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「渇き」をいやす生ける水

3.「渇き」をいやす生ける水

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聖書箇所; ヨハネの福音書7:37~39、4:13~14、

イザヤ書55:1~3、エゼキエル書47:1~5

はじめに

  • 五旬節の瞑想の旅の第三回目は、「水」というシンボルであらわされている聖霊についての瞑想です。「渇きをいやす生ける水」と題して瞑想したことを書き記したいと思います。主要な聖書箇所は二箇所、いずれも、ヨハネの福音書から取り上げます。

    (1) 7章37~39a節 ―群衆に対してー
    「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(脚注)


    (2) 4章13~14節 ―サマリヤの女に対してー
    「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』

  • イエスが語られた上の二つの聖書箇所はとても不思議なイメージです。絵や映像では表現することが難しいのではないかと思います。このイメージを一言でいうならば、それは、
    永遠のいのちへのあふれをもたらす泉、人間の内なる渇きをいやす生ける水」であると表現したいと思います。

1. イエスが語られた聖霊の存在とその働き

  • 聖霊なる方はとても柔和な方で自分の存在を自ら主張することなく、いつも控え目で、むしろ御子イエスにスポットが当たるようにされる方ですが、ここでは御子イエスが御霊についてスポットを当てておられます。つまり、イエスご自身がいつも自分に寄り添っておられる御霊について語っているのです。そのような箇所が聖書の中にいくつかありますが、その一つが「水」というシンボルによって言い表わそうとしておられるのです。
  • ヨハネの福音書7章では聖霊(御霊)を「生ける水」と表現します。同、4章では「わたしが与える水」としています。その働きは「人の心の奥底から、川のように流れ出」し、「泉となって、湧き出」ます。これはヨハネ4:10で「神の賜物」でもあるとイエスは言っています。サマリヤの女に対してイエスは、「もしあなたが神の賜物(御霊のこと)を知っていたなら、あなたの方からそれ(その方)を求めたことでしょう。」と言われました。それほどにこの「神の賜物」はすばらしいのだと言わんばかりです。しかし、このことばの裏を返せば、「あなたが神の賜物を知っていないので、あなたの方から求めることをしないのです。」という意味でもあります。
  • 「流れ出る」いのちの水の川、尽きることなく「湧き出る」泉のイメージですが、大切なことは、その水である聖霊が「永遠のいのち」をもたらすということです。
    「永遠のいのちへの水」(新改訳)
    「永遠の命に至る水」(新共同訳、口語訳)
    「永遠のいのちをもたらす水」(柳生訳)
    とも訳されています。
  • 「永遠のいのち」とは何でしょう。その定義はヨハネ17:3に記されています。それによれば、「永遠のいのちとは、唯一のまことの神(御父)と、その神(御父)が遣わされたイエス・キリスト(御子)を知ること」です。ここでの「知る」とは、単なる知識的に知ることではなく、現実の「愛によるゆるぎないかかわり」を意味しています。御子を知ることは御父を知ることであり、御父を知ることは御子を知ることでもあります。また、御父と御子とのゆるぎない永遠の愛のかかわりを知ること」です。しかもこの御父と御子に御霊はしっかりと寄り添っておられます。「永遠のいのち」、それは、死んでから与えられるものではなく、御子イエスを信じることを通して三位一体なる神の愛の交わりの中に入れられることを意味します。聖霊は私たちの「助け主」として、私たちがこの神との交わりを豊かに経験できるようにとして寄り添って下るのです。この御霊の働きを、イエスは人の腹の奥底から「流れ出る水」、尽きることなく「湧き出る泉」にたとえられたのです。

