いも異なります。ここでパウロが「神のイスラエル」と言ったのは、「この基準にしたがって進む人々」こそ「神のイスラエル」という意味であり、ヤコブが神によって「イスラエル」と改名されたペニエル経験の出来事が背景にあるフレーズだと考えられます。「イスラエル」(יִשְׂרָאֵל)とは「神が支配される」という意味であり、そのような人々には、ヤコブがそうであったように、当然、主の祝福と守りがあります。ですから、神の「平安とあわれみがあるように」とパウロは祈っているのです。

■ 6章17節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章17節
これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。

●この箇所にイエスの「焼き印」(「スティグマ」στίγμαの複数形「スティグマタ」στίγματα)というフレーズがここ一回限りで使われています。これは奴隷に自分の所有を示す焼き印のことではありません。その証拠は、「焼き印」という語彙が複数形になっているからです。事実、パウロの身には、キリストのために受けた多くの苦難によって、数々の傷痕が刻まれていたのです。これこそパウロがキリストの使徒であり、キリストの証人であることを雄弁に語っているのです。

●ですから、「これからは、だれも私を煩わせないようにしてください」とパウロはガラテヤの教会の人々に願っているのです。「これからは」とは「今後」という意味。「だれも私を煩わせないようにしてください」とは、「だれも私に数々の迷惑をもたらさないでくれ」という意味の現在命令形です。むしろパウロが伝えた「キリストの福音」(1:7)、すなわち、「私が宣べ伝えた福音」(1:11)に堅く立って、ユダヤ主義的キリスト者たちが伝えた「ほかの福音(異なる福音)」(1:6)のことで、今後、これ以上、「私に迷惑を、面倒をかけないでくれ」と命じています。

■ 6章18節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙6章18節
兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。

●「キリストの十字架だけが誇りである」とするパウロにとって、キリストの十字架は「恵み」(「カリス」χάρις)という一語に尽きるのです。「キリストの恵み、汝に足れり」―これはパウロのみならず、「キリストにあって新しく造られた私たち一人ひとり」にも語られているのです。それをここでは「あなたがたの霊とともに」と表現されています。

2019.11.21(完)


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