****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「神を知ること」を安易に考えてはならない


6. 「神を知ること」を安易に考えてはならない

【聖書箇所】ホセア書 6章1~11節

ベレーシート

【新改訳改訂第3版】ホセア書 6章1~3節
1 「さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。
2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
3 私たちは、知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

  • 上記の箇所の3節は、かつて当教会(空知太栄光キリスト教会)において長期にわたって週報の表紙に掲げられて来た聖句です。とても励まされるすばらしい呼びかけだと信じていたからです。しかし今回の瞑想で、このみことばは、1~3節というコンテキストの中に置かれていることばであり、そのコンテキストから考えるならば、3節の呼びかけは必ずしもその真意を理解して語られているのではないことに気づかされました。
  • 「主を知ることを切に追い求める」ということを、果たして正しく理解しているのかどうか、自己点検を迫られることばなのです。うわべのことばの美しさに私たちは惑わされてはならないのです。

1. 安易な「悔い改め」と希望的観測としての「主を知ること」

  • ホセア書6章1~3節には、「主に立ち返る」ことと、「主を知ることを切に追い求める」こととが語られています。この二つのことは密接に連動しています。「主を知る」ためには、神への真の「立ち返り」が求められます。もし、エフライム(北イスラエル)の民がここにある呼びかけに正しく答えていたとするなら、亡国と離散の憂き目を経験することはなかったはずです。しかしそうなってしまったのは、この呼びかけが意味することを安易に考えていたからに他なりません。
  • そもそも、この1~3節のことばはいったい誰が語ったのでしょうか。ある人はホセアが語ったものであると解釈しています。しかし私はそうは思いません。当時のアッシリヤの台頭に伴う度重なる試練と苦難を通して、イスラエルの民の中から「さあ、(私たちは)主に立ち返ろう。」(1節)、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」と呼びかける者たちが現われて来たと考えられます。このことは実にすばらしいことです。ところがそうした呼びかけが、4節以降では主に非難されているのです。つまり、呼びかけと実際の生き方が異なっていたからです。
  • 「主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」(1節)ということは決して間違ってはいないのです。ところが問題は2節です。「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。
  • 「二日の後」も「三日目」も同義ですが、ここの言葉は、「三日目に」イェシュアが復活するという預言でも、またイスラエルの回復を預言しているのでもありません。単に「短い間に」という意味です。つまり、当時の人々の安易な悔い改めによる早急ないやしと自己本位的な希望的願望を示唆するものです。
  • 今日も、「傷ついた者に対するいやし」のメッセージが多く語られています。しかし、真のいやしがもたらされる源泉としての「主を知る」ことの真意を、必ずしも伝えられてはいないのです。「主を知ることを切に追い求めよう」との呼びかけは、言うは易しで、実は簡単なことではないのです。「主を知る」ためには多くの時間を必要とします。愛し合って結婚した夫婦でも必ずしも当初から相手のことを良く知っているとは言えません。夫婦が多くの出来事を共に経験する中で、はじめてお互いのことが良く分かってくるものです。神とイスラエルの民の場合も同様です。ですから、「主を知る」ということを安易に考えてはならないのです。

2. 「あなたがたの誠実は朝もやのようだ」とする主の叱責

  • 「知る」ということは、結婚の契約を結ぶ当事者にとって、生涯をかけて取り組むべき重大な課題です。「主を知る」ことも同様です。主のために多くのこと(奉仕やささげることなど)をしている者が、必ずしも「主を知っている」とは言えないのです。「主を知る」とはどういうことかを瞑想する必要があります。手掛かりとしては「主の御声に聞き従う」(Ⅰサムエル15:22)ことです。主の御声を聞き、それに従うことなく「主を知る」ことは、自己本位的な枠に支配されることになります。主の御声を聞くことがなければ、主がこれからなそうとされる永遠のご計画については知ることはできず、無関心な者となります。そのために主と同じ視点をもってその完成のために共に歩くことはできないのです。つまり、「聞き従わないのは、偶像礼拝に等しい自己本位の罪」なのです。イスラエルの民の悲劇はそこにあります。
  • ですから、主は「あなたがたの誠実は朝もやのようだ」(6:4)と言われるのです。「誠実」とは、ヘブル語の「ヘセド」(חֶסֶד)です。ホセア書で「ヘセド」は6回使われていますが、【新改訳2017】では6章4節、6節は「真実な愛」と訳され、他の箇所では「誠実」と訳されています。この「ヘセド」についてはこちらを参照のこと
  • 神とイスラエルの関係は「夫と妻」という契約関係です。神ご自身が要求し、かつ喜ばれる関係は「夫婦」としてのゆるぎない関係ですが、その関係を回復するためには、妻であるイスラエルの民が夫である「主」を知る必要があるのです。そのためには、妻である主の民が主に立ち返るだけでなく、切に「主を知る」ことが必要です。神とイスラエルの完全な回復はメシア王国の到来によって実現します。そのときはじめて主と主の民は、確固とした「知り、知られる」関係となるのです。これがエレミヤの言う「新しい契約」(31章31~34節)です。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

