「神の奥義」と「神のあわれみ」
パウロのイスラエル論
8. 「神の奥義」と「神のあわれみ」
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【聖書箇所】11章25~36節
ベレーシート
- ローマ人への手紙9~11章の最後のセクションです。そこには「神の奥義」と「神のあわれみ」という重要な語彙が展開されています。新改訳と新共同訳の訳を見比べながら、パウロが最も言いたいことに焦点を当てたいと思います。
節 | 新改訳第三版 | 新共同訳 | ヘブル語 |
25 | 奥義 | 秘められた計画 | 「ソード」(סוֹד) |
25 | 異邦人の完成のなる時 | 異邦人の救いが満ちる | 「マーレー」(מָלֵא) |
26 | イスラエルはみな救われる | 全イスラエルが救われる | |
28 | 愛されている者 | 神に愛されている | 「ハーヴァヴ」(חָבַב) |
29 | 召命は変わることがない | 招きは取り消されない | |
30 | あわれみ | 憐れみ | 「ハーナン」(חָנַן) |
33 | (神の)さばき | (神の)定め | 「ミシュパート」(מִשְׁפָּט) |
34 | 主のご計画にあずかった | 主の相談相手であった |
1.「奥義を知ってほしい」とのパウロの切なる願い
- 「奥義」と訳されたギリシア語の「ミュステーリオン」(μυστήριον)を新共同訳は「秘められた計画」と訳しています。パウロは天からの光を受けて初めて神の秘められたご計画(奥義)を啓示されました。その奥義とは、神によって選ばれたイスラエルの民と異邦人がともに神の共同相続人となるということです。そのために、イスラエルの一部の人々がかたくなにされたのです。しかしその状態は「異邦人の完成のなる時まで」(=異邦人の全数が満ちるまで)であり、その時が来れば、かたくななイスラエルの民は民族的に救われるということです。この「救われる」という内容は、「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う」という契約に基づいています。26節の預言はイザヤ書59章20~21節からの引用です。原典での箇所を見てみましょう。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書59章20~21節
20 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」──【主】の御告げ──
(【新改訳2017】 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに。──【主】のことば。」)
21 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と【主】は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」と【主】は仰せられる。
- 「異邦人の救われる数が満ちる」と、今度は「イスラエルの残りの者」が救われます。これをパウロは「民族的にみな救われる」という言い方をしています。しかしこの約束が成就(実現)する前に、彼らが神の霊(「恵みと嘆願の霊が注がれること」ゼカリヤ12:10)によって悔い改めるのです。これはエゼキエル書39章29節「わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。-神である主の御告げー」の預言と符合します。
- 神の霊と神のことばが彼らの心に刻まれることで、彼らは永遠に離れなくなります。これはエレミヤが預言した「新しい契約」とも符合します(エレミヤ31:31~34)。
2.「神の愛」と「神のあわれみ」
- 神の奥義とは秘められた神の主権に基づくご計画であり、みこころであり、目的が秘められています。しかもそのご計画が実現するプロセスは私たち人間の想像を越えた知恵によって導かれていきます。と同時に、28~32節には神の御旨である「愛されている者」とか、「あわれみ」という言葉が繰り返されています。これらは、神のご計画と目的を実現させる神の心のモチベーションを表わす語彙です。
- 異邦人のゆえに「かたくなにされている」イスラエルの民は、「選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者」(28節)だとあります。ここでの「愛されている者」とは、ギリシア語の形容詞「アガペートス」(ἀγαπητός)の複数形です。この語彙をヘブル語にすると「ハーヴァヴ」(חָבַב)という、旧約聖書で申命記33章3節にのみ、たった一度しか使われていない語彙が当てられています。
【新改訳改訂第3版】申命記33章3節
まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。
【新共同訳】申命記33章3節
あなたは民らを慈しみ/すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。彼らはあなたの足もとにひれ伏し/あなたの御告げを受ける。
【尾山訳】申命記33章3節
まことに主はご自分の民を愛される。主に聖別された者は皆、御手の中にある。彼らは、あなたの足もとに来て、教えを受ける。」
●新改訳の「国々の民を愛する方」という訳を見ると「諸国の民」のことを指しているかのように思われますが、尾山訳では「主はご自分の民を愛される」と訳されており、対象が明確です。ここは、イスラエルの民について語っている「モーセの祝福の歌」なのです。
- 「あわれみ」という語彙もパウロは11章30~32節の中で実に4回使っています。この語彙も神の心中を表現しています。ヘブル語では「ハーナン」(חָנַן)です。パウロはすでに、ローマ書9章15節にも出エジプト記33章19節を引用して、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ(「ハーナン」חָנַן)、自分のいつくしむ者をいつくしむ(「ラーハム」רָחַם)」と語っています。ただし、新改訳の出エジプト記33章19節は「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」となっています。
べアハリート
- 「恵む」ことも「あわれむ」ことも神のお気に入りを意味する語彙であり、神のご計画とみこころには、そうした神の心中の思いが深く関係しているのです。不変の、不可抗力的な神のご計画において、イスラエル人に対しても、異邦人に対しても、神の「あわれみ」は等しく注がれているのです。それゆえ、ローマ書12章1節で、パウロは「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみ(ギリシア語の「オイクティルモス」οἰκτιρμόςの複数、ヘブル語の「ラーハム」רָחַם)のゆえに、あなたがたにお願いします。」と言うことができたのです。上からの命令ではなく、「神のあわれみのゆえに」と嘆願できるのは、神の奥義の中にある「神のあわれみ」を理解する者がいることを前提としているのです。単に、神のご計画とみこころと目的を理解するだけでなく、そこに注がれている神の熱い心である「あわれみ」があることを知らなければなりません。そこに神に仕える者の源泉があるからです。
- 神の主権による神の統治(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)の見事さをパウロは以下のようにまとめています。
【新改訳改訂第3版】ローマ書11章36節
・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。To Him be Glory
2017.7.26
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