「日の下」での人生哲学は屁理屈に過ぎない
伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。
聖書を横に読むの目次
7. 「日の下」での人生哲学は屁理屈に過ぎない
【聖書箇所】7章1~29節
ベレーシート
- 伝道者の書7章から多くの箴言がまとめられ、心に響く格言が散りばめられています。「日の下」にも、急所を突いた真実な知恵のことば、人生哲学があります。ある特定の宗教を信じていなくとも、多くの人が心に元気をもらえるような知恵の言葉を求めています。伝道者の書のソロモンもそのような知恵とそれにかなった道理を求めたようです。特に、27〜29節にそのことが記されています。
【新改訳改訂第3版】伝道者の書7章27〜29節
27 見よ。「私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである」と伝道者は言う。
28 私はなおも捜し求めているが、見いださない。・・・・・
29 私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。
1. 心に響くこの世の知恵のことば
- 7章1〜9節を読むと何と含蓄のある格言かと思います。「AはBにまさる」とか、「AよりはBのほうがよい」という修辞法は知恵文学のひとつの特徴のようです。辛辣な表現ですが、いずれもそれを聞く者を「なるほど」という思いにさせます。その格言を少し抜粋してみたいと思います。
【新改訳改訂第3版】伝道者の書7章1〜6節
1 良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。
2 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
3 悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。
4 知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。
5 知恵ある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。
6 愚かな者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている。これもまた、むなしい。
●3節をリビングバイブル訳では「悲しみは笑いよりまさっています。悲しみは、私たちの心から不純物を取り除く効果があるからです。」と訳しています。
●4節の「知恵ある者の心は喪中の家に向き」を、リビングバイブルでは「りこうな人は死についてじっくり考えます」と訳しています。
●5節の「愚かな者の歌」とは、称賛や、ちやほやするへつらいの言葉を意味します。そのような言葉よりも、りこうな人からの痛烈な批評を受けるほうがましだとしています。
●6節をリビングバイブル訳では「ばか者のお世辞は、火にくべた紙切れのように、何の役にも立ちません。そんなものに心を動かすとは、ばかもいいところではありませんか。」と訳しています。●これらは「日の下」での人生哲学であり、生きる上で多くの利点があると思われます。
2. 知恵と物事の道理を見つけようとした伝道者の結論
- しかし、伝道者はさらに「知恵者」になろうとして、できる限りの事をして知恵と物事の道理を見つけようとしました。
- 「道理」と訳された原語は「ヘシュボーン」(חֶשְׁבּוֹן)で旧約では41回、そのうち3回が伝道者の書にあります(7:25, 27/9:10)。その複数形は「ヒッシャーヴォーン」(חִשָּׁבוֹן)で、旧約では2回、そのうちの1回が伝道者の書で用いられています(7:29)。
- ここでは伝道者が見出した結論的部分の29節に注目すると、「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めた」とあります。「多くの理屈」を新共同訳では「複雑な考え方」と訳しています。これは筋道の立たないこじつけ、すなわち、「屁理屈」と訳せます。神から離れた人間の罪は、人の存在の意味や目的について勝手な屁理屈をつけていることを意味しています。
- たとえば、「人はなぜ死ぬのか」という疑問に対しても、多くの屁理屈を捜し求めて答えるに違いありません。「死という現実」に対して、納得のいく道理が「日の下」では見つけることはできないのです。ということは、人間の本当の生きる意味とその目的の道理を見つけることができないことを意味します。真の道理は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と宣言して、人間の最後の敵である「死」を打ち破られたイェシュアしかおられません。この方にあって、初めて、私たちは「日の下」にある「空の空」から逃れることができるのです。
2016.3.9
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