  • 神の歴史はその方向へと確実に進んで行きます。それゆえ、「御国が来ますように」と祈らなければなりません。「主の祈り」は、まさにメシアの地上再臨によって実現する終末論的な祈りなのです。


    画像の説明

ホセア書6章1~3節の別の解釈

●ホセア書5章1~3節は5章からの続きで、特に5章15節にはこうあります。

【新改訳2017】
「わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」

●つまり、イスラエルが罪を告白しない限り、メシアは戻ってこないことが預言されています。つまりイェシュアは昇天によって天に戻られています。イスラエルがイェシュアのメシア性を否定した罪が告白されないかぎり、メシアの再臨はないことをこの箇所は預言しているということです。

●しかし、メシアが戻ってこられるようにという嘆願がなされるとき(マタイ23:37~39)、ホセア書6章1~3節の布告がなされるというわけです。このホセア書6章1~3節の布告が出されてから、ハルマゲドンの戦いの最後の三日間が始まるのです。2節の「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」というのは、最初の二日間でイスラエルは国家的罪を告白し、三日目にイスラエルは救われるということです。

●イスラエル人たちの「残りの者」たちの嘆願に応えて、イェシュアは再臨のメシアとして地上に戻って来られます。場所は、オリーブ山ではなく、ボツラです(イザヤ63:1a)。再臨のメシアは単独でこの戦いを戦われます。

●ミカ書2章12~13節にボツラに避難したイスラエルの残りの者は、獣と呼ばれる反キリストの軍勢に包囲されますが、メシアが彼らを導き出すのです。

【新改訳2017】ミカ書2章12~13節
12 ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。
13 打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。」

●ボツラで始まった反キリストの軍勢との戦いの後、メシアはオリーブ山に立つのです(ゼカリヤ14:3~4)。その間、三日間です。三日にイスラエルは主によって「立ち上が」り、主の御前に生きるようになるという預言です。

この解釈は、メシアニック・ジューであるアーノルド・フルクテンバウム師によるものです。「ハルマゲドンの戦い」について十分知らなければ理解できないかもしれませんが、説得力のある解釈です(2015年フルクテンバウム博士セミナー「終末論のクライマックス」のレジュメ27~40頁参照)。ただ、この解釈の問題点は、「ハルマゲドンの戦いの最後の三日間」ということが、他の聖書箇所で証言されていないことです。


3節の原文

3 私たちは、知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨(גֶּשֶׁם)のように、私たちのところに来、後の雨(מַלְקֹושׁ)のように、地を潤される(יָרָהのヒフィル態)。

●収穫において地を潤されるために、後の雨が、大雨のように注がれる必要があります。この雨は神の霊と神のことばを象徴しています。これによって神の民は覚醒され、主を知る者となのです。地を「潤される」に使われている「ヤーラー」(יָרָה)のヒフィル態は「水を注ぐ、雨のように浴びせかける、教える、示す」という意味で、これは「トーラー」(תּוֹרָה)の語源となっています。
●出エジプト記15章25節にある「 モーセが【主】に叫ぶと、【主】は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。・・」にある「示された」も「ヤーラー」(יָרָה)が使われ、「一本の木」(単数の「エーツ」עֵץ)と共に「トーラー」(תּוֹרָה)が予表されています。
●ホセア書10章12節の「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が【主】を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」(新改訳2017)にある「雨を・・降らせる」も「ヤーラー」(יָרָה)のヒフィル態が使われています。これは、神のトーラーの教えが人の心に書き記されることをたとえて言っているのです。


2015.4.10


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