****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「神の恵みの御手が置かれる祝福」

7. 「神の恵みの御手が彼に上にあった」

〔聖書箇所〕 7章6節、9節、27~28節

はじめに

  • いよいよ「エズラ記」の主要人物である「エズラ」の登場です。彼は大祭司アロンの17代目の直系であり、「モーセの律法に通じている学者であった」(6節)と記されています。「通じている学者」は、口語訳では「精通した学者」、岩波訳では「造詣の深い学者」と訳しています。11節にも、彼は「主のおきてに精通した学者」とあります。もともと「敏感な」「速やかな」「巧みな」「熟練した」「じょうずな」という意味の形容詞「マーヒール」(מָהִיר)ということばが使われており〔〕、神に喜ばれることを敏感に選り分けることができ、しかも、みことばのとおりに生きる熟練した人物ということができます。
  • このエズラが起こされたことによって、旧約の歴史は整えられ、「モーセのトーラー」(モーセ五書)がまとめられたとされています。詩篇も同時代に編纂されたのですが、その第1篇には「さいわいなことよ。・・まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむ」(2節)とあるように、「主のみおしえ(トーラー)」、すなわち、モーセの五書はすでにまとめられていたのです。エズラが編纂したかどうかは確かではありませんが、少なくともモーセの五書に精通した人が編纂したことは確かです。詩1篇はエズラの作だとする人もいます。
  • しかしそれ以上に、エズラ記が彼を紹介するキーワードは「主の御手が彼のうえにあった(置かれていた)」ということです。どんなすぐれた人物であったとしても、「主の恵みの御手」がなければ、神の民としての指導者としてはふさわしくありません。エズラは、神から与えられた賜物を神の栄光の目的のために用い、その働きを進めたのです。ところで「主の恵みの御手が置かれる」とは、具体的にどんな祝福をもたらしたのでしょうか。その祝福とはどういうものであったのでしょうか。

聖書箇所
7:6エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、【主】が賜ったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、【主】の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。
7:9すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。
7:27~28私たちの父祖の神、【主】はほむべきかな。主はエルサレムにある【主】の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、【主】の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。

1. 王の好意と信任を受けることができた

  • その第一の祝福は、異邦人の王アルタクセルクセスがユダヤ人のエズラに対して好意をもち、かつ信任したことです。7章以降のエズラの働きには、王の許可や信任なしには不可能でした。神は王に働きかけ、エズラを用いたのでした。7章6節には「王は彼の願いをみなかなえた」とあります。これはエズラに対する大変な信任が王にあったことを伺わせます。王はエズラに対して膨大な援助と権威を与えました。そのため、すべての経済的必要は王室の財庫から支出することができたのです。
  • ユダヤ人がペルシアの王からこのように敬意をもって認められることは、他にも、ダニエルやエステルの養父モルデカイなどがおります。二人とも、王の命令であろうとも神以外のものの前にひれ伏して礼拝するようなことをしなかった人物です。

2. エルサレム行きが無事になされたことのなかに、神のみこころと神の守りがあった

  • エズラのエルサレム行きの目的は10節に記されているように、「神の民におきてと定めを教える」というものです。エズラはそのことを「心を定めていた」とあるように、自分がエルサレムに行くその目的を明確に意識して備えていたということです。しかもそのエズラは神によって「奮い立たせられ」ていただけでなく、エズラと共にエルサレム行きの目的を果たすべく必要な人々を集めることができました(8:18~20)。
  • 目的を実現すべく人材と費用を与えられて、さらに兵士の護衛もなく、ただ主を信頼して出発したのです(8:22)。四ヶ月に及ぶ旅路は守られてエルサレムに無事に着くことができました。このことは、みことばによって神の民の再建をするという目的を遂行していく神の促しとみることができるかもしれません。尤も、その目的の遂行は決して易しいものではなかったのですが、少なくともスタート点においては、すみやかな神の導きと守りがあったことは確かです。
  • 宗教改革はみことばの教育運動だったと言われます。ルターやカルヴァンは、それぞれ聖書を自国語に翻訳するために「心を定めた」と言えます。みことばを民衆に教えるために、彼らはみことばをヘブル語やギリシヤ語の原典から熱心に学び、研究し、そして翻訳をしたのです。目に見える生産性を求められる時代において、じっくりと聖書を学ぶことはある種の戦いを余儀なくされます。「そんな時間があるなら、もっと奉仕をしなければ・、もっと伝道をしなければ・・」という内なる声がささやきかけるからです。そうした恐れをもし感じているならば、それは敵から来ている「思い」だと言えます。なぜなら、神のみことばは生涯をかけて学ぶべきものであり、多くのキリスト者がそれに気づかされ、多くの時間をそのことに費やすなら、新たな神の光といのちが輝きはじめると信じます。
  • 神の民をみことば(神のトーラー)によって再教育する前に、エズラ自身がみことばを学んだことを実行し、やがて教えるために整えていたことが、今や時至って、エルサレムへと送り出されたのでした。すべて神の恵みの御手がその背後に置かれていたのです。


形容詞の「マーヒール」מָהִירは、旧約では4回しか使われていません。エズラ7:6、詩篇45:2、箴言22:29、イザヤ16:5です。


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