2. 渇きをいやす生ける水

(1) イエスの「渇き」への促し

  • ヨハネ4:13には、「この水を飲む者はだれでもまた渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」とあります。「しかし」ということば、このことばは強烈な対照を示唆することばです。「この水」と「わたしが与える水」との対比です。前者の「この水(井戸の水)を飲む者は例外なくまた渇きます。ところが、後者である「わたしが与える水」を飲む者(原文は現在分詞、つまり「飲み続ける者)は、例外なく、決して、二度と、いつまでも、渇くことがないとイエスは断言されました。前者の「この水」とはイエスが与える水以外のすべてを意味します。
  • このことを聞いたサマリヤの女は「その水、私にください」とすかさず言いました。そんな便利な水があれば、毎日、わざわざ井戸まで水を汲みにこなくてもいいなあ」と考えたからです。しかしイエスは「わかりました。わたしの与える水をあなたに差し上げましょう」とは言われませんでした。「あなたの夫をここに連れて来なさい」と言ったのです。水と彼女の夫と何の関係があるのでしょうか。それは、彼女をして、「渇き」に対する自覚を呼び覚させるためでした。
  • ヨハネの福音書の7章37節で叫ばれたイエスの呼びかけのことを考えてみましょう。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい。』」とあります。冒頭にある「祭りの終わりの大いなる日に」とあります。別な聖書の訳ですと、「祭りの一番大切な最後の日に」とあります。あるいは「祭りの終わりの最も盛大な日に」とも。祭りの最終日、祭りのフィナーレ、最高潮の場面のときに、イエスが立って、大声で、声を張り上げて語ったことばが、「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」ということばでした。イエスがここで大声で言われたのは、人々の心の中にある「渇き」に気づかせるためでした。
  • ちなみに、ここでいう「祭り」とは「仮庵の祭り」のことです。その祭りの最後には「水取りの儀式」というのがあったようです。「仮庵の祭り」とは、イスラエルの民が荒野で40年間放浪の旅をしたとき、神がにがい水を甘い水に変えてくださったことや、モーセをとおして岩から水を出してくださった出来事を思い出しながら、かつて神が神の民の渇きをいやしてくださったことを思い起こし、そのことを感謝しながら、神の救いの完成を待ち望む時として定められた祭りだったのです。今日でもこの「仮庵の祭りは」ユダヤの新年の祭りとも結びついて、ユダヤ人たちにとって最も盛大な祭りとされています。
  • この仮庵の祭りの最高潮の時には、大祭司がきれいな祭服を着て金の柄杓をもってシロアムの池から汲んだ水を神殿に向かって運ぶ行列を、イエスは多くの群衆とともにご覧になったのです。このときイエスが「聖書のことばにあるように」と語ったのはイザヤ12章の歌です。そこには、こう歌われています。
    「見よ。神は私の救い、私は信頼して恐れることはない。主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた」―(交唱)―「あなたがたは喜びながら、救いの泉(井戸の水)から水を汲む。その日あなたがたは言う。主に感謝せよ。・・」
  • こうした歌を歌いながら、仮庵の祭りが最高潮に向かって行きました。しかしイエスは、多くの人々がただ形式的な祭りを守っているだけで、実は神を信じる信仰から離れてしまっている姿に心を痛めたのだと思います。「これぞ、神が私たちの先祖を荒野で養ってくださった。またやがては私たちは救いの泉から水を飲むのだ」と将来への希望をこめて祭りを行っていたのでしょうが、そのような信仰も失せて、今は仮庵の祭りの時だといって表面的に騒いでいる様子をご覧になり、イエスが大声で言ったことばが、「だれでも渇いているならば、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じているなら、聖書に書いてあるとおりに、その人の腹の底から、生ける水の川が流れ出るようになるのだ。」(ヨハネ7:37~38)でした。
  • 「救いの泉」(救いの井戸)から流れる水(あるいは汲み出される水)は、どこかに行かないと得られない水ではなく、イエス・キリストを信じる者に与えられる「神の賜物」であり、汲めども、汲めども尽きることのない救いの恩寵の泉なのです。この「救いの泉」に象徴される神の御霊こそ、ここでいうところの「生ける水」なのです。そしてそれは今、私たちに提供されているのです。しかしそれを私たちが得るためには、「渇き」という自覚が必要なのです。なぜなら、神さまのすべてのすばらしい賜物は「渇く」者に与えられるからです。
  • イエスが人々に語りかけたとき、よく注意してみると、「渇いている者は、だれでも」(イザヤ書55:1~3参照)と言っています。「渇いている者」とは、渇きを強烈に意識している人、自覚している人です。イエスはそのような者に対して呼びかけていのです。あるいは、人々のうちにある渇きに目覚めるようにとの呼びかけでもあるような気がします。とはいえ、「渇きなさい」と言われて渇けるものではありせん。私たちのすべての生の行動は、すべて「渇き」からはじっているからです。

(2) 「渇き」は神から与えられている危機的サイン

  • 人間のだれしもがもっている「渇き」、その「渇き」の認識は神からのひとつのサイン、神を真剣に求めるようにとの示しだとも言えます。また同時に、渇きへの気づきは神のひとつの「賜物」とも言えます。詩篇42篇の作者は渇きを次のように表しています。

    1節
    鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
    2節
    私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

  • ここでは、生ける神を求めて渇いている様子を「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように」とたとえています。なんとしてでも水を得なければ生きられないという危機的な状況にある鹿に、自らをたとえているのです。ここでいう谷川の流れというのは、私たち日本人がイメージするようなものではありません。ユダヤにある川は日本のように水がいつもとうとうと流れている川ではなく、季節によっては枯れてしまう川なのです。鹿が水を求めて水が流れていた所に来たとしても川が枯れていたとしたらどうでしょう。その渇きはより一段と増すはずです。そんな真剣な、生きるか死ぬかの切羽つまった危機的な状況です。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐ(「アーラグ」עָרַג)ように、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いて(「ツァーメー」צָמֵאいます。」
  • 渇望を表わす動詞「慕いあえぐ」「渇く」という二つのことばが、詩篇ではじめて登場するのがこの詩42篇です。「慕いあえぐ」と訳されたアーラグעָרַגも、「渇く」と訳されたツァーメーצָמֵאも、単に喉が渇くだけでなく、たましいの強烈な渇き、切羽詰まった渇きを意味することばなのです。渇きは、人間のニーズの中でも最も根源的なものであり、切実です。「渇き」はどうしても満たされなければなりません。すべての人はこの「渇き」を満たすべく生きていると言っても過言ではありません。このような「渇ける」たましいに向って、イエスは呼びかけられたのです。
  • もう一度、ヨハネの福音書に戻ってみましょう。
    イエスは「大いなる祭りー仮庵の祭りーの終わりの日に、立って、大声で言われました。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来なさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハネの福音書7:38)。このイエスの叫びは、どんな大きな祭りやイベントに参加したとしても、なお満たされない心があることを見抜いた上での招きでした。
  • イエス・キリストは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6) 「義」とは神とのかかわりを意味する関係概念です。神のすべての祝福の原則は、「義」、すなわち神との親しいかかわりに飢え渇いている者にのみ注がれるということです。
  • ヨハネの福音書では「渇き」は大切なキーワードです。真実の愛に渇いていたサマリヤの女はその良い例です。彼女は自分の心の渇きに気づかずに、男性を繰り返し求めていた女性でした。しかし、イエスとの出会いによって自分の渇きに気づかされ、渇くことのないいのちの水を与えてくださる方に出会ったのです。私たちもこの方とかかわることなしには、たましいの渇きをいやすことはできません。決して、二度と渇くことのない不思議な「生ける水」。そんな水が備えられているのです。サマリヤの女のように、自分の渇きを自覚して、「その水、私にください」と言えば良いのです。

3. 溢れ出る泉、腹の底から流れ出る水の川―預言者エゼキエルの幻をとおして―

  • 水のもつ力を今年の3.11の津波で私たちは教えられました。私は大きな船がビルの上に乗っかっている写真をみたときに、風刺的な写真のように見えました。まさに神の不思議な芸術的な力です。大きな船も家も自動車も、すべてを押し流し、自然を破壊してしまう水の力。そんな大きな影響を与える力こそ、「水」に象徴される聖霊の力です。
  • 預言者エゼキエルという人はよく幻によって神のメッセージを受け取った人です。「風・息」のシンボルで瞑想した37章にある絶望的な「枯れた骨」もそうです。神の息が吹きかけられるとその「枯れた骨」が生き返って、自分の足で立ったという幻。もうひとつの幻があります。今回の「水」に関するもので、47章に出てくる「聖所から流れ出るいのちの水」というヴィジョンでした。そのヴィジョンはこうです。エゼキエル47:1~5参照。
  • 神殿の敷居の下からポシャン、ポシャンと滴り落ちる水の雫が、やがて集まり、水となって流れ出し、その流れは千キュビト(約500メートル)先には足首の深さになっていました。さらなる千キュビト(約500メートル)先ではその流れは膝まで増量します。さらに千キュビト(約500メートル)先では腰のあたりまでになっています。これは大変なことになったと思っているうちに、千キュビト(約500メートル)先では背が立たないほどになり、もう泳ぐしかない川の流れになったという幻です。泳げるうちはまだいいほうです。しかし次第にその流れに逆らうことができないほどに押し流されていく。そんな流れこそ聖霊の持っている力なのです。初代教会はそうした聖霊の流れに押し出されて広がっていきました。しかも、「その流れ行く所はどこででも、・・すべてのものが生きる」(エゼキエル47:9)のです。
  • ここで注目したいことは、聖霊の流れの最初は一滴の雫から始まるということです。ですからだれも最初は気づきません。わかりません。しかし次第にその雫が集まって流れを作り、やがてはだれもが抵抗できないような流れとなって行くのです。このようなだれもが抵抗できないような流れを私たちはどんなにしても自分でつくり出すことはできません。それは聖霊がなさる働きです。
  • 新約においては、「聖所」や「神殿」は、やがて私たち自身のからだを意味するようになります。私たちがなすべきことは、自分のたましいの中から湧き出て渇きをいやす一滴の水(一杯の水)を大切にしていくことです。それはひとつのみことばが与えてくれる感動かもしれません。その感動を大切にして、渇きがいやされることを経験することです。一日一日を主のみことばを味わうことを通して、自分のたましいが満たされることを経験し続けることです。御霊はそのようにしてくださる方です。
  • 朝ごとの恵みの一滴、その驚きの感動がその人の中にひとつの流れをつくり出し、それが次第に大きな流れとなり、やがては自分だけでなく、自分のまわりにも大きな影響を与えていく流れとなっていくのではないかと思います。はじめから大きな影響を与える流れとなることはできません。聖霊は私たちの内側から霊的な感動を湧き出させてくれます。もしそうでなければ、神との交わりは律法的なものとなり、霊的な気づきにも乏しくなり、その結果、継続していくことができなくなります。つまり、霊性の飢饉がもたらされます。まずは自分から、神から与えられる恵みの驚きの一滴、一滴を日々、大切に味わっていくことです。
  • イエスが私たちに下さる聖霊という「神の賜物」は無代価です。
    「もしあなたが神の賜物を知っているなら、あなたの方から求めたことでしょう。」(ヨハネ4:10)―いよいよ、お互いに、神の賜物である聖霊によって「永遠のいのち」のすばらしさを経験し、さらにそれが私たちの内側から生ける水となって流れ出し、泉のごとくに湧き出し続けていけるように、日々の歩みを整えさせていただきたいと思います。


(脚注)
「わたしのもとに来て飲みなさい」の「飲みなさい」は現在時制の命令形です。つまり「飲み続けなさい」という意味になります。「わたしを信じる者は」の「信じる」は現在時制で、「信じている者は」という意味です。そうすれば「その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる。」とあります。「流れ出る」という動詞は未来時制です。未来時制の意味は「必ず」そうなるということを意味します。つまり、未来においての確実な実現を意味します。したがって、ここでの意味としては、「イエスを信じている者は、イエスのもとに来て飲み続けなさい。そうすれば、あなたの心の奥底から、必ず、生ける水が流れ出続けるようになる」という意味になります。


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